9月3日の日経新聞経済教室ゼミナールが、金融危機後の規制・監督改革の世界的取り組みを、整理していました。今回の世界金融危機・世界同時不況では、先進各国の協調が求められ、結構うまくいきました。1929年の大恐慌の再発にならなかったのは、そのおかげです。しかし、再発を防止するためには、各国が対応する(金融規制と経済政策)だけでなく、世界規模での対応の制度化が求められたのです。
それが、G20(20か国・地域首脳会議)であり、金融安定理事会(FSB、金融安定化フォーラムを改組)です。FSBは、銀行・証券・保険の各分野の規制・監督のあり方や国際会計基準に関する総合調整を行っているそうです。
国境を越えて動く金融に対して、国家を超えて規制しようとする試みです。世界政府への道のりというのは、評価しすぎかも知れませんが、重要な進展だと思います。危機に遭遇するたびに、人類は進化するという例です。
「政治の役割」カテゴリーアーカイブ
行政-政治の役割
農業問題は農地問題
28日の日経新聞経済教室は、神門善久教授の「食料自給率向上は的外れ」でした。世界の肥満人口は10億人を超え、飢餓人口を上回るのだそうです。
・・日本が食料自給率を高める理由として、欧州、特に70%まで引き上げた英国の例がよく引き合いに出される。しかしこの裏に、前述の多額の農業助成金があったことを忘れてはならない。助成金はモルヒネのようなものであり、国内農業はますます助成金依存の脆弱体質になり、かえって国内農業は不安定になる。アジア太平洋地域でリーダーシップをとるべき立場にある日本が、自国の食料確保だけを考えることの副作用がどんなに大きいか、思いをはせるべきだろう。
・・すなわち、日本がめざすべきは、食料自給率の向上ではなく、食料の安定確保に向けて、相互に輸入・輸出しあう構造を構築し、農産物貿易の厚みを増すことだ。
・・日本の農業の真の危機は、食料自給率の低下ではなく、農地利用の崩壊にある。農業的にも環境的にも価値が高い平場の優良農地が、耕作放棄や蚕食的転用などで荒廃している。皮肉なことに、優良農地の保護を名目とした財政支援はさまざまに支給されている。
ところが、国土が狭い日本では、平場の優良農地ほど住宅や商業施設の建設候補地として狙われ、こうした農外転用がけた違いの利益を農地所有者にもたらす。農外転用規制をはじめとした農地利用に関する法制度の運用がずさんで、関係者の政治力次第では諸規制が有名無実化されるため、農地本来の利用がなされず、農外転用を当て込んだ農地保有がまん延。農業にたけたものに農地が集積するという通常の市場機能が働かず、農業が沈滞化している・・
高負担納得の理由
27日の朝日新聞「北欧に学ぶ、スウェーデン」から。
・・スウェーデンでは、確定申告が納税の基本だ。簡単な申告を可能にしているのが、生まれた瞬間に与えられる住民登録番号である。
企業など雇用側が払った給与や差し引いた保険料などを税務署に伝えるほか、金融機関も預金や株式売買による収入などの情報を、税務署に報告する。税務署がこれらをまとめて税額を計算し、国民は年度末に税額を計算し、自分のデータに間違いがないかを確認するだけ。
・・高負担を納得してもらうための一つの答が、地方分権だ。農村と都市、若者が多い町と高齢者が多い町ー地域事情にあった施設やサービスがあれば、それだけ満足度が増し、負担感は薄れる。
国、県、市町村が、役割を分担する。高齢者介護や障害者ケア、乳幼児保育などは市町村が、病院での医療は県が受け持つ。国は外交や防衛のほか、雇用や教育、住宅政策を担う。役割に合わせて、税源が地方に移された。
ウオメ大学のユナス・イドルンド助教授は「透明性が高いので、国民が仕組みを理解している。だから、選挙でむやみに減税を叫ぶ政党を、市民は怪しむ。そういう政党は、たいてい負けている」と言う。
緻密だが遅い法体系の国と、まずはやってみようという法体系の国と
25日の日経新聞「インタビュー領空侵犯」は、坂村健教授の「産業発展へ法体系変えよ。緻密さが革新を阻む」でした。
