「政治の役割」カテゴリーアーカイブ

行政-政治の役割

社会保障を含めた生活保障を進めるために、宮本太郎教授、その3

「具体案はありますか」という問に対しては。
・・私自身は、社会保障を強めて雇用と連携させるアクティベーション(活性化)と呼ばれる方向をめざすべきだと考えています。非正規の若者が技能や知識を伸ばす多様な機会をつくる。女性の就労につながる保育・修学前教育を手厚くする。NPOや社会的起業で高齢者の仕事をつくることも活性化の手法です。
他方、ある程度の支援はするが、個人と家族の自己責任を重視し、伝統的な家族の価値を打ち出すワークフェア(就労義務重視)の主張もある。給付付き税額控除のような方法で現金を渡し、社会参加の条件を整えようというベーシックインカムの提起もある。
民主党でアクティベーションの流れが強まると、自民党はワークフェアにシフトしたようですが、3つの立場は具体的な政策としては重なるところがある。空中戦はやめ、どうすればより多くの人が仕事に就けるか、エビデンス(経験的証拠)に基づいて議論するべきです・・

「方向は見えている。しかし、政治が動かない。なぜでしょうか」
・・子育てと仕事の両立に悩む母親、低学歴と技能不足で正社員になれない若者など、従来の生活保障が対応できていない「新しい社会的リスク」に直面する人たちが増えています。この人たちを元気にすることは、経済成長のために決定的に重要です。
しかし、彼ら彼女らは組織化されておらず、投票率も低いため、政治家にとって「良い顧客」ではない。一方、これまで政治家を支えてきた業界団体や労働組合の声は政治家に届きやすいものの、こちらも組織率を低下させ、利益を集約できない。要するに、政治が現実社会から離反し浮遊しつつあるのです・・

宮本太郎先生の「生活保障」や「アクティベーション」については、『生活保障―排除しない社会へ』(2009年、岩波新書)があります。
社会の変化が、「社会保障」として求められる範囲を変えているのです。安心な生活は、政府の社会保障制度だけで成り立っていたのではなく、家族と企業の「保障」と一緒になって、成り立っていました。後者が弱くなること、また成熟社会になることで孤独や引きこもりなどの新しい社会的リスクが生まれ、従来の社会保障では漏れ落ちる人が出てきたのです。
私は、「新しい社会的リスク」を、リスクの一つに位置づけています。拙稿「社会のリスクの変化と行政の役割」。また社会関係リスクについては、再チャレンジ政策を担当して以来、関心を持ち続けています。「国民生活省構想」は、この問題への取り組みの一つです。

社会保障を含めた生活保障を進めるために、宮本太郎教授、その2

「日本型の生活保障とは」という問に対しては。
・・雇用を軸にした生活保障です。歴史をひもとくと、岸内閣の下、世界で4番目に皆保険・皆年金の導入が図られ、1961年に実現しました。画期的でしたが、みんなが働いて支え合わねば、維持できません。
池田内閣から田中内閣にかけて日本的経営や土建国家が形成され、男性稼ぎ主が働き、年金・保険制度を支えるシステムができあがりました。
このシステムのポイントは、行政が業界や企業を保護する点にありました。護送船団方式はその象徴です。企業は一家の男性稼ぎ主の雇用を守り、稼ぎ主は家計を支えて家族を守りました。この保護の連鎖が機能している限り、社会保障の役割は限定され、退職した高齢世代の年金に集中できました。

「そのバージョンアップが必要だとは、どういうことですか」
・・雇用を軸にした生活保障の方向は悪くなかったが、経済のグローバル化が進み、行政が業界や企業を守るのは今や無理です。非正規雇用が増えて、男性稼ぎ主の雇用で家族が暮らせるという前提も消えました。
業界や企業を守るのではなく、個人と家族を直接支援することによって、雇用を軸にした生活保障を発展させる。市場重視のアメリカ流でも、スウェーデン型福祉国家でもない、日本型の刷新です・・
この項続く。

社会保障を含めた生活保障を進めるために、宮本太郎教授

古くなりましたが、9月8日付の朝日新聞オピニオン欄、宮本太郎北海道大学教授の「社会保障、踏み出せぬ政治」から。

「社会保障と税の一体改革をうたった消費増税法が、民自公3党の合意を経て成立しました」との問いかけに対し。
・・社会保障改革の多くは、新設する国民会議の議論に先送りされました。一体改革とは名ばかりで、消費増税だけが決まったかたちです。菅内閣のもと、私が座長を務めた「社会保障改革に関する有識者検討会」は、2010年12月、一体改革の素案とも言うべき報告書を出し、財政再建と社会保障の機能強化は同時に進めなければ双方とも実現しない、と強調しました。そこから随分と離れてしまった印象です・・
・・自公連立だった福田内閣の「社会保障国民会議」や麻生内閣の「安心社会実現会議」の議論から、私たち「有識者検討会」の報告書まで、基調は同じです。もはや選択肢はそれほど多くないのです。ところが二大政党制のパラドックスで、政策が接近するほど、有権者へのアピールを狙って些細な違いや相手の能力をあげつらい、結局ほとんどが棚上げになりました。日本型の生活保障のかたちをバージョンアップするという方向で、一致できると思ったのですが・・
この項続く。

