カテゴリー別アーカイブ: 政治の役割

行政-政治の役割

新型コロナ、若者の政治関心

12月9日の朝日新聞オピニオン欄、ブレイディみかこさんの「「コロナ世代」若者の政治観 頼るのは自分という境地」から。

・・・興味深いのは、複数の若者が、政治に関心を持つようになった、と言っていたことだ。ロンドンに住む17歳の少女は、大学で政治を学ぶことに決めたという。「どんな若い世代にも、政府は自分たちをサポートしなかったなどと感じてほしくないからです」と政治を志す理由を話している。

実は、これを裏付けするような光景を地元でも見たばかりだ。息子が来年9月からカレッジ(日本でいう高校)に通うので、今秋は地域のいくつかの学校を見学しに行った。昨年はロックダウン中だったので、今年は2年ぶりに中学高学年がカレッジを見に行くことを許された。なぜかどこでも政治の教室が盛況だったのが印象的だった。英国のカレッジでは生徒たちが自分で科目を選択するので、見学では各教科の教室に行って教員や現在の学生たちに話を聞く。どこのカレッジに行っても、科学や歴史、経済などに比べ、政治の教室は多くの見学者を集めていたのである。

「政治とは、一言でいえば権力に関することです。誰が権力を持っているか、どう権力を使っているか、どのように分散されているか」
見学者の中学生たちの前で、そう熱弁をふるっていた教員にたずねてみた。
「毎年、こんなに政治は人気があるんですか?」
彼女はきっぱりと答えた。
「こんなのは初めてです。例年は人も来なくて静かなのですが」
「どうしてなんでしょうね」
「コロナ禍だと思います。2年前まではこんなことはありませんでしたから。休校や入試方法の変更など、これほど10代の子どもたちが政治に未来を左右された時期はありません。だから政治について考えるようになったのでしょう」・・・
原文をお読みください。

政権交代のために、中道左派の役割

11月30日の朝日新聞オピニオン欄「立憲民主、立て直せるか」、田中拓道・一橋大学教授の「雇用と財政、体系的政策を」から。

・・・1990年代以降、日本を含む先進国はグローバル化や情報技術の発達により、産業構造が大きく変化しました。長期間安定して働ける職場が減った半面、非正規雇用は増えました。男性が「働き主」で女性が子育てや介護を担うという家族のありようも大きく変わりました。
雇用と家族の変化にいち早く対応したのが、欧州の政党でした。中道右派は市場の活力を重視しながらも、教育や福祉を通じて人々を労働市場に誘導する形で、新自由主義政策を修正しました。中道左派は、労働組合の党内への影響力を弱め、中産階級を支持層に取り込み、子育てや就労支援などを充実させ、生き残りを図りました。
その頃、日本では選挙制度改革が一番の関心事でした。96年の衆議院選挙から小選挙区比例代表並立制が導入され、政治のエネルギーはもっぱら政党の離合集散に費やされてきたのです。

史上最長となった安倍晋三政権は、「1億総活躍」や「人づくり革命」など巧みなキャッチフレーズを打ち出しました。しかし、子育てや就労支援、公教育への支出は、いまだに先進国では最低水準です。雇用を増やしたとはいえ、多くは非正規職にとどまっています。雇用と家族の変化にきめ細かく対応したのではなく、格差は固定化されたままです。
多様化する人々の働き方に合わせてきめ細かい支援をしなければ、格差は拡大し続けます。少子高齢化を止めるためにも、高齢世代向けから現役世代向けへと社会保障の転換を図る必要があります。
ところが、日本の中道左派は政治勢力として弱いままで、雇用、社会保障、財政を含む体系的な政策を打ち出せていません。立憲民主党の衆院選の公約は、消費税率の時限的な引き下げでした。分配のメニューを並べるだけでなく、財源の裏付けを明らかにしなければ、政権担当能力は示せないでしょう・・・

