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行政-官僚論

伝道師活動

私がいそしんでいる「副業」=地方財政の伝道師活動をどう説明したら、みんなに理解してもらえるか。講演会に行ったり本を書いたりすると、「変わり者」といわれるので、考えていました。自分では正しいことをやっていると思っているのですが、どうも今の霞が関では違うようです。
先日、東大出版会のPR誌「UP」2004年12月号に、鎌田浩毅京大教授の文章を見つけました。「基礎科学のフロンティアとしてのアウトリーチ」です。
「理系ではアウトリーチが問題になっている。アウトリーチ(outreach)とは、知らない人に手を差しのべて、情報を伝えることをいう」「アウトリーチの目的は、研究資金の獲得・後継者の育成・一般社会に認知してもらうことの3つである」と書かれています。
そうなんです。私のやっている伝道師活動は、目的が少し違いますが、これなんです。専門分野の研究者が社会で理解を得るためには、これが必要なんです。しかも、社会を変えようとする官僚の方が、科学者よりアウトリーチ活動は重要なはずです。
「寄らしむべし、知らしむべからず」とか「俺がやっていることは正しい。理解できない奴がバカだ」では、通じませんよね。社会での理解を得るためには、理解者を増やさなければなりません。さらに、時代の流れ、流行語になるまではやらせないと、改革は進みませんよね。

1 官僚の発言

1 官僚の発言
(制度の維持と改革と)
官僚には、2つのことが期待されます。一つは、法律などで決められた制度の運用です。もう一つは、その制度の問題点や漏れ落ちている事項を見つけ、改革あるいはその提言をすることです。
その点、最近の官僚は「発言」が少ないと思います。それも、自分の名前での発言が少ないと思います。書かれている多くの「論文」は、制度の解説であって、未来に向けた改革論議は少ないです。時には、「文中、意見は私見である」と書いてあっても、文中に「意見」が出てこない「論文」もあります。

(発表の場)
官僚が自説を述べる場所も、案外ありません。各省が出す白書は、匿名です(この点、新聞の社説とよく似ています)。
各省が出版・関与している雑誌(政策情報誌)には、2種類有ります。私が面白いと思っているのは、「外交フォーラムESP」です。その他の多くは、提言や分析でなく、単なる解説が多いようです。
もう一つは、専門の商業雑誌です。これは「業界向け」ですので、読者の面から制約があります。改革論議よりは、制度の解説や予算の紹介が多くなります。一定の読者(購買層)が必要です。
私が専門にしている地方行政では、地方団体や地方公務員、大学などの研究者の需要があり、いくつもの雑誌があります。しかも、その性格上、予算の紹介ではなく、制度の解説と議論を内容とすることができます。
しかし、他の官庁では、そう多くはないのです。国家公務員制度や公務員管理、国の行財政改革について、これはという発表の場、あるいは発表している論文は見あたりません。
もう一つは、総合雑誌例えば「中央公論」等でしょう。
富山県庁にいるとき、「デルクイ」という、県職員による政策情報誌を創りました。実名・写真入りで、職員が自説を書くのです。かつ、市販しています。「デルクイ発刊趣意」(『デルクイ』創刊準備号1996年)に、私の意図を書いてあります。

