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社会

日本の大学の特殊性「家元制度」

1月15日の日経新聞、黒川清・政策研究大学院大学名誉教授の「独立した研究者、育成を」から。日本の科学技術研究が凋落する理由について。
・・・欧米やアジアの有力大学は、そうした変化に対応して魅力ある研究の場を整え、世界中から意欲ある教員、若者を引き付けている。他方、日本の大学は旧態依然、かつての“成功モデル”の維持にきゅうきゅうとするのみである。凋落は日本の大学が持つ構造的、歴史的な要因に起因するといわざるをえない。

明治政府は、ドイツの大学の講座制を採用して日本の高等教育の構築を図った。教育と研究を一体的に進める講座制によって、新国家の学術レベルは飛躍的に向上した。
だが、この制度は講座の主である教授を頂点とする権威主義的なヒエラルキーを形成し、自由闊達な研究の足かせとなる問題をはらんでいた。そこでドイツは同じ大学・講座の助教授は、そこの教授になれない制度を取り入れていた。大学でのキャリアを求めるならば独立した研究者として新天地で羽ばたくという哲学を持っていたからだ。
ところが、日本はドイツの大学の「形」は取り入れたものの、独立した個人としての研究者を目指すという「精神」の方は置き去りにした。

その結果、日本の大学現場には旧態依然とした“家元制度”が大手を振ってまかり通ることになった。教授という権威の下で、学生や若手研究者らは全員がその徒弟であり、教授の手足となって研究し教授の共著者として論文を書く。研究は教授の下請けの域を出ず、多くは教授の業績となる。大学には東大を頂点としたヒエラルキーが存在し、大学院重点化で狭いタコツボがさらに狭く窮屈になった。徹底したタテ社会の論理である。
タテ社会の頂点に立つ教授の下では、ポスドクで海外留学に出ても、それは教授のツテであり、2~3年で帰国するひも付き留学にすぎない。弟子たちは独立した研究者として独創的な研究を競うのではなく、教授の跡目争いに没頭する。官庁や企業と同様に大学の世界でも、今いる組織を飛び出して活躍することは社会的リスクが極めて高い。これでは斬新な研究が生まれるはずがない。

西洋に咲いた近代の科学研究には、次世代の独立した研究者を育てるのは教授の責任という哲学がある。教授の役割は自分の後継者、内弟子の育成ではない。次世代を切り開く独立した研究者を育てることなのだ。指導者は育成したPhDで評価されるといっても間違いではない。ここが日本と欧米の一流大学の基本的な違いだ・・・

日本語は縦書き

1月18日の朝日新聞文化欄、石川九楊さんの「縦書きを失えば文化の危機」から。
・・・パソコンの普及で憂慮するのは、縦書きが廃れていくことです。縦書きの連続筆記体として誕生した「ひらがな」は本来、一文字ずつ切り離して書くようにはできていません。「あ め が ふ る」と「あめ が ふる」を比べてください。前者が生硬なのは一目瞭然でしょう。
英文の筆記体を縦に書くことができないように、ひらがなや漢字かな交じり文を横に書くことは無理がある。縦書きを失うと、日本人の思考にもぎこちなさが生じます。
文化は言葉や文字と共にあります。漢字を中心とした縦書きの東アジアと横書きの西洋の言葉は根本が違う。日本の近代化の過程で、それらを同じと勘違いしたことが今の文化的危機を招きました。
声の西欧語は音楽を、文学の東アジア語は書を発達させた。書は東アジアの基幹芸術なのです・・・

と、このページでは横書きで引用していますが、原文は縦書きです。
これに関連して、日本語ワープロソフトを思い出しました。私は「一太郎」を使っています。「ワード」より使いやすいのです。ところが、ワードとの競争に負けて、多くの人や職場が「ワード」を使っています。「一太郎」で原稿を送ると、「開けないので、送り直してください」と返事が来ることがあります。
かつて、文筆を生業にしている人の多くが、一太郎を使っていると、聞いたことがあります。日本語を書いていると、一太郎の方が使いやすいのです。その後、なぜなのかを考えていました。結論は、一太郎は縦書き仕様で、ワードは横書き仕様だということです。
例えば、次のページに移る際に、一太郎は画面を右から左へ開いていきます。ワードは、下へ開いていきます。縦書きで、1ページ目の最後の行と、2ページ目の最初の行を見るときに、ワードだと1ページごと画面が移るので、続けて見ることができないのです。
他方、一太郎は、横書きの場合はページを下へと開いてくれるので、続けて見ることができます。
日本の会社が日本語向けに作った一太郎と、アメリカの会社が作ったワードとの違いだと思います。

