「政治の役割」カテゴリーアーカイブ

行政-政治の役割

政党の構図、2

7月9日の朝日新聞オピニオン欄、「政党政治を問い直す」の続き。広井良典・千葉大教授の発言から。
・・枝葉を取り払って言うならば、成熟社会の政党構造は、「3大政党プラス緑」に接近するのではないか。
3大政党とは、保守主義政党、自由主義政党、社会民主主義的政党だ。それぞれ「伝統的な家族や共同体」(共助)、「市場経済」(自助)、「政府など公的部門」(公助)の役割を重視する・・
広井さんの発言も、興味深いです。「社会を支える3つの次元、あるいは負担方法が、政治の対立軸になるのではないか」という見立てです。確かに、西欧各国の歴史や現在の政治でも、大きく見るとこのような構図になっています。
3つの経済主体、官共私三元論については、『新地方自治入門』p216で説明しました。
社会を支える基本構図なので、この3つの対立が政党の構図に持ち込まれることは、納得できます。ただし、この3つの要素は3つとも必要で、どれか1つというわけにはいきません。時代とテーマによって割合を変えつつ、鼎立しています。
哲学・政治思想として、どれかに重きを置くことになりますが、個別のテーマごとに、そう簡単に割り切れない場合もあります。
ところで、政党の構図がはっきりする、対立が明確になるためには、一つの政党が主義主張を明確にするだけでは、成り立ちません。まず、相手=敵が必要です。「反自民」は自民党があり、それへの対抗として成り立ちます。
しかし、野党が政権を取ると、「反自民」だけでは主義主張になりません。一つの体系として、政策を示さなければなりません。「反××」では、国民に対して、選択する政策群を提示したことになりません。それでは相手の土俵で戦っているのです。
野党としては、政権党が提示する政策への反論をするだけでなく、自らが政策課題を取り上げる必要があります。そして、政権党をその土俵に上らせなければ、対立軸を示したことにならず、有利な戦いにはなりません。

政党の構図

7月9日の朝日新聞オピニオン欄、「政党政治を問い直す」、萱野稔人・津田塾大教授の発言から。
・・政党とは本来、政策を競うものだ。そうよく言われる。しかしこれからの時代、それを素直に自明視することはできない。
なぜなら政策を実行するには財源が必要だからだ。社会保障の拡充にしても、景気対策にしても、あるいは防衛力の強化にしても、その点は同じである。
政党が政策を競うということは、したがって財源を奪い合うということである・・
・・少子高齢化のもとでそうした集団による競争がおこなわれれば、希少なパイの奪い合いになり、いきおい既存のパイでは足りなくなるだろう。足りないパイは政府が借金をして、将来世代にツケをまわすしかない。政党間の競争は将来世代のパイまで奪い合う事態をもたらしている・・

政党は、近代民主主義国家にとって、必要不可欠です(なのに、日本国憲法には、規定がないのですが)。
国会などの場で、多様な国民の意見や利害を代表する、あるいは集約するには、政党が必要です。有権者の支持を集めるために、社会のある利益集団(利益層)を代表するか、意見を同じくする人たちを代表することになります。
社会に、利益や意見の明らかな対立があると、政党の配置はわかりやすくなります。ごく簡単に言うと、近代先進国では、地主、企業家、労働者、その他のホワイトカラー、あるいは軍人が、母集団になりました。税金をどこから取るか、関税や補助金などで既存産業を保護するか、労働者の利益を保護するか企業家の利益を優先するかなどです。
どのような社会をつくるかの意見の違いも、そこから出てきます。資本主義で行くのか、社会主義に進むのか。東西冷戦を背景に、第2次大戦後の保守対革新は、この争いでした。もっとも、戦後日本においては、保守政党(と呼ばれる政党)が改革を提唱し、革新政党(を自称する政党)が「憲法を守れ」に代表されるように保守を提唱しました。
さて、そのような「呼称と実態のズレ」を別にして、現在の日本において、政党の構図がいまいちわかりにくい。また、2大政党制を目指したのにそうなっていないことの背景には、国民の間の利害対立が明確なっていないことがあります。経営者の多くがサラリーマンになり、資本家対労働者の対立は、明確でなくなりました。市場経済主義対共産主義(=自由主義対一党独裁)も、勝負がつきました。
私は、日本においては、都会対地方や高齢者対若者が利害対立の軸、そして政党の対立になるのではないかと思っていました。前者については、東京一極集中が進み、政治的には成り立ちにくくなりました。後者については、年金や医療費の財政負担において、今なお存在理由を失っていないと考えています。

