3月14日の日経新聞経済教室は、伊藤昌亮・成蹊大学教授の「コンプライアンス問題、「自律」へ立ち返れ」でした。
・・・米国で成立したコンプライアンス(法令順守)の概念は2000年代に輸入されて定着するに至ったが、その背景には日本独特の事情があった。
1990年代の経済の低迷と政治の混乱の中から現れた「改革」の動きは、小さな政府をモットーとする新自由主義的な政策に結実していく。
政財官のもたれ合いから腐敗が生じ、自由な競争が阻害され、競争力の低下がもたらされたと考えられた。そして旧来の構造を打破し、市場競争の活力を高めていくことが目指された。その結果、民営化や規制緩和を軸に一連の「構造改革」が進められていく。
そうしたなか、改革の指針として打ち出されたのが「事前規制から事後監視へ」という考え方だった。
従来は行政が事前に民間に規制をかけ、行動をコントロールして問題が起きることを防いでいた。ただしこれは癒着と競争の阻害が起きる可能性があり、調整コストも膨らみ、財政が圧迫される。事前規制を緩和してまずは競争を促進し、問題が起きたとしても適切な監視体制があれば、事後的に制裁を課すことができるというわけだ。
しかし事後監視は、先にどんな問題が起きるか予想できない。対処するコストの予測もつかず、それを行政が一手に引き受けるのは難しくなる。そこで打ち出されたのが、監視機能をできるだけ民間に任せるという方針だった。
組織が自分で自分を監視する、という発想だ。「何をしてもよいが、自分の行動は自分で監視し、自分で律する。そのために行動基準を作り、それを守る」という方針が示された。それに最適だったのがコンプライアンスの概念だった。
00年に閣議決定された行政改革大綱には、「国民の主体性と自己責任を尊重する観点から、民間能力の活用、事後監視型社会への移行等を図る」とある。
それはいわば、規制に守られてきたそれまでの日本人が自由な競争にこぎ出していくにあたり、自律的な主体となるための海図であった。いいかえれば、自由と自律のためのものであったともいえる・・・
・・・それから15年が経過した。この概念はすっかり定着したかに見えるいま、われわれは自由と自律を手にできたのだろうか。残念ながら、そうした見方は少ない。むしろ、「コンプライアンスのせいで窮屈になり、不自由になった」という見解のほうが多数派なのではないか。
理由の一つは、この概念の内実が変化したことだろう。もともと防ぐべき問題として想定されていたのは、海外でコンプライアンスが重視されるようになったきっかけである、経済活動に伴う不正だった。贈収賄、談合、不正会計、品質偽装などだ。
しかし10年代になると、むしろ文化的な側面が強まってくる。とりわけDEI(多様性・公平性・包括性)に関連し、セクハラ、パワハラ、差別発言、差別表現など、人権に関わる不祥事が問題とされることが多くなった。
経済活動に伴う不正をいかに防ぐか、という実利的な観点から、人権に関わる不祥事をいかに避けるか、という社会的な観点に人々の関心がシフトし、いわばこの概念の「文化化」が進むことになる。
その際、文化化はまた「大衆化」をもたらした。経済活動の問題は基本的に専門家にしかわからず、利害関係者にしか影響を持たない。一方、人権上の問題は誰にでも関わりがあり、しかもわかりやすい。そのため、一般の人々がさまざまな案件に口を出し、コンプライアンスの裁定者として振る舞うようになる。
そうした状況を促進したのがSNSだった。10年代に爆発的に普及したSNSは、人権侵害としてのコンプライアンス違反を人々が摘発し、糾弾するための装置となった。著名人の不規則発言やテレビCMの差別表現など、身近な事例から次々と炎上が起き、ときに過剰なまでのバッシングが繰り広げられた。
そうしたなかで監視の実態も変化していく。コンプライアンスのための監視とは元来、自分で自分を監視すること、すなわち自己監視を意味するものだった。しかしSNSの普及とともに、それは人々の目で絶えず監視されていること、すなわち衆人環視を意味するものとなる。
そこでは自律的な価値判断より、他律的な状況判断が優先される。組織は炎上を恐れ、SNS上の世論を気にしながら動くため、自分だけで自分を律することができなくなってしまう。その結果、自由と自律のためのものだったコンプライアンスは、逆に、他律と不自由を強いるものになってしまった・・・
・・・問題はむしろ「大衆化」のほうで、自律的な主体としての判断力や統治力を、組織が失ってしまったことにあるだろう。外からどう見られているかを気にしすぎるあまり、自らの中の価値観を確かなものにするという姿勢を、組織は忘れてしまっている・・・