この点では、研究者やマスコミの役割も問われています。

政権交代のために、長期ビジョン提示が必要

11月30日の朝日新聞オピニオン欄「立憲民主、立て直せるか」、松井孝治・慶応大学教授の発言「批判の前に長期ビジョン」から。

・・・1998年にできた民主党は「与党批判だけでは政権は取れない」と考えていた旧社会党の議員、「自民党では改革できない」と自民党を飛び出した議員らで結党されました。その精神は、既得権益に縛られた自民党に代わり、官僚主導の政治を変えるというものでした。しかし今は、もっぱら与党のスキャンダルを追及する野党というイメージが定着しています。
この変質は2000年代後半、小泉内閣のときに起こり始めていた、と私はみています。当時の小泉純一郎首相の「改革」の演出が巧みだったため、むしろ自民党の方が改革を進めている、という印象を国民に与えました。そんな自民党に対抗し、選挙で勝つために、民主党は与党の新自由主義などを批判する「批判政党」へと次第に変質し、今に至っているのです。

しかし、こうした政治手法では「どんな日本社会を作りたいのか」という政党としてのビジョンを国民に示すことはできません。
かつて民主党は、子ども手当を創設するチルドレン・ファースト(子ども第一)、高校無償化なども含む「コンクリートから人へ」、それに「新しい公共」といった自民党が掲げないような政策理念を掲げました。今後の立憲民主党も、若い世代のために何をするのかということを軸に、長期的な将来ビジョンを示すべきです・・・

アパルトヘイトの廃止

デクラーク・元南アフリカ大統領が11月11日に亡くなったと、各紙が伝えています。11月12日の朝日新聞
・・・南アフリカのフレデリク・デクラーク元大統領が11日、西部ケープタウンの自宅で死去した。85歳だった・・・白人政権の最後の大統領として、アパルトヘイト(人種隔離)政策廃止へと導いた。民主化や改革路線の功績が認められ、故ネルソン・マンデラ氏とともに1993年にノーベル平和賞を受賞した・・・在任中は、27年に及ぶ獄中生活を続けていたマンデラ氏を釈放した。アパルトヘイト政策の廃止や、人種間の融和に努めた。朝日新聞の取材に「(アパルトヘイトを廃止しなければ)南アはさらに孤立を深め、武力対立で多くの人が命をなくし、経済は崩壊していただろう」と語っていた。さらに、南アが極秘に開発していた核兵器の廃棄も決めた。「共産主義の脅威が去り、南アが国際的地位を築くために(核兵器)保有は足手まといになった」と理由を述べた。
南アフリカでは94年に初の全人種参加選挙が実施され、マンデラ政権が誕生。デクラーク氏も副大統領に就いた・・・

13日付の松本仁一さんによる評伝には、次のように書かれています。
・・・4世紀にわたる少数白人支配をやめ、黒人勢力に権力を渡す決断をしたフレデリック・デクラークは、たまたま大統領の座についた政治家だっ・・・1989年、ボタが病で倒れ、大統領の座が回ってきた。「閣僚中の最古参だから」というだけの理由だった。
しかしそこから、歴史に残る大決断をする。アフリカ民族会議(ANC)の合法化、ネルソン・マンデラの釈放、アパルトヘイト廃止――。それまでだれもできなかったことを、2年の間に成し遂げたのである。
決断の契機になったのはマンデラとの極秘会談だった。政権についた直後の89年10月、終身刑で服役中のマンデラを大統領官邸に呼ぶ。その時の様子を、デクラークは私にこう語った。
「マンデラは、刑務所長が運転するBMWの後部座席で毛布をかぶって身を隠し、官邸の地下ガレージに乗り入れました。そこから大統領専用エレベーターで執務室に入ってきました。ずいぶん背の高い男だという印象でした」話を始めて、マンデラが頭のいい人間であることがすぐ分かった。この男だったら信頼できると感じたという。
80年代後半、黒人の暴動が各地で起きていた。南アは国際的な制裁の中で孤立し、社会は荒れた。国の将来を考えたら、権力の平和的移行しか道は残されていないと思っていた。
「アパルトヘイトは廃止しなければならない。それも小出しにではなく、ひとっ飛びにやらなければいけないと考えました」大統領である今ならそれができる。デクラークは、たまたま巡ってきたチャンスにすべてをかけた。
最大の懸念は、政権を渡した後、白人に対する暴力的報復が始まること、そして黒人政権が共産主義化することだった。マンデラに何度も念を押す。ANCの中には反対もあったが、マンデラが抑え込んだ。マンデラを信頼するしかないと腹を決めた。
決断が間違っていたらどうするか。国民への責任を考えると胃が痛くなり、眠れない夜もあったという。「結局、判断は正しかった。あの決断をしたのが自分であることを、私は誇りに思っています」・・・

