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社会

正社員の転職100万人

3月23日の日経新聞に「正社員の転職が最多、24年99万人 若手ほど賃金増加」が載っていました。
・・・正社員の転職が増えている。2024年は99万人と前年から5%増え、比較できる12年以降で最多となった。20代後半から40代前半が多く、より良い待遇の企業に移る例が多い。企業は賃上げや職場環境の改善を続けなければ優秀な人材を囲い込めなくなっている・・・

記事によると、2013年頃の正社員から正社員への転職は60万人程度で、10年間で6割増えています。非正規社員から正社員への転職は32万人で、増えていません。
年代別に見ると、25歳~34歳が最も多く、次が35歳~44歳です。転職で賃金が増えた人は20代前半では5割、減った人は2割います。年代が上がるにつれて、賃金が増えた人の割合は減り、50代後半からは減る人の方が多くなっています。

宗教と霊性と

3月23日の朝日新聞文化欄「無宗教でなぜ占い?見いだした価値 スピリチュアリティで「自分」肯定」から。

・・・日本人は無宗教と言われる。統計数理研究所の国民性調査で「信仰や信心」をもっていると答えた人は18年で26%だった。特定の宗教を信じていると職場や学校で公言する人も少ない。
しかし、それでも初詣には行き、葬式では手を合わせる。宗教と意識はされないが、科学的ではない占いやパワースポットを信じる人もいる・・・

・・・宗教学者の岡本亮輔さんは、宗教を信仰、所属、実践という三つの面から分析する。神道であれば、地域社会といった所属や、初詣などの実践も含んでいる。信仰の面からのみ宗教を捉えることは適当ではないという。
宗教学では占いや瞑想(めいそう)法などを「スピリチュアリティ」という分野として、考察の対象とする。「かつての宗教は、教団という共同体への所属で信者に安心感を与える面もあったが、スピリチュアリティは所属の要素を限りなく減らし実践に特化した宗教と言える」
宗教学者の伊藤雅之さんによると「サラダバー型宗教」とも表現されるという。伝統的な宗教は、教義の体系をパッケージとしてそのまま受け入れることを信者に求めた。しかし、身体の実践に特化するヨガなど、宗教のうち好きなところだけを選び取ることが好まれるようになった・・・

・・・占いやヨガ、瞑想、パワースポット巡りなどさまざまな実践を含むスピリチュアリティに通底するのは、「大自然や守護霊、内なる自分など、不可視の存在と神秘的なつながりを得て自己を高められるような体験」だと伊藤さんは説明する・・・
・・・なぜそうまでして人は宗教的な何かを信じるのだろう。岡本さんは「宗教」がなくならない理由として、自分がコントロールできないことへの不安を解消したいからだと説明する。その最たるものは死だ。「合理的なものでは軽減できない不安に応える非合理的な機能を宗教は担ってきた。人間に根源的な不安がなくならない限り宗教はなくならない」・・・

完璧を求めない社会

4月13日から、大阪・関西万博が開催されます。報道機関が大きく報道しています。私は、準備の遅れについてが、興味深かったです。

NHKウェッブ「大阪・関西万博 きょう開会式 あす開幕 準備の遅れなど課題も」(4月12日)が次のように伝えています。
・・・海外パビリオンについては、参加国がみずから建設する42のパビリオンのうち、ネパールは、内装工事などが進んでおらず、開幕に間に合わない見通しであることが関係者への取材で分かっています。協会が建設するなどしたそのほかのタイプの海外パビリオンについても、数か国で準備が遅れていると見られています・・・

関係者は困っているでしょう。
かつてなら、少しでも遅れれば、あるいは欠陥があると、上司は部下を叱責し、自らの責任を重く感じました。社会も大騒ぎしました。「準備で遅れが出たら、徹夜をしてでも、期日までには間に合わせる」。これを、日本の長所だと、自慢にもしていました。
しかし今回は、かつてのように大騒ぎせず、淡々と受け止めているのではないでしょうか。労働者や資材の不足は、いくら徹夜してもどうにもなりません。
もちろん期日に間に合うこと、完璧に準備ができることが望ましいです。でも、展覧会で少々遅れが出ても、世の中にそんなに悪影響を与えませんよね。

