月刊「論座」で、岡本行夫さんのインタビューが連載されています。2月号は、第一次湾岸戦争です。岡本さんは当時、外務省北米一課長でした。私は、日本がいかに国際社会で独りよがりだったかの実例として、この時の日本の失敗を出します。参考文献として、手嶋龍一「1991年日本の敗北」(1993年、新潮社。新潮文庫に「外交敗戦―130億ドルは砂に消えた」として再録)を上げています。しかしこれは、あくまで小説です。当事者である岡本さんの証言は、重みが違います。
湾岸危機での日本政府の対応の失敗の原因は何だったのでしょうか、という問いに対し、次のように答えておられます。
「反発を覚悟で率直に言います。第一に時の指導者がビジョンと同盟論を十分に理解していなかった。第二に何人かのカギとなる官僚が事なかれ主義をとったり、国益よりも省益を重視した。第三に国会対策など国内事情から日本の貢献策を海外にPRできなかった。そして第四に、これが基本ですが、国の政策は国会に代表される民意を超えることはできない。つまり、日本はまだ国際安全保障問題に未熟だったことですね」
詳しくは、原文をお読みください。官僚と政治家の失敗が、生々しく書かれています。できれば、その失敗をした他の当事者の弁明も、聞いてみたいのですが。
この時の経験と失敗を勉強することは、日本の政治家と官僚にとって不可欠だと思います。
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行政
官僚制、無責任の体系
それは、官僚制の無責任です。丸山先生は、東京裁判(極東軍事裁判)で被告人(太平洋戦争の指導者)の発言を分析し、首相や大臣など戦争指導者の指導力と責任意識の欠如について、「無責任の体系」と名付けました。
それは、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」によって、成り立っています。前者は、「既に始まってしまったことだから仕方ない」といって、既成事実に流されることです。これは、方向転換できない官僚制の欠点と、同じと言っていいでしょう。
後者は、「法規上の権限はありません」「法規上困難でした」といって、専門官僚に逃げ込むことです。官僚制あるいは官僚的行動が無責任に陥った、最大の実例です。
そこではまた、国策の最高方針を決定する御前会議や最高戦争指導会議などの、討議の空虚さも指摘されています。そこでの討議内容は、あらかじめ部下である軍人官僚によって、用意されているのです。
もっとも、この事例は官僚制の欠点ではなく、政治家と軍人が官僚的に行動したものです。
ねじれ国会・憲法
8日の読売新聞「この国をどうする」、大山礼子教授の 「衆院の権限強化が必要」 から。
・・憲法は、予算や条約については、国政を運営するために決定しなければいけない事項なので、衆院の優越を強く定めています。一方、法律案は、現状を変えようとするものですから、衆参両院でゆっくり議論してもいい、という考えなのだろうと思います。
ただ、予算関連法案は実質的には予算の一部のような法案ですから、衆院の意思をもう少し尊重するような合意を与野党がどこかでしないと、なかなかたいへんだと思います。どちらが与党になっても、ねじれが起きる可能性はあるのですから、合意できる余地はあるのではないでしょうか・・
今は与党が衆院で3分の2以上の議席を持っていますが、次の衆院選でおそらく割り込むでしょう。そのとき、いったいどうするのか。最終的には憲法改正になりますが、衆院の優越を強めないと将来はやっていけないでしょう・・
これまでの国会は、政府法案が提出される前に自民党内の事前審査で大方が決着してしまい、野党との論戦は一応するけれども、法案はあまり修正しないで成立させるのが慣例でした。でも、ねじれ状態では、法案提出後に国会でいろいろなやりとりをして合意を形成しなくてはなりません。
この臨時国会でも、話し合いで成立した法案はありました。ただ、残念なことに、話し合いは国会審議の外で行われ、与野党がどんな主張をし、どの辺りで妥協したのか国民に十分に説明されていません。裏で交渉してもいいが、同時に、国民の前で政策決定のプロセスを演じてみせて記録に残す、ということも民主主義では大切です・・
日本衰退の犯人
日経新聞経済教室は、3日から「08ニッポン再設計」を始めています。4日は、堺屋太一さんの「満足向上へうち弁慶排せ」でした。
・・そんな中で改革が進まないのが日本だ。官僚主導の規格化と計画化で発展した日本は、かつて「最も成功した社会主義国」と揶揄されたが、このままでは「もっとも後に滅ぶ社会主義国」になりかねない。
今世紀に入ってからの日本の相対的衰退は著しい。その原因の第一は、官僚倫理の退廃だろう。・・07年には官僚の失敗が噴出した。こららに共通しているのは、「省益あって国益なし」といわれる官僚機構の仲間共同体化、罰則反省なしの無責任体制、国民の手間と不便を何とも思わない効率思想の欠如、そして幹部官僚の政治家回遊癖だ。
日本の官僚制度は、規格大量生産の近代社会を創るためには有効に働いた。しかし、知価創造が必要な知価社会では機能しない・・
行政組織のガバナンス
大連載を書く過程で、いろんなことを勉強しています。2月号に書き足したことに、ガバナンスがあります。気にはなっていたのですが、なかなか議論が整理できなかったのです。田村達也『コーポレート・ガバナンスー日本企業再生への道』(中公新書、2002年)を読み始めて、少し考えがまとまりました。
近年、企業統治(コーポレート・ガバナンス)が話題になっています。よく見ると、その中には、二つのものが含まれています。一つは、法令や社内規則、企業倫理を守ることです。有名企業で偽装などの不祥事が相次ぎました。これに対しては、内部管理体制の強化(コンプライアンスの強化)が求められます。もう一つは、業績の確保です。法令を守っていても、収益を上げないと、経営陣は株主から交代を求められます。
これを参考にすると、行政組織にあっても、法令順守と業績確保の二つが求められます。年金記録のずさんな仕事は、前者の法令違反に当たります。夕張市の「ヤミ起債と再建団体移行」は、企業の粉飾決算に当たるのでしょう。後者の業績確保にあっては、もちろん行政組織に求められるものは、収益ではありません。
さらに、企業にあっては、売れない商品を作っていたり、高価なサービスを提供していては、他社との競争に負けます。市場で淘汰されるのです。しかし、行政には市場原理は働きません。ムダな政策であっても、コストの高い事業でも続けられるおそれがあるのです。ただし、国家間の国際競争という観点から見れば、魅力ある国づくりに負けた政府は、国力を落としていくのでしょう。
このような視点からは、スリム化や効率化を超えた行政改革が、求められます。これまでの行政改革論では、NPMは議論されましたが、このような視点はあまり議論されていません。