カテゴリー別アーカイブ: 復興10年

自治体の対口支援

2月1日の日経新聞「東日本大震災から10年、災害支援 自治体連携進む」が、よい解説をしていました。

・・・2011年の東日本大震災では関西広域連合の7府県が支援先を分担して責任を持つ「カウンターパート支援(対口支援)」を始めるなど、地方自治体の組織的活動が注目され「自治体連携元年」とも呼ばれる。それから10年。広域連携支援は地震から風水害にも広がり、国も18年に自治体の対口支援を制度化した。しかし大きな被害が想定される首都直下地震や南海トラフ地震への支援体制は曖昧なままで、事前の備えが急務だ・・・

自治体による被災自治体支援は、東日本大震災で大きく進みました。この記事にも書かれているように、特定自治体が長期的に継続して支援してくれると、ばらばらな人が短期間に来てくれるより、はるかに効果が大きいです。これは、個人ボランティアより、組織ボランティアであるNPOが被災者支援の際には効果を発揮することと、並べることができます。また、支援した自治体も、勉強になるのです。
記事には、課題とその後の充実も書かれています。

原発事故被災地での農業再生

2月1日の毎日新聞が「福島の農、復興途上」を大きく伝えていました。
・・・2011年3月の東京電力福島第1原発事故で避難指示などが出た福島県沿岸部で、県外企業が進出してサツマイモの大規模生産を行ったり、ハイテクが導入されたイチゴなどの栽培が始まったりしている。東日本大震災後、風評被害で大きなダメージを受けた福島の農業は今、「再生」の兆しを見せていると言えるのだろうか・・・

具体事例として、菓子製造販売企業と連携したサツマイモの大規模栽培(楢葉町)、農業生産法人の支援を受けた稲作(浪江町、これはこのホームページでもしばしば取り上げています)。その他、イチゴや野菜工場です。
支援してくださる企業に、感謝します。課題は、担い手の確保です。

復興事業の教訓、過大な防潮堤批判

復興事業の教訓、過大な街づくり批判」に続き、「復興事業の教訓」その4です。
次に、防潮堤は過大ではないかという批判についてです。「多額の予算で防潮堤を復旧したのに、後背地に住む住民が少ない。金のかけすぎではないか」というものです。

公共施設災害復旧制度は、戦後70年にわたる経験から、立派な制度ができています。被災後直ちに現場を見て、元に戻す作業に入ります。早く安全な町に戻すためです。例えば2019年の台風19号による、長野県千曲川氾濫を思い出して下さい。堤防が壊れ、濁流が町や農地を呑み込みました。すぐに復旧作業が始められました。

では、なぜ津波被災地では、このような批判が出るのか。災害復旧は、担当部局が被災後直ちに事業に着手しました。安全な町を取り戻すために、急いでくれたのです。これは正しいことです(なお、防潮堤については従来の「これまでの津波に耐える高さにする」という哲学を変更し、100年に一度の津波には耐えるが、それ以上の津波には他の方法を組み合わせることにしました。L1、L2の考え方です)。
他方で町づくりをする復興事業は、今回が初めてでした。復興計画を作り工事を行うために、新たに復興交付金制度をつくりました。
その頃には、復旧事業は進んでいました。復興交付金制度に復旧事業費は入っていません。「なぜ入れないの?」と担当者に聞いたら、「復旧事業は既に進んでいて、これから交付金に組み込むのが難しいのです」との答えでした。私も納得しました。

防潮堤復旧が先に進み、町づくり計画が後から進んだのです。そして、「後背地の町と整合性がとれない防潮堤」といわれるものができました。
では、これまでなぜ問題にならなかったか。これだけ大きな町の復興事業がなかったこともありますが、人口減少が主たる原因です。住民が減らない、あるいは増える町なら、大きな防潮堤を造っても問題にならなかったでしょう。町が縮小するのに、それを考慮に入れずに防潮堤を復旧したことが、このような結果を生んだのです。部分最適が全体最適にならなかった例です。
その点では、宮城県女川町は街並みを中心部に集め、公共施設なども人口減少に対応した町を作りました。