日本社会にあった「過度に完璧を求めること」「間に合わせるために、精神主義で頑張ること」が緩和されるのはよいことです。
日本が成熟社会に入ったことの現れかもしれません。ただし、命に関わることについては、こんな悠長なことを言ってはこまります。しかし、新型コロナウイルス感染拡大で見られたように、全ての患者に完全な医療を提供することも不可能です。どこかで折り合いをつける必要があります。

肥大化するプライバシー

3月16日の読売新聞言論欄、小松夏樹・編集委員の「「秘密」の定義 際限なき拡大」から。
・・・2005年に個人情報保護法が全面施行されてから20年がたつ。同法には個人情報の利活用を図る目的もあるのだが、急拡大したデジタル空間は情報悪用への懸念という「体感不安」を増大させ、重点は保護に傾いた。「私的な秘密」といった意味合いだった「プライバシー」も、氏名など基礎的な個人情報と同一視されはじめ、その概念の肥大化が進む。そこに負の側面はないのか・・・

・・・個人情報は、氏名などそれ自体か情報同士を照合すると個人が識別できるものを主に指し、範囲は広い。人種、障害、病歴など差別や偏見を生みかねない「要配慮個人情報」は特に扱いに注意すべきだ。住所、電話番号などの基本的情報や、登記簿など公開情報もある。
個人情報やデータは社会生活や、国・自治体、企業の活動を円滑に運ぶために不可欠だ。個人情報保護法は情報を適正に流通させるための“保護利活用法”でもある。ただ利活用の面は一般には理解されにくく、医療現場で患者情報が共有できない、災害の行方不明者が公表されないなどの過剰反応を招いた。影響は今も続く。
同法は、情報化社会の進展を追って改正を繰り返しており、私たち個々人に関するきまりなのに、全容を把握しているのは一部の専門家くらいに思える。複雑さや難解さは「個人情報には触らない方がいい」という短絡的思考を招く。
報道、著述、宗教、政治の活動の場合、個人情報を正当な目的で授受するのは本人の同意がなくても同法の適用除外だが、これも広く知られているとは言い難い。
同法は「自己情報コントロール権」に基づくとの考えもあるが、最高裁は明示していない。的確に定義しないと、政治家が「私の情報はすべて私がコントロールする」などと主張しかねない・・・

・・・「個人情報=プライバシー」ではない。だがネット空間では名前すら「秘すもの」になってきた。
個人情報保護法により、ネット空間での保護も進んだはずだが、肌感覚は違う。日本プライバシー認証機構が昨年行った「消費者における個人情報に関する意識調査」では、企業などの個人情報の取り扱いに不安を感じる人が約7割に上った。
これは企業と個人が持つ情報の巨大な格差や、一種の「情報搾取」が一因だろう。電子機器が必須の生活では、例えばスマホのアプリの利便性と引き換えに個人情報を差し出さざるを得ない。総務省によれば、米、独、中国に比べ、日本人は自分のデータを提供しているという認識が薄く、半ば習慣化している。そしてテック企業は膨大なデータを保持する。
蓄積されたデータは瞬時に世界に拡散し、生成AIは情報を大量に取り込んでいる。情報の悪用と被害も絶えず、名前を隠したい、と考えるのも無理はない。
悪用する側は闇サイトで名簿を売買するなど、個人情報保護を歯牙にもかけない。他方、まっとうな企業や医療・介護・教育現場は個人情報の遺漏なきよう人手やシステムに多大なリソースを割き、業務が圧迫される・・・

法令順守、外聞でなく自律を

3月14日の日経新聞経済教室は、伊藤昌亮・成蹊大学教授の「コンプライアンス問題、「自律」へ立ち返れ」でした。
・・・米国で成立したコンプライアンス(法令順守)の概念は2000年代に輸入されて定着するに至ったが、その背景には日本独特の事情があった。
1990年代の経済の低迷と政治の混乱の中から現れた「改革」の動きは、小さな政府をモットーとする新自由主義的な政策に結実していく。
政財官のもたれ合いから腐敗が生じ、自由な競争が阻害され、競争力の低下がもたらされたと考えられた。そして旧来の構造を打破し、市場競争の活力を高めていくことが目指された。その結果、民営化や規制緩和を軸に一連の「構造改革」が進められていく。
そうしたなか、改革の指針として打ち出されたのが「事前規制から事後監視へ」という考え方だった。