・・日本の法律文は、様々な状況や既存法との整合性に配慮しつつ緻密に作り上げたものです。欧州大陸に起源を持つ大陸法系です。一方、英米法系の米国などでは、成文の法律まずありきではなく、問題が起きたら裁判所に判断してもらい、その判例の蓄積が主なルールとなります。議員がその場限りのような法案を気軽に提出できるのも、意図した通りに進まなかったり手抜かりがあったりしても、司法が後で調整するという前提があるからです。近年、産業界の変化の速度はとても速く、大陸法のやり方で制度を最新の状況に合わせるのは不可能です。だから、英米法系の手法を取り入れるべきだと思っています。
・・日本では、優秀な官僚が整えたルールは緻密で時代に適合していると、長い間見なされてきました。だから、法の穴をかいくぐるような裏技的な動きは許されないという風潮が社会に生まれました。法律が明確に整備されてからでないと、まじめな日本人は怖くて動かなくなっています。特に責任やルールがあいまいな場合、大企業はリスクをとろうとせず、大胆なベンチャー企業だけが得をするということになるかもしれません・・
25日の朝日新聞「グローバル化の正体」、入江昭教授のインタビューから。
(グローバル化が始まった時期を)、経済史家は、1850年あるいは1870年ごろからだと見る人が多い。電信、電話、そして鉄道が発達して地上の距離が縮まり、貿易や金融、投資が飛躍的に発達し、世界が経済的につながったからです。
とはいえ、19世紀後半に始まったグローバル化はあまりにも欧米中心であり、世界の4分の1の人が残りの4分の3を抑えつける、植民地時代のものでした。国家は、グローバル化を利用して強大化しようとし、2度の世界大戦になった。ぼくは、現在まで続くグローバル化が始まったのは、1970年代だと考えています。
(以前のグローバル化と違うことは)、欧米中心でないことです。日本に加え、中国、インド、そして最近は南米が加わってきた。70年代になると、ほとんどの地域が植民地から解放され、世界中で誰でもグローバル化というゲームに参加できるようになりました。
国家の役割が低下したことも、大きな特徴です。多国籍企業が世界的に展開し、環境問題や人権問題に取り組む国際的なNGOが70年代に飛躍的に増加した。民族的な動きやイスラム教など宗教の力も強まった。いずれも、国家とは別個の存在です。現在のグローバル化は、国家の意思と離れたところで進んでいます。
(21世紀的な世界の特徴は)、我々は、環境問題や国際テロ、民族問題、エイズや飢饉など、グローバルな全人類的な問題に直面しています。これは21世紀的な問題です。それを20世紀的な方法、たとえば戦争とか先進国中心の国際秩序とか、大国任せとか、そんな方法で解決しようとしてもできません。21世紀の問題は、21世紀の方法で取り組まないと行けない・・
政治と市場
24日の読売新聞「地球を読む」は、佐々木毅先生の「政治と市場」でした。
・・市場と政治の関係が、再び大きな関心を集めている。われわれの脳裏には、10年前のアジア・ロシアの金融危機と日本の金融機関の相次ぐ破綻の記憶が鮮明に残っている。
・・市場メカニズムが穏やかな下では、政治はグローバル化の旗振り役をしていればすむが、荒々しい調整が始まると、その力量と限界がとことん試されることになる。今、われわれは明らかに、この厳しい試練の時期にある。
・・政治の議論としては、二つの問題を区別する必要がある。第一は、荒れるグローバル市場を沈静化させ、安定的な経済成長の環境を回復するための、国際的な協調の仕組みを作れるかという問題である・・
第二は、こうした国際環境の整備がどうなるにしろ、日本政府が何をすべきなのかという問題である。この数年、政府は物価の安定と好調な国際経済に専ら寄りかかってきたが、今やこの条件はすっかり消失してしまった。
・・政府に危機感があるかといえば、国民に伝わってくるのは、政府の無力感ではなかろうか。この国では、「官から民へ」というのは、官民相互の無関心を助長する傾向があったが、物価の上昇が顕著になり始めたにもかかわらず、唯一最大の政治課題は相も変わらず消費税問題という発想は、この病理現象の現れではないか・・