提言・国家官僚養成2

その1」から続く。
②入省後における国家的視点養成の欠如
採用後は、各セクションで与えられた法律の解釈と実行をこなすばかりなので、省の枠をこえ、日本全体のこと国民のことを考える意識が次第に希薄になり、目の前の仕事しか見えなくなってしまいます。
キャリアアップの時点において、日本全体のことを考える訓練の機会がないうえ、私の入省当時と比べても、現在の若手の方が残業時間の長さ一つをとっても、忙しくなっています。これではますます大局観を養う時間的余裕がありません。
③官僚個人が実名で国の政策を論じ、発言する場が皆無
官僚が活字で政策に関与する機会いえば、白書や法の改正案など、匿名での執筆に限られています。他方、実名の場合は担当している政策の解説にほぼ限定され、局や省を超えた国家のあるべき論を主張できる場、機会、媒体は無きに等しいといっても過言ではありません。
現在、地方公共団体などでは、実名で自由な発言と建設指向を伴う批判の場を提供する機関誌などありますが、少なくとも霞が関にはない。官僚はもっと、恐れず、はばからずに発言すべきです。
このように、入省以前から入省後、そして官僚生活が定着するまで、こうした悪循環が続き、国家全体を考えなくなります。結果として、官僚に対する国民からの信頼は、ますます低下してしまいます。
現在、霞が関には約四万人の官僚がいますが、ほとんど皆が同様の危機感を抱いていると思います。誰もが心のどこかで何とかしなければ、と思っていながら、日々の業務の中でなんともできない、そんなやりきれなさを抱えでいるのではないでしょうか。
思い出すのは今から二十五年前、私が入省したばかりのころ、先輩からこんな謎かけをされました。「岡本君、今の霞が関は江戸末期の幕府官僚似ているだろう」と。
当時の江戸幕府には、門閥などもありましたが、養子縁組もあり、総じて優秀な人材が集い、俊英で構成された一大組織でした。が、その俊英ぞろいが、黒船来航時にあわてふためくだけで、あるいは評定を重ねるだけで有効な対策を打てず、逆に田舎侍と侮っていた薩長に大改革を断行されたわけです。これは、頭の良い人材でもセクショナリズムに凝り固まるほど、時流に即した改革ができない、という例証です。
これを現代に置き換えると、三位一体の改革がその象徴でしょうか。中央集権から地方分権へと構造改革を進めていく過程で、補助金削減については総論賛成各論反対により議論が停滞し、結局地方に改革案の作成をお願いすることになった。とはいえ、地方にできるわけがないと多寡をくくっていたところ、思いもよらず地方が案をまとめてしまった。こういう構図が、幕末のころと不思議なほど重なり合います。
フリー・エージェント制導入で精鋭集団を
現在の閉塞感を改めるには、何より現行の人事・キャリアアップ制度を改める必要があります。各省ごとの人事管理を存続するのであれば、少なくともその上に、各省に属さず、日本全体を考える官僚集団を設定せざるを得ないのではないか。言うなれば1種の上に、「スーパーゼロ種官僚」を置く形です。所属としては内閣官房あるいは内閣府で、各省にも配属されます。
採用後しばらくは基礎教育を施すために、各省に入省させて訓練を積み、各局総務課長くらいになったら、プロ野球選手のようにフリー・エージェント宣言をさせて、出身省庁に残るか内閣に赴くか、本人の意思とやる気に委ねるというのはどうでしょう。各省ごとに現場経験を積んだあと、出身省庁のしがらみから離れ、国家官僚として内閣で国全体の問題を議論し、国の方向性を定める。そういう精鋭集団が、必要となるのではないでしょうか。
今、総理を支えている内閣官房のスタッフも、結局は帰るべき所属省庁があります。それは出向ですから限界がある。将来にわたって国全体を考え、行動する集団を作る必要があるのです。だから、自らの意思で内閣にやってきた精鋭官僚については、退職後の処遇など内閣で引き受けるくらいの度量が必要です。そうすると後顧の憂いなく、むろん出身省庁を気にすることなく、国家全体を考えることができると思います。
私自身、『新地方自治入門-行政の現在と未来』の中で官僚論を書いたり、ホームページを立ち上げて発言の場をこしらえているのですが、それには自分自身の経験が役に立っています。一つは地方自治体(富山県総務部長)に出向し、一つの組織の政策から人事、予算まで、全体を見渡すことができ、かつ責任を持たなければならないという経験をしたことです。もう一つは中央省庁改革本部に在籍し、霞が関すべてを見渡せるポジションで仕事をしたことです。これらの経験が、大変な勉強になりました。
地方では組織運営とはどうあるべきかを学び、改革本部では出身省庁にとらわれず、今後の行政の在り方について考える機会に恵まれました。官僚組織全体のあり方を問う発想、一つの枠を越えて日本社会全体をとらえる目、これらは一つの省庁にとらわれている限り身につきません。
それは官僚個人の潜在能力を考えると、実にもったいない話です。何とか人事制度を改めて国家観を持つ官僚を育て、そして活躍できる場を作るべき。切にそう思います。

