カテゴリー別アーカイブ: 官僚論

行政-官僚論

御厨先生、公文書を残さない官僚の出発点

5月27日の読売新聞1面コラム「地球を読む」は、御厨貴先生の「公文書文化の大革命期に」でした。
先生が研究を始められた時、明治や大正期の公文書を元に進められました。資料として残っていたのです。しかし、その後は、公文書がきちんと残らなかったのです。

・・・それは、敗戦と占領に由来する。1945年8月の敗戦は公文書にも未曾有の混乱をもたらした。「国家の崩壊」に至るプロセスを明らかにするために必要不可欠な公文書の多くが持ち出され葬り去られた。大蔵省や陸軍省、内務省などの有力官庁は、まさに鬼の来ぬ間に、すなわちまもなく到来する占領軍に押収される事態をなによりも恐れ、阻止せねばと考えた。従って、日本の戦争責任に関連すると覚しき公文書類を、すべて焼却に努めたのである・・・
・・・自らやってきたことをうやむやにし、公文書を軽視する姿勢はここに発した。そればかりか、連合国総司令部(GHQ)支配の下で官僚たちは、証拠を隠滅するくらいならいっそとばかりに、明治以来の公文書作成の伝統に逆らい、なるたけ証拠文献を残さず、あれこれ書かぬ習慣にしてしまった・・・

・・・とまれ現代史を追究する研究者にとって、官庁文書は無い無い尽くしだった。80年代末から私が官僚OBへの「オーラル・ヒストリー」を準備し始めたのも、文書なき世界を彼らの証言で少しでも明らかにするためであった・・・
・・・かくて平成の30年間は、官僚制の緩慢なる弱体化の進行と見合っていた。90年代のバブル経済と相次ぐ官僚制のスキャンダルめいたいくつかの事件が、それを象徴している・・・
・・・されば、ポスト平成期こそ、公文書文化にとって大革命の時代の到来でなくてはなるまい・・・

鋭い、そして厳しい指摘です。
官僚たちに、自らやっている仕事に自信があるなら、記録をきちんと残すはずです。それが成功した場合も、失敗に終わった場合も。政策案を提示し、それを実行する、そして成果について評価を待つ。それが官僚のあるべき姿でしょう。
ぜひ、全文をお読みください。

霞が関の働き方改革

5月25日の日経新聞夕刊「政界Zoom」は、「霞が関も働き方改革」でした。しばらく前に、記者さんと雑談していた際に、「日本の3大ブラック職場は、過労死が出た電通のほか、霞が関、新聞記者だ」という、笑えない冗談が出ました。それほど、霞が関と記者の長時間労働、夜間労働は有名です。記事は、最近の変化について書いています。お読みください。

私も、近年の変化を感じています。
私の駆け出しの頃は、時期によっては職場に泊まり込むことも仕方ない(当然だ)という意識の職員もいました。はい、私もそうでした(参照、日経新聞夕刊コラム3月1日「仕事人間の反省」)。自分の経験に懲りて、課長になってからは、極力職員早く帰宅させるように心がけましたが。時期によっては、そうもいきませんでした。
また、かつては年休を取ることは、後ろめたかったですが。今は産休・育休を含めて、休みを取ることを、上司が推奨しています。職員の意識も、職場の慣行も、大きく変わってきました。普通の職場になりつつある、ということです。
上司の考え方、仕事の仕方(指示の出し方)によって、まだまだ残業は減らせると思います。拙著『明るい公務員講座 仕事の達人編』を参考にしてください。もっとも、国会待機などは、職場での工夫には限界がありますが。

ところで、記事にも書かれていますが、国家公務員には労働基準法が適用されず、今回の働き方改革法案からも除外されているようです。かつては、国家公務員は民間労働者とは違う「身分」という意識があったのでしょう。今やそれは、過去のものとなりつつあります。
機能ごとに、民間労働者と違う規制をすべきかどうか。それを見直して、法令による規制を行うべきでしょう。政治的行為の禁止、倫理法は公務員だけに適用されても、労働時間を民間労働者と別扱いする理由はないと思います。

官僚の行動原理?

5月19日の朝日新聞オピニオン欄、豊永郁子さんが、「忖度を生むリーダー」に、ハンナ・アーレントの有名な著作「エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」から、ナチスのユダヤ人大量殺戮がどのように実行されたか、官僚はどのように行動するかについて書いておられます。官僚のみならず、組織人に共通することででしょう。しかし、公権力の行使をする官僚には、会社員とは違った倫理が求められます。