低線量放射能への不安、足を踏みつけた場合の対応

8月15日の朝日新聞「ニッポン前へ委員会」、神里達博大阪大学准教授の発言から。
震災がれきの広域処理をめぐって、拒否反応があることに関して。
・・実は、この問題の背景には、現代社会におけるリスク問題に特有の「二つの不在」が作用していると考えられる。
まず一つは、「知識の不在」である。現代の行政は原則として、科学的事実に基づいて客観的に遂行される。ところが、あるレベルを下回る放射線の健康影響については、科学的知見そのものが不足している・・
もう一つは、「責任論の不在」である。たとえば電車内で足を踏まれたとき、相手からの「すみません」の一言があるかないかは、大きい。もし、謝罪の言葉よりも先に「あなたの足にかかった圧力は弱いので、けがの恐れはありません、ご安心ください」などと言われたら、かなり温厚な人でも怒るだろう。だが、今回の原発事故に伴う放射能汚染の問題では、まさにそのような状況が続いている。程度の差はあれ、「足を踏まれた人」は間違いなく大勢いるのに、謝罪する者は事実上、現れていない。人々はきっとそのことに、どうにも納得がいかないのである・・

アメリカが広めたもの・資本主義経済、自由主義、多国間統治

8月10日の日経新聞経済教室、ジョン・アイケンベリー教授の「自由の秩序、文明を超えて」から。
・・
世界秩序は米国一極支配から、新しい時代への「大いなる転換」を遂げつつある。では、新しい世界秩序は、どのような形になるのだろうか。
中国の台頭と米国の衰退で、リーダーシップの交代が起きるという見方や、数世紀に及んだ欧米主導の世界秩序から、アジアの力と価値観に基づく秩序への転換が起きるとの見方もある。また、勢力伸長の著しい非欧米諸国(インド、ブラジル、南アフリカ、トルコ、インドネシアなど)が指導的地位と権威を争う、多極体制への転換が起きるとの見方のほか、新しい世界秩序は形成されず無秩序と混沌に陥るという、悲観的な見方もある。
そこに共通するのは、米国は長い衰退期に入り、同国が構築し過去半世紀にわたり率いてきた自由主義志向の世界秩序は過去のものになったとの認識だ。だがこうした見方は、本質を見誤っている。現在進行中の大いなる転換は、米国が主導してきた戦後秩序の衰退でなく、むしろ成功を意味する・・
今日大いなる転換が進行しているのは、米国主導の旧秩序が所期の目的を果たしたからにほかならない。その目的とは、多国間統治の枠組みの中での貿易、成長、相互依存の促進である。戦後秩序の設計者は、軍事・経済ブロック、帝国主義、重商主義、勢力争いで特徴づけられる1930年代への逆戻りを食い止めようとした。そして自由主義的な世界秩序を確立し、多国間のルールと組織や民主国家の連帯により、その秩序を強化すべく努力した。
今日の国際政治の「問題」、すなわち非欧米諸国の台頭にどう対応するか、増え続ける相互依存型の問題への取り組みでどう協力するかという問題は、この自由主義的世界秩序が過去半世紀うまく機能したからこそ生じたといえる・・
現在の転換は、「アジアの台頭」や「多極体制への回帰」とみるべきではなく、自由民主主義と資本主義の世界的な拡大とみなすべきだ・・詳しくは原文英文をお読みください。

アメリカをはじめとする西欧先進諸国に追いついた日本も、追いつきつつある中国を含む新興諸国も、アメリカなどが設定した経済思想と仕組み、貿易や金融の仕組み、国際関係の仕組みを利用しこそすれ、それに対抗するあるいはそれを超える思想と仕組みを打ち出してはいません。生活も娯楽もです。アメリカ文明に代わる「日本文明」や「中国文明」は、今のところありません。

また、スーザン・ストレンジが提唱した「関係的権力」と「構造的権力」が思い浮かびます。前者は、相手にいうことをきかせる力です。後者は、世界の政治経済構造をかたちづくり決定する力です。『国際政治経済学入門』(邦訳1994年、東洋経済新報社)。
スポーツにたとえれば、決められたルールで決められた「土俵」の上で戦います。どちらかのチームが勝ちます。それが関係的権力です。そのルールと土俵を設定して、自らの考えたルールで他のチームも戦わせるのが構造的権力です。少し単純化が過ぎますが。