「政と官」カテゴリーアーカイブ

行政-政と官

政策の評価

14日の朝日新聞「時々刻々」は、アメリカのブッシュ政権が議会に提出した、イラク情勢に関する中間報告を、取り上げていました。そこでは、政権の戦略とともに、イラク政府が果たすべき努力目標が18項目示され、達成状況が採点されています。及第点を与えられたのは、半分以下です。
先日、このHPで「検証・行政の評価」を書き、政策の評価にも言及しました。ちょうど良い例なので、紹介します。
この報告は、議会が政権に義務付けたものだそうです。「努力目標項目は、議会が設定した。よって、判断基準の一部に過ぎない」と、国防総省高官が語ったとも書かれています。政権側が評価するのですから、客観的でないとの批判も出るでしょう。しかし、それが次の政策への判断材料になります。
政策の評価、そして議会の役割を、考えさせる教材です。日本では、多くの審議会や懇談会がつくられ、政策の議論がされます。しかし、それは新しい政策を検討することが、多いのです。実績を評価する第三者機関としての働きは、ほとんどありません。官僚の隠れ蓑といわれるゆえんです。
また、評価するためには、評価する項目と物差しが必要です。「おおむね問題ない」では、次への参考になりません。

検証・行政の評価

11日の読売新聞1面には、2つの検証が載っていました。一つは、愛知県警によるもので、5月に起きた長久手町の籠城・発砲事件での初動捜査と救出作戦の問題点の検証です。もう一つは、総務省の年金記録問題検証委員会によるもので、社会保険庁の年金記録漏れ問題の原因解明と責任追及を行うものです。
行政の失敗や問題をなくすために、このような検証は必要なものです。問題が起きた場合、責任者がお詫びして、処分を受けるということは必要です。しかしそれは「責任を取る」ということで、原因究明・再発防止にはつながりません。空・鉄道事故調査委員会は、行政についてではありませんが、検証・原因究明を任務としています。今後、広く行政に関して、検証が行われるべきだと思います。
かつては、「官僚の無謬性神話」などもありました。私は、誰がこんな「神話」をつくったのか、不思議でなりません。「官僚は間違いを認めない人種である」ということが、間違って伝えられたのでしょうか。
行政執行の失敗の検証だけでなく、政策の検証も必要だと思います。課題は、誰がテーマを決め、誰が検証するかです。身内による検証も重要なのですが、客観性を担保するためには第三者による検証が必要です。
もう一つ、議会という最高の監視・評価機関があるのですが。

政策の統合

21日の日経新聞経済教室は連載「環境力」、加藤三郎さんの「方向の確立は立法の場で」でした。
・・日本では、欧州のような規制と経済手法を組み合わせて急所をつく対策は、見あたらない。その最大の原因は、相変わらず関係省庁が縦割り行政で、業界団体などの利害の調整に審議会・調査会などの従来のシステムに寄りかかり、大胆な対策を打ち出せない点にある・・
しかし、日本ではこの方法しかないのかというと、そんなことはない。その好例が、60-70年代に産業公害が社会問題化した折、国を挙げて取り組んだ象徴である「公害国会」である。
60年代に入ると開始された日本の高度経済成長は、一方で極めて深刻な産業公害を日本の各地にもたらした。まず地方自治体が条例などで対応しだしたが、国の対応は後手に回った感がある。
・・政府は公害対策本部を設置。公害対策閣僚会議を開催して対応に努めたが、官僚主導の限界はもはや明らかであった。そうした折りに注目が集まったのが、70年11月末から暮れまで開かれた臨時国会である。「公害国会」と称されたその場では、わずか1か月足らずで、一気に14本の公害立法を整備。それらの法律いずれもが、その後の公害対策に大きな役割を果たしたのである・・
70年代といえば、まだ官僚の力も強く、各省に設けられた審議会の権威も今とは比べものにならないほど高かった。制度設計の大枠もそうした行政の場で作られることが大半だったが、公害国会の例は、官僚機構や審議会だけでは遅々として進まない国の方向や枠組みを定めるという機能を果たしたといえよう・・

閣議決定の与党合意過程

18日のNHKニュースから。
・・18日開かれた自民党の政調全体会議で、政府の経済財政運営の基本方針いわゆる「骨太の方針」の素案に、歳出歳入の一体改革について、これまでの方針に沿って「最大限の削減を行う」という文言が盛り込まれたことに対し、社会保障費や公共事業費の削減は限界だとして見直しを求める意見が相次ぎました・・
この写真の左の列の途中から奥が、私たち役人です。諮問会議がつくった原案を閣議決定する前に、与党の合意が必要です。「骨太の方針」は、ほぼすべての省庁・自民党の部会に関係するので、全体会議で議論されていると考えられます。このニュースは自民党ですが、もちろん公明党も同じ手順を踏みます。内閣と与党の、いわゆる二元体制の現場です。私の大連載では、来月号で解説します。

政治の使用者責任

佐々木毅先生「政治は使用者責任をどう果たすか」月刊『公研』2007年6月号から。
・・政府が社会保険庁改革法案を提出し、その抜本的解体を試みるのは悪いことではないが、それを行えば責任問題は相殺できると考えているとすれば、これは見当違いである。民間の保険会社が未払い問題への応答を内部組織の変更で済ますわけにいかないように、政治が社保庁をどんなに叩いても国民は救われないからである。国民が怒るのは当然であるし、怒らない国民はどうかしている。
その結果として、役所を叩けば国民は溜飲を下げてくれるという固定観念に政治が訣別することにつながれば、これは不幸中の幸いである。国民は今や政治が役所を叩くことで政治の責任を果たせることができるかのような内輪の「古い物語」には、いささかうんざりしている。今年になってからも天下りの問題などでこうした手法は多用されたが、年金問題はそれを超えて政治の「使用者責任」へと国民の視点を向けさせた・・
この問題は何も今に始まった話ではなく、数年来の懸案であり、民間の保険会社であれば、金融庁から何度も業務停止命令を受け、廃業に追い込まれるような事態ではないか。このように「使用者責任」を役所叩きで代行させることはできないのである・・
公務員の採用から能力開発、評価と昇進、中途退職の扱い、退職と年金についてのシステム全体を掌握すること、そのための体制づくりが政治の任務になる。当然、現在の人事院の機能をどうするか、総務省や財務省などに拡散している諸権限をどう集中管理するか、有為な人材をどう集めるかといったことは、政治にしかできない仕事である。
この骨格部分の改革なしに、官民交流だとか、天下りの一元化とかいった事柄について、いわば「点」の議論をしても、その効果は所詮限定的である・・