今後の災害復旧事業では、「町が縮小するときに、各種施設を元の大きさで復旧するのが良いか」が問われると思います。それは、防潮堤に限らず、道路、学校、農地などにも当てはまると思います。

追加で、次の問題も述べておきましょう。3万戸の公営住宅を造りました。20年後や30年後に、いくつかの町で空き家がたくさん発生する恐れがあります。入居者に高齢者が多いからです。次の人が入ってくれないと、空き家が増えます。これは、建設時からわかっていたことですが、対処案は難しいです。

復興事業の教訓、過大な街づくり批判

復興事業の教訓、人口の減少、その2」に続き、「復興事業の教訓」その3です。
「防潮堤の復旧は過大だったのではないか」「まちの復興計画が大きすぎて、空き地があるではないか」という批判です。そのうちまず、過大な街を作ったのではないかという批判についてです。

実は、街づくり計画は、各地で何度も見直し、縮小しました。計画作りのために住民意向調査を行い、その後も工事に時間がかかるので住民意向調査を繰り返しました。すると、戻りたいという住民の数が当初より減ったのです。
そこで、いくつか計画した高台移転計画を縮小しました。条件の悪い地区を、やめました。
しかし、町の中心での土地のかさ上げ(区画整理)は、計画の見直し縮小は難しいです。一定の区画を限り、その地権者たちの同意を取って、全体の計画を作っています。公共施設の配置、道路の配置、地権者の新しい町での貼り付け、そして公共用地を捻出するために地権者の所有地をどの程度縮減するか(減歩率)を決めています。面として計画を作っているので、これを見直すのは大変な労力が必要です。そして、完成が遅れます。

なお、住民意向調査では時間が経つと、自費で戸建てを建てる人が減り、公営住宅に入りたい人が増えました。これは実施の段階で変更しました。

「地元自治体負担なしが、計画見直しを進めないことになった」との意見もあります。私も、自治体負担を少しでも入れておけば、議会が予算面からより監視機能を働かせたと思います。負担できない自治体は、別途国が予算支援をする必要はあります。

街づくりを担った職員が町役場の職員ではなかったことも、その原因の一つとして指摘されています。被災市町村には能力を持った職員が多数いませんから、他の大きな自治体から技術職員を応援に送りました。ところが、街づくり工事を応援職員だけでやっていて、役場内で孤立しているとの指摘もありました。
これらの点は、今後改善する必要があります。この項続く

参考「朝日新聞インタビュー「ミスター復興が語った後悔と成果」」「復旧事業費地方負担なし、関係者の声」。

復興事業の教訓、人口の減少、その2

復興事業の教訓、人口の減少」の続きです。次は、宮城県沿岸部です。
この図表でも、被災の10年前、直前、10年後を比べてあります。宮城県全体では、100、99、97で、微減です。沿岸部人口は表の下に示しました。減っていません。ただし仙台市を除くと、100、97、88と減っています。
そして各市町村を見ていただくと、仙台市とその近くの市町は増えていて、仙台市から遠い北と南の市や町が大きく減っています。

町が大きく壊れた町ほど復興工事が長引き、人口の流出が大きいという指摘がありますが、それも事実でしょう。他方、宮城県を見ると、それだけでは説明できません。地理的、経済的条件が大きいと思われます。働く場と都市的魅力がある地域、そこに近い地域が人を集め、そうでない地域は人口減少が続きます。
これは津波被災地だけの問題ではなく、日本全国で起きていることです。被災地は、それが劇的に起きたのです。

話は変わりますが、原発被災地では、県内のゴルフ場や那須高原に新しい町を作って、移住する案がありました。私は担当ではなかったのですが、意見を聞かれて反対しました。働く場所のない町は、持続しないからです。かつて、東京や千葉県にニュータウンがいくつも作られましたが、それは東京という働く場があったからです。それがないと「ベッドタウン」寝るだけの町になり、持続しません。この項続く