杉田・・日本では、権力は拒否していればいいという考え方が強すぎます。権力は危険だということは踏まえなければいけませんが、その権力は自分たちが作っていくものでもあるのです。選挙の棄権について、政治学者はこれまで擁護してきた面がありますが、本当はもう少し批判すべきだったのかもしれません。
長谷部・・憲法学者も、権力のやることは全部批判していればいいと考えてきた面があります。批判していれば、そのうちいいこともしてくれるかもしれないと。反省する必要があると思います。
杉田・・今回の選挙でこうすればうまくいくという妙案はありません。長期的に考えるなら、自分自身が政治に何を期待するかをもう少し自分に問うてみることでしょう。政党に裏切られたと思うのはいいですが、そもそも何を想定していたのか。政権交代さえすれば自分の懐具合がよくなると単純に期待していたということなら、そう思っていた方にも問題がある。経済成長が政党政治のあり方ですぐに実現できる時代ではありません。
この国の政治はどうあって欲しいか。全部実現できそうな政党はないかもしれないけれど、比較的それに近いのはどこかということで選ぶしかない。出されたメニューを比べて「どれも気に入らない」と言っていても仕方がない。自分が何を食べたいのかというイメージがなければ選べません。メニューを見てから食べるものを決めるのではなく、自分が何を食べたいかを考えてからメニューを見て、自分が食べたい料理に一番近いのはどれかを選んでくださいと。陳腐な結論ですが・・
詳しくは、原文をお読みください。
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行政-政治の役割
政党を育てるか、消費するか
12月5日の朝日新聞オピニオン欄、長谷部恭男東大教授と杉田敦法政大教授との対談、「総選挙、選ぶ」から。
長谷部・・この混迷した政治状況は、選挙をいわば自分のうっぷん晴らしに使ってきた有権者の側にも責任があります。民主党政権が期待通りじゃなかったことはその通り。私もそう思います。しかし、期待通りじゃなくても、支持層として長い目で見てちゃんと支えていこうという人が一定数いなければ、民主的な政治制度はうまく機能しません・・
気に入らないところがあっても我慢して、特定の政党を支え続けるということがあってはじめて、その政党は魅力のある政治指導者をたくさん抱える政党になり得る。「不満はあるでしょうが、どこかコミットできる政党を見つけて支持し続けてください」。私の言いたいことはこれに尽きます・・
杉田・・福沢諭吉の言うとおり、政治とは詰まるところ「悪さ加減」の選択です。限られた選択肢の中からより悪くない方を選ぶしかありません。100%満足のいく政党でなくても。しかし今は有権者が消費者化していて、「既成政党にいい政党がないからうまくいかない」「自分たちを真に代表してくれる政党があるはずだ」と、2大政党がダメなら第三極、それもだめなら4番目、5番目……と、次々に支持を変えていきます。2大政党の間でスイングするのならともかく、既成政党を全部食い潰していくという「焼き畑」的な形になっています・・
長谷部さんのおっしゃるように政党を支えることが大事だという面はありますが、私たちは、テレビを買う時にそのメーカーを支えようと思っては買いませんよね。それと同じで、ごく短期的に自分の生活が良くなったか否かで政党を判断しがちです。それでいいとは思いませんが、政治以外の行動様式は全部消費者的なのに、政治に関してだけ違う振る舞いを求めるのは難しい。そこは、歴史や文化に根ざした形で政党が存在しているヨーロッパとの違いです。
1990年代の政治制度改革では政治システムをいじることに主眼を置きすぎて、有権者の側の問題を置き去りにした面があります。マニフェストを眺めて投票し、結果だけチェックしようという、レストランのお客にも似た消費者的な行動様式が強調され、自分たちの政治家であり政党なのだと説くことはなかった。政治家を選ぶまでが有権者の役割で、あとは「お任せ」でいいという考え方がはびこりましたが、問題です。状況は絶えず動いており、有権者は自分たちが選んだ政治家に対してもさまざまな回路で意見をぶつけていく権利と義務があります・・
この項続く。
最高裁の政治化
10月27日の朝日新聞オピニオン欄「ものを言い始めた最高裁」、御厨貴先生の発言から。参議院の1票の格差について、違憲状態判決が出たことに関して。