・・・アイヒマン裁判でも、アイヒマンにヒトラーからの命令があったかどうかが大きな争点となった。アイヒマンがヒトラーの意志を法とみなし、これを粛々と、ときに喜々として遂行していたことは確かだ。しかし大量虐殺について、ヒトラーの直接または間接の命令を受けていたのか、それが抗(あらが)えない命令だったのかなどは、どうもはっきりしない。
ナチスの高官や指揮官たちは、ニュルンベルク裁判でそうであったが、大量虐殺に関するヒトラーの命令の有無についてはそろって言葉を濁す。絶滅収容所での空前絶後の蛮行も、各地に展開した殺戮部隊による虐殺も、彼らのヒトラーの意志に対する忖度が起こしたということなのだろうか。命令ではなく忖度が残虐行為の起源だったのだろうか。
さて、他人の考えを推察してこれを実行する「忖度」による行為は、一見、忠誠心などを背景にした無私の行為と見える。しかしそうでないことは、ヒトラーへの絶対的忠誠の行動に、様々な個人的な思惑や欲望を潜ませたナチスの人々の例を見ればよくわかる。

冒頭で紹介したアーレントの著書は、副題が示唆するように、ユダヤ人虐殺が、関与した諸個人のいかにくだらない、ありふれた動機を推進力に展開したかを描き出す。出世欲、金銭欲、競争心、嫉妬、見栄(みえ)、ちょっとした意地の悪さ、復讐心、各種の(ときに変質的な)欲望。「ヒトラーの意志」は、そうした人間的な諸動機の隠れ蓑となった。私欲のない謹厳な官吏を自任したアイヒマンも、昇進への強い執着を持ち、役得を大いに楽しんだという。
つまり、他人の意志を推察してこれを遂行する、そこに働くのは他人の意志だけではないということだ。忖度による行動には、忖度する側の利己的な思惑――小さな悪――がこっそり忍び込む。ナチスの関係者たちは残虐行為への関与について「ヒトラーの意志」を理由にするが、それは彼らの動機の全てではなかった。様々な小さなありふれた悪が「ヒトラーの意志」を隠れ蓑に働き、そうした小さな悪が積み上がり、巨大な悪のシステムが現実化した。それは忖度する側にも忖度される側にも全容の見えないシステムだったろう・・・

予算執行を急ぐと・・・?

5月18日の日経新聞「司令塔不在の科技政策」から。詳しくは原文をお読みください。

・・・内閣府の大型研究開発プロジェクトである戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)で、一部の候補者に事業の詳細を説明して応募を促していたことが判明した。プロジェクトを指揮する「プログラムディレクター」は公募が大前提で、選考の透明性や妥当性から疑問が投げかけられた。5年間に約1500億円規模の予算を投じる大型プロジェクトは、どんな問題を抱えているのか。
SIPは政府の総合科学技術・イノベーション会議(議長・安倍晋三首相)が主導して、2014年度に始まった。従来の省庁の縦割りによるテーマ選定をやめ、横断的な研究を推進することを目標に掲げた。産学官連携で基礎から実用化までつなげて産業競争力を高め、新たな市場や雇用を生むのが狙いだ。リスクは大きいが、成果が出れば社会や経済に大きな影響をもたらすテーマが対象になる。
今回問題になったのは、18年度から始まるSIPの2期事業だ。内閣府は12の研究課題についてディレクターを公募し、4月13日に11課題の内定者11人を発表した。このうち、10人は内閣府の依頼で関係する省庁が候補に挙げた研究者だった・・・

・・・2期は当初、19年度の開始を予定していたが、17年末に補正予算がつき、1年の前倒しが決まった。内閣府は3月にホームページで公募を開始し、短期間で選ばざるを得なかった。ディレクターは非常勤の国家公務員になるため、公募が通常の手続き。結果的に公募なのに、推薦で候補者を募っていることを周知せずに選考を進めてしまった・・・

・・・こうした施策で、科技イノベーション会議の司令塔機能が高まることが期待された。だが事務局の多くは各省庁や企業からの出向者で、必ずしも科学技術政策に詳しいわけではない。有識者議員の多くは非常勤だ。世界の研究動向も十分に把握できていない。
内閣府の大型プロジェクトは他にもあるが、ほとんどが当初の狙い通りの成果を出せていない。問題を抱えた体制を見直さずに推し進めても、成果は期待できない・・・

塩野七生さん、この頃の官僚

塩野七生さんは、しばしばハッとするような、分析をされます。食を巡るエッセイに、次のような文章があります。『想いの奇跡』(2018年、新潮文庫に再録)p131「イタリアを旅する」。この文章は、2008年に書かれたものです。

・・・一昔前は、高級官僚にも政治家並みの健啖家が多かった。政治家は始終人と会っているためか食欲の旺盛な人が多いが、官僚も政治家同様に健啖家であったのだ。それがこのごろでは、なぜか食の細い人が多くなった。それに比例して、仕事もできない人も多くなった気がする。
昨今の官僚タタキも、仕事ができるがゆえに権勢もある官僚だからタタくのではなく、真の力がないために既得権益を守ることしか頭にない官僚に、国民が愛想をつかしたからではないかと思っている。こんなへっぴり腰の集団に自分たちの運命を左右されたのではたまったものではないとは、私だって感じているのだから・・・

塩野さんの眼力が素晴らしいとともに、イタリアから見ていると、日本にいるより、日本が見えるということでしょうか。