 

提言・国家官僚養成

「国家官僚」の養成に向けて、人事制度を改めよ
省庁にとらわれない、「スーパーゼロ種官僚」の創設を
「官僚」の二文字が意味するもの
一人の官僚として、現在の霞が関は、非常に残念な状況です。
日本社会が、ヨーロッパへのキャッチアップを果たし、豊かさを獲得して、新たな社会構造へ方向転換をしようとしています。なのに、最も変化の流れに乗り遅れているのが、官僚機構だと思います。
確かに今までは、中央行政府のもと、官主導で政策を引っ張ってきました。が、現在の転換は、一つは官から民へ、あるいは中央から地方へという流れてありながら、官僚機構とその機構を構成する官僚個々人が、乗り切れていないという状況です。
官僚一人一人については、決して能力が低いわけではありません。むしろ仕組みに問題があると言えるでしょう、ではその問題とは何か。端的に表現すれば、各省もしくは各局ごとの官僚は、各々の持ち場で頑張ってはいるのですが、局や省にとらわれず国家全体を見渡す官僚、すなわち「国家官僚」がいない、同時にその仕組みもない、ということです。この点に、現在の霞が関が陥っている機能不全、地盤沈下、そして国民の期待に応えきれていない原因があると思います。
本来であれば、日本で最も難関の一つである国家公務員試験を突破し、入省後は毎晩遅くまで残業重ねている官僚が集いながら、そのアウトカムにおいて国民の支持を必ずしも得ていない。どんなに個別セクションごとに頑張っていても、全体として国民の求める期待から乖離し、ズレが生じてしまっているのです。
今まで、官僚機構が機能を果たすことができた理由は、まず目標が明確だったこと、そして手法が簡単だったことにほかなりません。目標とは、欧米に追いつき、追い越すこと。手法とは、補助金その他の財源を投じてモノを作ること。すなわち、公共事業やナショナル・ミニマムの行政サービスを提供するといったことなどです。
それを実現するには、各セクションごとの官僚が、己の分野で目指す目標に対し頑張っていけばよいのであり、事実それを実現してきました。近代そして戦後のわが国の行政は、世界でも最も成功したといえるでしょう。明確な目標、潤沢な財源、そして実行にあたる有能な官僚がそろっていましたから。
それが目標を達成したときに、次なる目標に速やかに転換すべきだったのに、組織と人が未だに発展途上国当時の思考にとどまっている。だから現在の問題に対応できなくなっているのです。
確かに、官僚機構というものは、分節化された個別の目標に対処する組織ゆえに、全体的な目標と対応を求めることに、そもそも無理があるのかも知れません。しかしあえて指摘したいのは、「公務員」の三文字が意味する内容は、目標ごとに与えられた仕事を達成する一種の機械的側面があるかも知れませんが、これが「官僚」の二文字になると、それを超えて日本全体を考える役割が求められると思うのです。
そしてわれわれは公務員にして官僚です。むろん、目の前の仕事を粛々とこなすことも必要ですが、日本社会が必要とする変革を見出し、そのために改革を提唱することも、官僚に対する国民の期待です。
そうした創意と創造は、本来政治家の役目かも知れませんが、政治には、国全体の舵取りという、より大きな役目があります。われわれ官僚には、問題の発見と政治が示した方向を具体化するという、実務レベルでの仕事を要求されていると思います。
ですが、現状では日々公務員としての仕事はこなしつつも、官僚としての役割は果たしていると言い難い。これが冒頭の、官僚として非常に残念な状況の背景です。
三つの原因
その原因を分析すると、以下の三点に集約されると思われます。
①大学教育におけるフィールドワークの欠落
国民にとって新しい幸福を追求するための新しい政策を創出する教育を受けていないこと。官僚のほとんどは法学部か経済学部の出身ですが、法学部はできた法律の解釈学に没頭し、経済学部も既存の経済理論を反復するばかりで、何かを造る、生み出すという訓練がなされていません。また、そもそもそのような学部、教育システムがありません。
例えば福祉分野はまさに国全体の大きなテーマですが、実際には地域地域で問題が発生するため、草の根的な視点が求められるわけです。しかし、そうした視点で問題を解決し、対策を講じるというフィールドワークの訓練を受けた経験などありませんから、いざ官僚になっても何をどうしていいかわからない。
何しろ大学時代に習ったことといえば、英語、フランス語、ドイツ語などのヨコ文字をタテ文字に直すことだったのですから。まず官僚になる前の教育段階で、国民の不満を吸い上げ政策に反映させるための理論と実践をまったく学んでいないのです。これが一つ。
その2」に続く。