・・最高裁の判決は驚きでした。「違憲状態」は妥当ですが、論の立て方が最高裁らしくない。最高裁判決は、格調は高いが何を言っているのか分からないのが相場でしたが、今回は判決要旨も補足意見、反対意見も極めて明快。しかも都道府県単位の選挙区はダメだとか、同じ枠組みで選挙をすれば無効だとか、踏み込んだメッセージが目立つ。もはや政治論です。
戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の支配下で米国の合衆国最高裁をモデルに新設された日本の最高裁ですが、ようやく米国流に司法が政治にメッセージを発するようになったといえます。
大法廷の裁判長でもある竹崎博允最高裁長官は相当迷ったと思います。ことは今後の最高裁、司法のあり方にかかわるからです。悩んだ末、劣化する立法や行政に対して裁判所がどう自立するかというところで、国民に寄り添い世論に近い判断をするという選択をしたんだと、私はみています・・
最高裁自体、それまで基本的に自民党政権の枠内に収まるようにやってきました。最大の権力である違憲立法審査権はほとんど行使しない。田中耕太郎長官が1959年の砂川事件判決で、安全保障など国の基本問題については違憲かどうかの法的判断は下せないとする「統治行為論」を採用したのは、その象徴です・・
とはいえこの路線が通用したのも矢口(洪一長官)さんあたりまで。1990年代以降、連立政権が続き、自民党も行政も劣化したからです。矢口さん自身、2000年には「政治と行政が自壊し始めた結果、司法が強くなってきた」と言っています。政治に寄り添うだけの手法は通用しなくなりました・・
世界の変化とアメリカのパワーの低下
久保文明ほか著『オバマ・アメリカ・世界』(2012年、NTT出版)の続きです。
・・オバマ政権の高官は、クリントン国務長官をはじめとして「スマート・パワー」ということをことさら主張しますが、これはたんにスマートなパワーの行使が規範的に望ましいということではなく、アメリカが力を効率的に行使しようとすれば、そうする以外に方策がないという認識です。それはいわば、アメリカ後の世界におけるアメリカ外交のかたちを探ろうとする試みでもあります。こうした問題意識を具体的に展開したスピーチをクリントン国務長官が行っています・・
この演説の中で、クリントンは世界は否応なしにつながってしまったことを強調し、アメリカは単独では解決できない問題群に直面していることを認めます。それは、アメリカの力の低下というよりも、直面する問題の性質の変化によるものであり、このような世界にあっては、協調行動の基盤を積極的に形成していく以外にない。クリントンは、そのような世界を「マルチパートナー世界」と呼びます。それぞれの極が対立しあうような世界とするのではなく、それぞれの極が協力して問題を解決していく世界とでも言えばよいのでしょうか。
ゲーツ前国防長官も(若干別の文脈ではありますが)アメリカにとっては「ビルディング・パートナー・キャパシティ」が非常に重要だと繰り返し述べています・・(p22)
条件の変化を認識し、これまでの戦略では通用しないことを、自ら認識する。そして、次なる戦略を立てる。当然のことですが、なかなかできることではありません。しかも、国内問題ではなく、全地球的問題についてですから。
アメリカ大統領選挙、どちらが日本にとって得か
久保文明、中山俊宏、渡辺将人著『オバマ・アメリカ・世界』(2012年、NTT出版)から。この本は8月に出ているので、大統領選挙の前です。久保先生の発言です。
・・アメリカ大統領選挙の年になると、よく受ける質問がある。「民主党政権と共和党政権のどっちが日本にとって得か、教えてほしい」というものである。そして多くの場合、とくに経済界や政界の場合、共和党政権の方が日本にとってよい、あるいは日米関係は改善するという認識があるようだ・・日本では、アメリカ大統領選挙の時に、既述したようにほぼ決まって「どちらが日本にとって得か」を尋ねる傾向が強いが、それと同程度に重要なのが、日本が何をするかである。本来、日本の総選挙の際、どの政党が日米関係強化にもっとも積極的であるか、あるいはそのための良案を携えているかも、問うべきであろう。G・W・ブッシュ(子)時代に、日米関係がいい状態であった一つの理由は、日本側が既述したような貢献をしたからであるということを、忘れてはならない・・
ケネディ大統領の名言を借りれば、「アメリカが日本に何をしてくれるかを尋ねてはなりません。日本がアメリカのために何をできるかを考えてほしい」ですかね。