ネットゲーム依存は病気

1月4日の朝日新聞、1面トップは、「ネットゲーム依存は「病気」」でした。
詳しくは記事を読んでもらうとして、具体的な症状として、次のようなものを上げています。
・ゲームをする衝動が止められない
・ゲームを最優先する
・問題が起きてもゲームを続ける
・個人や家族、社会、学習、仕事などに重大な問題が生じる

ギャンブルと同じで、いえそれ以上に「接近しやすい」ことで、より危険です。特に子どもは心配です。
かつて、「ハイテク企業のトップは、子どもにスマホを使わせない」(2014年10月13日)を書いたことがあります。インターネットやスマートフォンは、職場での時間泥棒だと、連載「明るい公務員講座」でも指摘しました(第37回 職場の無駄(5)パソコン)。
便利さが生む新たな危険。それにどのように対処するか。個人や家庭の責任にするわけにはいきません。社会として、国家として対策が必要です。

ノーベル賞受賞の反応、日本とイギリスの違い

12月19日の朝日新聞「イシグロ氏ノーベル賞、沸く日本・静かな英国」から。
カズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞。日本では連日報道され盛り上がりましたが、イシグロ氏の地元、イギリスでは様子が違うようです。

・・・英国では意外にも静かな反応だ。授賞式の翌日、主要紙デイリー・テレグラフ、ガーディアン、タイムズのうち、式典や晩餐会スピーチの様子を報じた新聞はなかった。文学賞の授賞が決まった時も1面で報じたのはガーディアンだけ。他紙は中の面で、日本のように読者、親類の反応まで報じる記事は見当たらなかった。
・・・ふつうは「英国人が受賞した」だけではニュースにならないようだ。今年は英国の研究者がノーベル化学賞に決まったが、翌日の新聞は全く伝えないところも。報じられても小さな扱いだった・・・

・・・日英の反応はなぜ違うのか。英国文化に詳しい北九州市立大の高山智樹准教授(文化研究)は「英国人は自国の文化に自信を持っており、海外の評価を気にしないからだ」とみる。本ならば、ノーベル文学賞より、英国最高峰のブッカー賞の方が話題になるそうだ。
日本にゆかりのある人などが賞を受けることに関心が集まるのは自然だ。一方で、日本のメディアや社会がノーベル賞だけでなく、「世界遺産」などでもにぎわうことについて、「科学・技術や理屈を重視する欧米主導の近代的な価値観に固執しているからだ」と経済学者の水野和夫・法政大教授は話す。「既に近代は終わろうとしているのに、欧米に追いつけ追い越せの価値観から抜け出せていない証しではないか」・・・

若者の恋愛離れ

12月12日の朝日新聞オピニオン欄「若者の恋愛ばなれ?」から。
牛窪恵(世代・トレンド評論家)さんの発言
・・・若者の恋愛観を、実際に当事者に話を聞きながら調べ続けてきました。今の20~30代は、恋愛を必需品ではなくて嗜好品と捉えており、手間やリスクを考えると割に合わないもの、と考える人が多くなっていると感じます。
21世紀に入り、まず変わったのが男性の恋愛観です。景気低迷と将来不安の高まりから、無用な消費を嫌がり、わざわざ恋をしてお金や時間を使いたくない。初めから男女平等の教育を受けており「男が引っ張る」感覚も弱い。
それでも、少し前まで女性には恋愛願望がみられましたが、最近は男女を問わず「恋愛は面倒」という声が多くなりました。おそらく最大の理由は、常にスマホでネットや人とつながっている「超情報化社会」になったことです・・・

トミヤマユキコさん(早稲田大学助教)さんの発言
・・・とくに女子は保守的で、「成功したい」ではなく「失敗したくない」が基本。就職で社会への出方でつまずいてしまう危険があるように、恋愛も失敗するとレールをはずれ、いずれ「社会的死」につながるものと考えています。彼女たちには「恋愛に全てをかけた結果、失敗してもゼロに戻ればいい」という選択肢がないようなのです・・・
・・・こんな女子学生の話を聴きました。憧れの先輩がこっちを振り向いてくれず、でも怖いから告白もできない。とりあえず嫌われていない状態で様子を見つつ、余ったエネルギーを出会い系アプリに振り向けている。そこでゲーム感覚で「いいね」をもらえることに喜びを見いだす。かといってそこから関係が進むわけでもない。
生身の人間相手の重いコミュニケーションは難しいので、アプリを媒介にした軽いコミュニケーションで承認欲求を満たし、二つの関係を行き来しながら自分の気持ちをなだめているのです・・・