従来は行政が事前に民間に規制をかけ、行動をコントロールして問題が起きることを防いでいた。ただしこれは癒着と競争の阻害が起きる可能性があり、調整コストも膨らみ、財政が圧迫される。事前規制を緩和してまずは競争を促進し、問題が起きたとしても適切な監視体制があれば、事後的に制裁を課すことができるというわけだ。
しかし事後監視は、先にどんな問題が起きるか予想できない。対処するコストの予測もつかず、それを行政が一手に引き受けるのは難しくなる。そこで打ち出されたのが、監視機能をできるだけ民間に任せるという方針だった。
組織が自分で自分を監視する、という発想だ。「何をしてもよいが、自分の行動は自分で監視し、自分で律する。そのために行動基準を作り、それを守る」という方針が示された。それに最適だったのがコンプライアンスの概念だった。
00年に閣議決定された行政改革大綱には、「国民の主体性と自己責任を尊重する観点から、民間能力の活用、事後監視型社会への移行等を図る」とある。
それはいわば、規制に守られてきたそれまでの日本人が自由な競争にこぎ出していくにあたり、自律的な主体となるための海図であった。いいかえれば、自由と自律のためのものであったともいえる・・・

・・・それから15年が経過した。この概念はすっかり定着したかに見えるいま、われわれは自由と自律を手にできたのだろうか。残念ながら、そうした見方は少ない。むしろ、「コンプライアンスのせいで窮屈になり、不自由になった」という見解のほうが多数派なのではないか。
理由の一つは、この概念の内実が変化したことだろう。もともと防ぐべき問題として想定されていたのは、海外でコンプライアンスが重視されるようになったきっかけである、経済活動に伴う不正だった。贈収賄、談合、不正会計、品質偽装などだ。

しかし10年代になると、むしろ文化的な側面が強まってくる。とりわけDEI(多様性・公平性・包括性)に関連し、セクハラ、パワハラ、差別発言、差別表現など、人権に関わる不祥事が問題とされることが多くなった。
経済活動に伴う不正をいかに防ぐか、という実利的な観点から、人権に関わる不祥事をいかに避けるか、という社会的な観点に人々の関心がシフトし、いわばこの概念の「文化化」が進むことになる。
その際、文化化はまた「大衆化」をもたらした。経済活動の問題は基本的に専門家にしかわからず、利害関係者にしか影響を持たない。一方、人権上の問題は誰にでも関わりがあり、しかもわかりやすい。そのため、一般の人々がさまざまな案件に口を出し、コンプライアンスの裁定者として振る舞うようになる。
そうした状況を促進したのがSNSだった。10年代に爆発的に普及したSNSは、人権侵害としてのコンプライアンス違反を人々が摘発し、糾弾するための装置となった。著名人の不規則発言やテレビCMの差別表現など、身近な事例から次々と炎上が起き、ときに過剰なまでのバッシングが繰り広げられた。

そうしたなかで監視の実態も変化していく。コンプライアンスのための監視とは元来、自分で自分を監視すること、すなわち自己監視を意味するものだった。しかしSNSの普及とともに、それは人々の目で絶えず監視されていること、すなわち衆人環視を意味するものとなる。
そこでは自律的な価値判断より、他律的な状況判断が優先される。組織は炎上を恐れ、SNS上の世論を気にしながら動くため、自分だけで自分を律することができなくなってしまう。その結果、自由と自律のためのものだったコンプライアンスは、逆に、他律と不自由を強いるものになってしまった・・・

・・・問題はむしろ「大衆化」のほうで、自律的な主体としての判断力や統治力を、組織が失ってしまったことにあるだろう。外からどう見られているかを気にしすぎるあまり、自らの中の価値観を確かなものにするという姿勢を、組織は忘れてしまっている・・・