カテゴリー別アーカイブ: 政と官

行政-政と官

官から民へ

21日の朝日新聞では、「小さな政府改革、識者3人座談会」「官から民、なぜ今」で、北城経済同友会代表幹事、加藤秀樹構想日本代表、広井良典千葉大学教授が、議論しておられました。
「官から民へ」という言葉は、水戸黄門の「葵の印籠」のように、重宝がられています。私も使っています。もっとも、ここでも議論されているように、詳細は必ずしも詰まっていません。すなわち、なぜ官から民なのか、何をもって政府の大きさを測るのか、縮小すべきは何か、残る国の役割は何かが、問題なのです。
「官から民へ」は一つのスローガンであって、政治家がしゃべる分には良い言葉です。しかし、スローガンであるので、学問的には詳しくは定義された言葉ではありません。そして、この言葉は運動方向(ベクトル)を表しているのであって、対象物や目標は明らかではありません。もっとも、だからこそスローガンとして優れているのです。何にでも使えるからです。
なぜ官から民なのかは、赤字財政でこれ以上、今の財政支出を続けられないからです。また、官が支配することで、民間の活力が削がれるからです。
何を縮小するかは、分野別に議論しなければなりません。安全安心・社会保障などは、そうは縮小はできないでしょう、すべきでないでしょう。今後縮小すべきは、公共事業や産業振興だと思います。そしてこのような縦割り分野別でなく、横割り事務別の切り口も必要です。教育や福祉であっても、民間が実施できます、しています。官がしなければならないのは、その企画と基準作りと検査でしょう。実施は、どんどん民間に委ねることができるのです。
これからの行政や研究者の仕事は、どの分野どの事務を民に切り出すか、それを提言することでしょう。政治家は運動論、官僚と学者は理論編が仕事です。拙著「新地方自治入門」では、第8章で議論しました。機会があれば、もう少し議論を深めたいと思います。このことについて書いた本・教科書って、ないですよね。

審議会の弊害3

このような分析を進めると、次のようなことも見えてきます。
これまで、審議会は「官僚の隠れ蓑」と批判されてきました。それは、委員が各省の意向で選ばれ、審議会の運営が「根回し」「ご説明」などにより実質的に官僚によって取り進められることによって、審議会は官僚が実質的に決めた政策に「お墨付き」を充てるものになっているのではないかという批判です(拙稿「中央省庁改革における審議会の整理」)。私も、よくそう説明していました。
ところが、この批判もよく考えると、変な批判なのです。すなわち、この批判は、「政策は官僚が決めるもの」という観念にとらわれています。本来、民主主義国日本にあっては、政策は選挙で選ばれた政治家が決定するはずです。そこには、政策立案は政治家が官僚に丸投げし、官僚は自らは正統性がないので有識者の意見を聞いたという形を取る、という演技が透けて見えます。
例えば税制改正なら、首相・財務大臣・総務大臣のリーダーシップ、政府税制調査会、与党(税制調査会)の関係が、問題になるはずです。それは、誰が財政に責任を持つのか、また、国民に対して責任を持つのかということです。

審議会の弊害2

昨日の続きです。審議会の機能一つに、利害対立の調整が上げられることがあります。労使間や、医者と支払者、企業と消費者などなど。しかし、この機能も問題です。私は、審議会の整理をしているときから、変だなあと思っていました。結論から言うと、国会は何のためにあるのかということです。
例えば、今日の日経新聞「雇用改革論議を再開、厚労省が論点整理。労働政策審議会に厚労省が新たな論点を示すことで、来年の法整備に向けた本格的な論議が再開される・・」という記事の末尾に、「労使がそれぞれの利害を主張しあう旧来型の議論のスタイルが限界にきているとの批判も多い」との指摘があります。
まず、利害調整についてです。通常、議会などでは、ある議題を審議するときに利害関係者は退席させられます。当事者に有利にならないようにです。また、当事者が議論して結論を出すとすると、折り合いがつくまで結論が出ないのです。すると、合意ができるまで先延ばしする「全会一致の政治」になります。これでは、改革は進みません。利害関係者の意見は良く聞くべきです。しかし、結論はその人達を外して決定すべきなのです。
次に、利害代表者というものについてです。このような審議会の場合、委員は既成勢力の代表であって、それ以外、例えば国民が外れていることも多いのです。労働代表は、弱者の代表と思いがちですが、実は企業組合員の代表であって、それは今や勝ち組の代表です。結果として、この労働審議会も、パートや婦人を外していたのです。教育にあっては、設置者(文科省)と日教組の対立ととらえがちですが、顧客である児童生徒・保護者を忘れていることは、三位一体の記述で何度か指摘しました。その根底には、これまでの行政が、供給者の保護育成という立場であったことがあります。金融行政、畜産行政、薬品行政などについても、このHPで指摘しました。
利害調整は、それこそ、それらの対立する集団の代表であり、国民の代表である国会議員が行うべきことです。先の記者の言葉を借りれば、「今まで、労働者の代表、弱者の代表といっていた政党は、何をしていたのでしょうか」。

審議会の弊害1

省庁再編の時に、審議会の整理も担当しました。その考え方は、「中央省庁改革における審議会の整理」月刊『自治研究』(良書普及会、2001年2月号、7月号)に書きました。そのこともあってか、記者さんが聞きに来てくれます。最近では、税制調査会を官邸で開くことについてです。2001年の整理でほとんどの審議会は各省の機関としましたが、いくつか総理の諮問機関としたのがあります。その一つが税制調査会です。その事務局を財務・総務省が務めるのか、内閣府・内閣官房が務めるのか、それは決めの問題です。
もっと大きな問題は、税制調査会の存在そのものです。ある記者の言葉を借りれば、次のようになります。
「代議制民主主義とは、国民に負担を求める代わりに、代表を選出しそこで決めることである。そう学校で習った。とすると、税金は国会で決めるべきで、税調といった民間人が決めることではない」
確かにそうです。ただし、日本国においても、税制調査会は税制の原案を決めるのであって、内閣が法案にし、最終的には国会が法律で決定します。もっとも、首相と財務大臣・総務大臣が原案作りを「丸投げし」、民間人が案を作るのなら、この批判は「政治主導でない・政治責任を果たしていない」という意味で、当たります。また、国会での審議の際に「税調で決めたので」という説明をするなら、先ほどの記者の発言が当たります。

審議会政治の終焉

28日の朝日新聞社説は、「中教審答申、文科省の代弁者なのか」を主張していました。
「子どもたちの教育が大切なことは論をまたない。とりわけ義務教育はどこでも一定の水準を保たねばならない。だからといって、教職員の給与の半分を国が握っておく必要があるのだろうか。」「私たちはこれまで、地方に税源を渡すことについて『義務教育も聖域ではない』『教育を変える好機にしたい』と主張してきた。」
「中教審は教育学者や有識者らで構成されている。残念ながら、この答申は、地方への発言力を手放したくない文科省の思惑を代弁したものとしか思えない。」
ええ、その通りなのですが、審議会とは大臣に任命された委員が、官僚が用意した資料に基づいて議論する場で、答申案も官僚が書きます。そもそも、審議会が各省の「組織」ですから、この表題「文科省の代弁者なのか」という問いの立て方が、まちがっているのではないでしょうか。