萱野さんの発言は、なるほどと思います。対立軸は、何に予算をつけるかでなく、誰が負担するかになっているのです。しかし、それはあまりに露骨で、夢がありません。政党が有権者に売る「商品」としては魅力がなく、正面からは打ち出しにくいです。政策の販売戦略としては、「○○に予算をつけますよ」と唱え、その負担については言及しない戦法をとるのでしょう。それを見抜いた有権者は、「その政策は良いですが、どこから財源を持ってくるのですか」と質問しなければなりません。
政策の販売合戦が実は負担の押しつけ合いだと、国民に見抜かれると、民主主義は難しくなります。民主主義は経済成長のある時代にしか成り立ち得ないのではないかという説を、『新地方自治入門』p301で紹介しました。

不安定な現在の国際社会、理念の不足。2

先日、山上正太郎著『第一次世界大戦 忘れられた戦争』(2010年、講談社学術文庫)を読みました。今年は2014年、第一次世界大戦勃発から100年です。この本を読むと、人間は合理的ではないなあと、考えさせられます。もちろん、私たちは、その結果を知っている現時点から、過去を判断するからです。
戦争が始まる前、始めたとき、戦争中と、関係者はその時点その時点で「良い」と思う決断をしたのでしょう。結果を教えてあげたら、多くの人は「そんな結果になるのだったら、やめておいたのに」と、言うのでしょうね。この本の中でも、戦争を始めたドイツ皇帝が戦争に負けそうになったときに、敵方のロシア皇帝やイギリス国王の不誠実をなじったり、開戦に踏み切った首相ホルヴェーグが自己の責任を反省しています。戦争を始めた皇帝たちは、よもやロシア、ドイツ、オーストリア帝国がなくなり、地位を追われるとは思ってもみなかったでしょう。
戦争になるかどうかは別にして、国際政治には単一の責任者がおらず、また利害や意見を調整するシステムがありません。それが故に、関係者の意図がうまく交換されず、また調整されないときがあります。「相手は、こんなことを考えているかもしれない」「いや、そんな意図で言ったのではない」と。
また、過去の思考の枠組みで考えていると、社会の変化に気づかず、歴史の大きな流れを読み間違うことになるのでしょう。第一次世界大戦は、総力戦が出現し、国民の支持がないと続行できない、政体も維持できないことを明らかにしました。19世紀とは違う社会が、出現していたのです。政治指導者の認識と、社会や経済の変化がずれていると、うまくいきません。それは、第一次世界大戦の後処理の失敗にもつながりました。ドイツへの過酷な懲罰は、第2次世界大戦を引き起こしました。
アメリカとソ連が「仕切っていた」20世紀後半は、それなりに「秩序」と「安定」がありました。1991年、ソ連の崩壊で、「冷戦」という安定の時代が終わりました。「歴史の終焉」(フランシス・フクヤマ)とも言われましたが、それから20年後に待っていたのは、全く違った世界でした。
共産主義が終わり市場経済が世界を覆いましたが、別の「勢力」が、国際社会の不安定要因として台頭しました。西欧自由主義・民主主義とは違う、イスラムという文明と、中国という経済と軍事力を急速に増強したしかし独裁国家と、ロシアという未成熟な自由主義国家などです。
さて、安定を失いつつある現在を、20年後や50年後の後世の人は、どのように見てどのように記述するでしょうか。「混乱はさらに大きくなり、・・・」と書かれるのか、「その混乱の中、世界の指導者達は、××によって、新しい秩序を作り上げた」と書かれるのでしょうか。(参照、「1914年と2014年の類似」4月22日の記事)