平和裏に革命を起こしたのです。権力を持っている人たちが、歴史の流れを読んで、その権力を譲り渡す。なかなかできることではありません。

メルケル首相の評価

11月11日の朝日新聞オピニオン欄「さよならメルケル」、岩間陽子・政策研究大学院大学教授の「長すぎた16年、広がったEU内格差」から。

――長すぎたとは?
「16年間という在任期間にもかかわらず、ドイツにとっても欧州にとっても新しいビジョンを打ち出せなかった。欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO)という欧州の安定に欠かせない機関の改革もしなかった。欧州の自立ということを繰り返し語っても、具体策はありませんでした」
「外交で顕著だったのが中国依存です。在任期間は、中国の存在が大きくなり、米国の地位が下がっていく時期と重なります。メルケル氏が選んだのは、中国市場の拡大を利用し、自動車を中心とする既存の産業を発展させる道でした。対ロシア関係とともに、人権問題での批判があっても『対中関係は経済問題』というスタンスをとり、欧州を相対的に軽視したように思います」

――欧州で「ドイツ1強」と言われるほどになりました。
「EUではドイツが目立ってはだめなのです。経済力の強さは以前からです。西欧中心だったEUは東に加盟国を増やし、EU内の格差が広がりました。新たに加盟した東欧諸国には欧州の二級市民だという意識があります。財政危機で南北格差も拡大しました。こうした格差を埋めるEU改革に着手しないといけなかった」
「例えばユーロ危機はメルケル氏の手腕で乗り越えたと言われます。確かにギリシャの財政問題に端を発した危機で、ギリシャ救済策をドイツ国民がのめない結果になっていたらユーロはつぶれていた。その意味では『救った』と言える。一方でその後、ユーロ圏の債務共通化など機構改革を進める必要があった。豊かな北部欧州から南部への財政移転を後押ししないと同様の危機は回避できないし、加盟国の国民間の格差意識はなくならない。でもメルケル氏は欧州ではなく中ロを重視し続けました」

――どういう弊害があったのでしょうか。
「『ブリュッセル(EU)が悪い』という議論の広がりに歯止めをかけられませんでした。英国のEU離脱をめぐる国民投票(ブレグジット)が典型例です。EUからの分配金でのメリットが実際は大きくても、市民レベルではそう思えない。メルケル氏は欧州市民としての肯定的なアイデンティティーを打ち出し、機構改革の主導権を握る必要があった。EUの中核である独仏のうちマクロン仏大統領の方が積極的でした。メルケル氏は一緒に改革を進めようとしなかった」

――なぜでしょう。
「理念がないからでしょう。同じくドイツで16年間首相だったコールは欧州統合を大事にしました。ドイツ統一の父ですがドイツ第一主義ではない。EUとNATOをきちんと機能させることを優先し、対米関係も大事にしました」

――2011年の東日本大震災後のドイツの脱原発、難民危機の際の「受け入れ」表明に理念はなかったのですか。
「むしろ風見鶏的だったと私は思います。一般人の感覚には敏感でした。『難民の受け入れ』は、その後人数の抑制という変更を余儀なくされました。脱原発も、中期エネルギー計画などに基づいた判断ではありません。メルケル氏が率いるキリスト教民主同盟(CDU)は長年、産業・科学立国を掲げ、原発推進派でした。路線を転換するなら相応の計画と見通しを示す必要があったと思います」

――メルケル後にはどういう課題が残っていますか。
「21世紀の欧州の未来像を描くことだと思います。EU市民の共感を得続けるには、皆がわくわくするような夢が必要です。80~90年代の欧州は統一市場、統一通貨という考えの下、実験的な試みが次々となされました。冷戦終結からすでに30年。ドイツにも欧州にも、新しいビジョンが必要です」

参考「メルケル首相評伝