カテゴリー別アーカイブ: 政治の役割

行政-政治の役割

日本の教育熱心度

19日の朝日新聞は、OECDの教育費調査を載せていました。
教育予算のGDP比は、26か国中25位です。私的負担を加えても、21位です。「限られた投資で結果を出しており、非常に効率的」と評価しているようですが。
このほか、次のような特徴を指摘しています。初等教育で1学級28.4人は、韓国に次いで2番目に多い。教員の給与は比較的高い。小学校教員の授業時間が最も少ない一方、労働時間は最も長い。

産業と補助金

17日の日経新聞経済教室、米田雅子教授の「補助金依存の農林水産業、林業突破口に自立目指せ」から。
・・農林水産省の統計によると、農、林、水産業の国内総生産の規模はそれぞれ、5兆2800億円、2400億円、8900億円である。この3業種にそれぞれ2006年度で、2兆400億円、3900億円、2500億円の国の予算が投じられ、単純な費用対効果で考えれば、2.6倍、0.6倍、3.6倍となる。林業予算には二酸化炭素吸収や水源涵養、国土保全などの公益的機能維持のための経費も含まれており、単純には比較できないが、生産額よりも投入された税金の方が多い・・
しかも、ここで書かれた国費以外にも、地方団体が予算を投入しています。

外交と国家戦略の歴史

本田優「日本に国家戦略はあるのか」(2007年、朝日新書)を、読みました。そこに、外交・国家戦略から見た戦後の3区分が載っています。
第1期は、敗戦の1945年から沖縄返還の1972年までです。第2期は、1972年から冷戦終結の1989年までです。第3期は、1989年から現在までです。
第1期は独立と復興が国家目標で、沖縄返還と経済成長を達成しました。目標は明らかでした。そして、平和を保ち、経済大国になりました。第2期は、経済大国になって目標を失いました。国際的には、ニクソンの対中政策などで冷戦が緩和し、またソ連のアフガニスタン侵攻で緊張しました。しかし、日本は新たな目標や戦略を持たないまま、時間が過ぎました。
第3期は冷戦が終結し、国際的枠組みが大変化し、地殻変動が起きています。日本は、湾岸戦争への協力、PKOへの参加など対症療法的に対応しています。また冷戦終結は、経済にも大きな影響を与えました。
私は、戦後日本の行政を考える際に、経済成長から3つの時期に区分して説明しています。「新地方自治入門」p125など。私の区切りは、石油危機の1973年とバブル崩壊の1991年です。私のは経済財政であり、本田さんのは外交国家戦略です。しかし、少しずれてはいますが、私の区分と本田さんの区分は、見事なくらいに一致しています。
そして、第1期は目標が明確でありそれを達成したこと。第2期は目標を失ったこと。第3期はもっと混乱していることも、同様です。国家戦略からいうと、第2期は現状を謳歌し、次の手を打たなかった考えなかったという点において、「失われた期間」だったのです。
連載「行政構造改革」第1章第2節(10月号)では、経済成長の3区分を基に、これが負担を考えないという日本の欠点になったことを論じています。また、冷戦時にアメリカの傘に入ることによって、「一国繁栄主義」「一国平和主義」になり、国際貢献を考えなくなったことも、議論しています。

年金一元化

朝日新聞15日の変転経済は「年金一元化」でした。それまで、国民年金・厚生年金・国家公務員共済・地方公務員共済など、職域でバラバラだった年金制度(保険料と給付額)が、1986年の改正で一元化に踏み出しました。それが基礎年金部分です。上乗せ部分は、依然として別立てです。そして、その後の一元化は、予定通りには進みませんでした。
また、その際には、年金財政全体と、個別の年金財政がもたない(破綻する)という、問題もありました。全体では、保険料を引き上げ、将来の給付を引き下げることとしました。もっとも、それだけでは不十分だったのですが、当時としては給付引き下げは画期的でした。その後、年金財政見直し(引き下げ)は、定期的に行われています。
一方、個別に破綻しそうだったのは、国鉄・農林共済などです。これらはその他の年金に吸収することで、救いました。

豊かな社会の国家の任務

井上達夫著「法という企て」(東大出版会、2003年)、第10章「法は人間を幸福にできるか?」から。
・・現代社会において幸福追求権を実質化するには社会経済的基盤の保障だけですむかという、難しい問題がある。日本もかつてそうだったが、発展途上段階では国家の主たる関心は、国民生活の物的経済的向上に置かれる。しかし、いわゆる「豊かな社会」になると、経済的な豊かさ自体が精神の空虚化、人生の意味や目的の喪失を生むという問題が浮上する・・
そうすると、幸福追求権を実質的に保障するには、これからは単に社会経済的基盤だけではなくて、人々の精神的基盤をも国家は配慮しなければならないのだろうか。しかし、精神的基盤の保障となると非常に微妙な問題があり、一歩間違うと先述の卓越主義のように、邪教から青少年を保護するために国家が信教の自由に干渉するという怖い帰結を生む。
ここで、もう一度幸福の自律的探求という発想に立ち返る必要がある。人々が自分で挑戦し、失敗して、失敗から自分で学ぶとともに、他者からの批判や助言を受けとめつつ成長していく。そういうプロセスを実質的に保障することを、国家は自己の任務とすべきである。では、そのために、何が必要か。複雑な問題であるが、以下、二点だけ指摘して結びに代えたい。
・・もう一つ、最後に提案したいのは、日本を「やり直しのできる社会」にすることである・・
このあとに、再チャレンジに通じる議論が展開されています。私の研究テーマである、新しい時代の行政の役割を考える過程で、この記述を見つけました。あわせて、再チャレンジの法哲学的基盤も、見つけました。本は買ってはあったのですが・・。