不安定な現在の国際社会、理念の不足

朝日新聞6月10日、オピニオン欄、三谷太一郎先生の「同盟の歴史に学ぶ」から。
・・冷戦後の世界は、多極化しました。ソ連が崩壊したあと、米国が空白を埋めて、絶対的なリーダーになるかと思われましたが、現実は予想に反しました。G8は、中国やブラジルなどを入れてG20になりましたが、覇権国家が消滅したことに着目すれば、現在の状況はG0(ゼロ)と言ってもよいかもしれません。冷戦後20年を超えた今日でも、安定的な国際秩序は未完の課題です・・
・・歴史上いまほど、理念というものが不足した時代はないでしょう。現在の世界的な傾向であるナショナリズムを超える理念が存在しません。裏返せば、国益に固執した短絡的なリアリズムが世界を支配しています。覇権構造が解体してしまった現実が私たちの眼前にあります・・

政策を支える知的基盤・政策共同体、2

もう一つは、「戦略文書の機能」についてです(p49)。
・・日本においては以前より、防衛大綱だけでなく、米国の国家安全保障戦略をモデルとした国家安全保障戦略に関する文書を策定すべきであるとの主張が少なくなかった。今回、国家安全保障戦略についての上位文書が初めて策定され、安全保障政策についてのベースが形成された。ただし、文書は単に文書に過ぎない。特に国家安全保障戦略は、防衛大綱や中期防と異なり、具体的な資源配分に結びつく文書ではないため、単なるレトリックに終わってしまう危険性は無視できない。
例えば、経営戦略論と安全保障戦略論の双方を分析した経営コンサルタントのカリフォルニア大学ロサンゼルス校教授リチャード・ルメルトは、その著書『よい戦略、悪い戦略』の中で、米国のブッシュ政権が策定した2002 年の国家安全保障戦略について、単に希望としての目標を並べたウィッシュリストに過ぎず、現実的な目標を達成するための具体的な手段が記述されていないことを指摘し、戦略と呼ぶに値しないと批判している・・
・・第1 期オバマ政権において、NSC の北東アジア担当上級部長を務めたジェフリー・ベーダーは、退任後2012 年に発表した回顧録の中で、NSC、国務省、国防省が定期的にグローバルな戦略を発表してきているが、それらは実際の危機に際して参照されることはほとんどないとし、かつ現実の政策決定は、戦略文書に基づいて行われるのではなく、その場その場の戦術的な決定の蓄積として行われるとして、こうした戦略文書について批判的な考え方を示している。
また、ブッシュ政権においてディック・チェイニー副大統領の安全保障担当副補佐官を務めたアーロン・フリードバーグは、『ワシントン・クォータリー』2007 年冬号に寄稿した論文「米国の戦略立案の強化」の中で、戦略立案(プランニング)プロセスの目的とは、一つの包括的な文書を策定することでも、各種の課題やさまざまな有事に対応する計画群を作成することではなく、行政府の政策決定者に対して適切な判断材料を提供し、戦略的な意思決定を支援することであると指摘している。
彼は、ドワイト・アイゼンハワー大統領が「計画(プラン)は無駄だが、計画立案(プランニング)は不可欠である」と述べたことを引用しながら、何らかの文書を作成することそれ自体よりも、計画立案プロセスを通じて、重要な政策決定に関わる関係者たちに、どのような意思決定を行う必要があるのか、その際にどのような要素を考慮する必要があるのかといったことを広く認識させていくことの方がはるかに重要であると論じているのである・・
戦略文書を作ることは、一つのアウトプット(結果)です。しかし、ある目的を達成する過程としてみるなら、それはインプット(入力)でしかありません。アウトカム(成果)は何なのか。それを問う必要があります。公務員が陥りやすい失敗は、ここにあります。