予算査定の成果

国では、8月31日に来年度予算の各省からの要求が出ました。新聞各紙は、「予算編成作業が始まった」と書いています。今日は、国の予算査定について解説します。
「31日に開かれた主計官会議の席上、主計局長が強い口調で、各省庁の予算要求に切り込むよう発破をかけた」(9月1日日本経済新聞など)とあります。
確かに、このような姿勢は重要です。しかし私は、このような訓辞に疑問を持っています。これから12月まで財務省主計局による予算査定が行われますが、そんなに大きく削減できるとは思われません。
主要な経費は、社会保障・教育・公共事業・国債償還・人件費です。社会保障費はその主要な部分について、仕組みが法律で決まっています。仕組みを変えない限り、高齢者や医療費が増えると自動的に増えます。年金・医療・介護・生活保護について、この秋に主計官が査定で変えることができるのは、そんなに大きくありません。
教育も、40人学級の制度を変えない限り、生徒数に応じて教員給与は決まります。これらについては、何年も前から制度改正を仕組まない限り、秋の査定で削減はできないのです。人件費も同じです。国債償還費は既に決まっています。あとは金利が上がれば、利払い費が増えます。公共事業は、査定の余地があります。
また国庫補助金については、先に紹介したように財務省は「なぜ不要か説明してもらう」と自ら言っていますから、これが削減されることは「期待薄」でしょう。
となると、査定できる範囲は非常に限られてきます。事務費といくつかの政策経費(それも小物)しかないのです。
また、予算の基本方針は、経済財政諮問会議で決められます。そして、予算要求は「要求基準」いわゆるシーリングに基づいて行われます。となると、大幅な歳出削減をするためには、次のような手順が必要です。
まず、社会保障などについて、制度改革の方針を決める必要があります。これは数年かかります。次に、公共事業について、諮問会議で削減スケジュールを決める必要があります。それを、要求基準に盛り込む。こういう手順を取らないと、秋の査定ではほとんど削れないのです。
「精神論」だけでは、結果は出ません。上司たるもの、部下に対し、目標値と手法を示す必要があるのです。主計局長は、どの程度の目標を示されたのでしょうか?
毎年、主計局ではこのような号令がかかっていると思います。でも、その結果どの程度削減できたのか、評価をすべきでしょう。財務省詰めの記者さんたちが、ここ数年の実績を調べてくれることを期待します。赤字国債は30兆円にもなっています。12月に、今回の予算査定で何兆円削減できたかを見ることにしましょう(拙稿「予算査定の変容」月刊『地方財務』2003年12月号を参照ください)。