古くなりましたが、8日の日経新聞経済教室で、小峰隆夫教授が「女性が変える日本経済、旧来型の慣行刷新を」を書いておられました。日本経済の今後のカギを握るのは女性であること。女性の力を活かすことは構造改革であること。すなわち、新卒採用、年功賃金、長期雇用を前提とした旧来型の人事システムを見直す必要があること。経済分野での女性の参加が異常に低いことは、非経済分野(家事や育児)で男性の参加が異常に低いことの裏返しであること、などです。詳しくは原文をお読みください。
また、テレワークを進めている田澤由利さんが、日経ネットに、「女性の1000の声、総理に届けたい――公平な選択肢で働きやすい社会を」を書いておられます。
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行政
雇用形態の差と技能の差
12日の朝日新聞別刷りBe on Saturday 人材派遣会社テンプスタッフの篠原欣子社長の言葉から。
・・日本ではIT技術者もベテラン秘書も「ハケンさん」と呼ばれる。おかしな話です。海外では、仕事を聞かれて、「派遣です」なんて言わない。仕事の中身を答えます。職務や技能に応じた賃金の基準が明確なので、雇用形態の差は重要ではないのです・・
日本の多くの職場で、同じ仕事をしていても、正職員とパートや派遣で、給料が違います。例えば、幹部の秘書がそうです。正職員とパートとで、ほとんど同じ仕事ですが、待遇に大きな差があります。その根っこには、新卒一括採用・年功序列という職場慣行があります。
自衛隊の海外派遣
10日の朝日新聞「07参院選」は、「問われる憲法と自衛隊」でした。これまでの海外派遣の歴史が、簡潔に整理されています。
ブレア外交が目指したもの
30日の朝日新聞「異見新言」、細谷雄一准教授の「ブレア外交の10年、挫折から学ぶ新しい世界」から。
ブレアが目指したものは、有名な1999年4月のシカゴ演説で情熱的に語られたように、「国際共同体」を構築することであり、「正義」や「善」を実現することであった。そして何より、超大国アメリカが正しい道を歩むよう、影響力を行使することであった。21世紀の国際共同体の課題に我々が真摯に取り組み、それが軌道に乗ることこそが、彼の目指した外交目標であった。ブレアは、コソボでの虐殺をやめさせ、シエラレオネの内線を終結させ、アフリカの貧困に世界が目を向けるように訴えつづけた。環境問題に真剣に取り組む必要を説き、軍縮を進める重要性を論じた。これらの課題をめぐってすべてが順調に進んだわけではないし、英米間では常に摩擦と対立が見られた。だが、西側の指導者で過去10年間に、これらの問題を直視するよう一貫して訴えてきたのが、ブレアだった。
ブレアは、冷戦後の新しい世界秩序を構築しようと尽力した。それは、正義や善といった価値に基づいた新しい秩序である。内戦や人権蹂躙、貧困や餓死、そして環境破壊に満たされる安泰な秩序であってはならない。世界の指導者たちが、国境の内側に引きこもり、国内政治に専念して世界にあふれる困難から目を背け、理想的な言辞の陰に隠れるという選択肢を選ぶことも可能である。しかしそれこそが、ブレアが忌み嫌ったことである。
ブレアの10年から得られる教訓、それは冷戦後の新しい世界秩序を構築するためにアメリカを関与させることであり、また国連などの国際協調枠組みを活用し、その枠組みにアメリカを結びつけることである・・
1日の読売新聞地球を読む、垣添忠生さんの「感染症対策。危機管理、世界に責任」から。
・・20世紀初頭に特筆される感染症は、インフルエンザであろう。別名スペイン風邪とも呼ばれる。1918年の大流行による死亡者は、4,000万人に達した。これは、同年に終戦を迎えた第1時世界大戦の戦死者850万人をはるかに上回る数である・・
国立感染症研究所の村山庁舎内には、バイオセーフティーレベル4(BSL4 )と呼ばれる施設がある。ラッサ熱とかマールブルグ出血熱とか、BSL4に分類される危険な病原体の特定をするため、病原菌が外に漏れないように三重の厳重な防御体制を整えた施設が20数年前から設置されている。しかし、この設備は一部地元民の理解が得られず、一度も稼働していない。
仮に、成田空港にアフリカから帰国した日本人が、激しい発熱のために空港周辺の病院に収容されたとしよう。病態から特異な病原体の特定が必要になったとき、BSL4 の施設は必須である。G8参加国の中で、危機管理体制としてBSL4の設備を稼働していないのは、わが国だけである。これは、すぐれて政治的な解決が求められている問題と思う。
一度、流行の制圧に失敗したら、国内はもとより国際的にもどれだけ甚大な被害が生ずるかは、述べたとおりである・・
国際競争
28日の日経新聞「東京市場改革、誰のため」から。
・・1984年から始まった日米円・ドル委員会の焦点は、日本の金融・資本市場の開放だった。「世界第二位の経済規模にもかかわらず、かなりの障壁が残る」。当時のアメリカ高官が示した不満は、いまの東京市場への国際的な見方を聞くかのようだ。円・ドル委員会から4半世紀たってなお、国際化が議論される日本。1996年冬には、当時の橋本内閣が金融ビッグバンを掲げ、総合的な改革案を打ち出した。「2001年までに東京をロンドン、ニューヨーク並みの市場に」という目標は、いまもスローガンの域を出ない。改革の速度はなぜ遅いのか。「真剣に国益を考えないから世界を見ようともせず、のんびりした規制緩和ですませることができた」、ある社長は手厳しい。
・・イギリスの金融と関連サービス業は、過去10年で雇用を3割増やし、国内総生産の伸びの4割強に貢献したという。産業としての金融を育成すれば、国益にもかなうわけだ。国をあげて金融を振興する動きは、世界的に広がっている・・