カテゴリー別アーカイブ: 官僚論

行政-官僚論

田中秀明・明大教授。官僚、1ポスト3年原則に

日経新聞10月4日の「政と官」、田中秀明・明大教授の「1ポスト3年原則に」から。
・・・霞が関からの人材流出は、長時間労働など仕事がブラックであることと、やりがいが失われた点が大きい。忙しくても専門性が身につけばいいが、実際は夜中に国会議員の質問通告を待つとか、その答弁を書くといった生産性の低い業務を重ねている。霞が関で通用する暗黙知は身につくが、市場価値は高まらない・・・

・・・年次主義と順送り人事がセットになっているから組織が活性化しない。事務次官が1年で代わることが多いが、大きな弊害だ。リスクを取って課題に挑戦することは難しく、上司の意向を忖度(そんたく)し、うまく立ち回る方が合理的になる。「1ポスト3年」を原則とし、成果で人事評価すれば霞が関は変わる。

公務員の任用には政治任用と資格任用がある。米国は局長以上は政治任用で大統領が任免する。大統領へ従順に仕える『応答性』が求められ、政治家の分身として政治的な調整もする。ただ課長までは能力や業績で任命する資格任用で専門性が重視される。英国などは次官に至るまで資格任用で、代わりに政治任用の大臣顧問がいる。

米英とも政治任用と資格任用を明確に区別している。日本は曖昧で、安倍政権では資格任用の一般の公務員が、首相や官房長官らの裁量で選ぶ(事実上の)政治任用になっている。幹部公務員は「応答性」を強く求められ、忖度に走る・・・

・・・日本の公務員が政治化していることに問題の根源がある。一般公務員が政治的な調整や根回しを担って各省庁の利益の拡大を図る一方で、専門性に基づく分析や検討はおろそかになっている・・・

教員と校長の違い

幹部と職員の違い」の続きです。
この点で、8月29日の読売新聞解説面、アンドレアス・シュライヒャーOECD教育スキル局長のインタビューが参考になります。日本の教育改革=「教師主導の学び」から「主体的・対話的で深い学び」への転換についてです。

・・・各学校で良い方法を取り入れる際、教師たちは協力し、教師一人一人が強い自覚を持ち、学校の実情に合わせて試行錯誤する。それにはリーダーシップが必要だ。時代の変化に対応しながら学校が進化し続けるためにも強力な統率力が不可欠だ。だが、OECD調査によると、日本の校長は各国に比べて、自らを学校教育を引っ張る存在だと意識していないようなのだ。
教師生活の最後を飾るため校長になるのは、必ずしも良いモデルではない。シンガポールでは教師になると、将来は教科の専門教師になるか、校長として学校を運営するか、人材に養成かなどの方向を決める。だから、40代の校長もたくさんいる。日本ももっと若い校長がいていい・・・

記事には、OECD調査「中学校長は教育でリーダーシップを取っているか」の各国比較が出ています。日本はダントツ最下位です。
ここには、二つの要素があると考えられます。一つは、今回指摘している、日本の職場に共通する、管理職と一般職員との区分の不明瞭さです。
もう一つは、文部省→県教委→学校現場という「上意下達方式」の教育内容・方法です。

連載「明るい公務員講座中級編」では、良い係長が良い課長になるとは限らないことをお教えしました。青虫が蝶々になるためには、脱皮しなければならないのです。
スポーツの世界でも、良い選手が必ずしも良いコーチや監督にならないことが知られています。しっかりした競技団体では、指導者研修を受けないとコーチや監督になれないようになっています。
この項続く

幹部と職員の違い

次官・局長の報酬と社長・専務の報酬」の続きです。

公務員の給料は、民間準拠が原則です。全体としてはそうなっているのでしょうが、指定職層(次官・局長・審議官。民間の社長・副社長・取締役に相当すると言われています)での比較は、どうなっているのでしょうか。
公務員の給料体系は、「平等主義」が行き過ぎているように思えます。諸外国や企業のように、「普通の職員=普通の仕事=普通の給料」に対し「責任あるポスト=仕事も過酷=高給」と差別化すべきです。また、労働時間も、後者にあっては定時出社・定時退社は当てはまらない場合があります。
記事でも指摘されているように、高級幹部は責任と評価を厳しくし、報酬も上げるべきでしょう。すると、1年で異動するようなことも、やめなければなりません。

(職員の延長に管理職があるのではない)
この問題を考えると、職員と管理職、特に高級幹部との仕事と責任の違いに行き着きます。
職員の延長に管理職がある、のではありません。軍隊に、士官と兵卒という区分があります。仕事の内容も育て方も違います。企業や役所でも、管理職と職員とは求められる職責が違うのです。もっとわかりやすいのは、学校の校長と教員です。校長と教員とでは、求められるものが違います。

簡単に言うと、「するべきことを考え・指示を出し・責任を取る人」と、「指示を受け実行する人」との違いです。職員の延長に局長があるのではなく、社員の延長に社長があるのではありません。そして、育て方も変えなければなりません。
もちろん、幹部になる人たちも、「一般職員」を経験することで、現場と仕事を覚えるとともに、幹部になる勉強をします。しかし、幹部になる人と職員で終わる人とは、身につけなければならない能力が違うのです。

日本では、職場でこのような差をなくすことが進みました。カイゼン運動も、職員・社員に意欲を持ってもらい、職場の効率を上げるためには良いのですが、職責の違いを希薄化させる副作用があったようです。
官庁では、かつて上級職と中級職・初級職の違いがありました。しかし、この区分がなくなるとともに総合職が多くなり、高級幹部養成課程があいまいになりました。
この項続く

次官・局長の報酬と社長・専務の報酬

9月8日の日経新聞オピニオン欄。上杉素直さんの「公務員を生かすために」から。

・・・大臣を支える官僚はどうか。人々をあきれさせる不祥事が立て続けに起きる惨状を目にすると、だれしもが役所の規律の緩みにクビをかしげざるを得なくなる。ただ、ひとつのテーマに長年にわたって携わる役人の知識と経験は本来、政策をつくって円滑に進めるうえで欠かせないパーツだ・・・
・・・にもかかわらずと言うべきか、待遇面にスポットを当てれば、社会の期待に応えられる才能を役所が継続的に集めていけるかどうか心もとない。報酬の官民差が鮮明になっているからだ。
典型的なのがトップクラスの人材。役所の事務方の頂点に立つ事務次官のモデル年収は17年度で2327万4千円、本府省の局長は1772万8千円(内閣官房内閣人事局「国家公務員の給与(平成30年版)」)。デロイトトーマツコンサルティングの17年の調査によると、東証1部上場334社の社長報酬の中央値は5435万2千円で役所の次官の2.3倍だ。次官の給与は1部上場企業の取締役・執行役員よりは多いが、専務や常務クラスよりも少ないくらいの位置付けにある・・・
・・・責任と権限が大きなポストに関する限り、ほかの先進国の公務員は日本より明確な競争と評価にさらされている。日本が行政システムの手本にした英国は事務次官の年収が成績評価に応じて最高20万ポンド(約2800万円)から14万2千ポンドまで上下する。ドイツの事務次官や局長は「政治的官吏」と呼ばれ、いつでも職務を外されるリスクと背中合わせだ。横並び主義の根強い日本だが、たとえば次官や局長だけでも処遇の発想を転換したら、役人のイメージごと変わるのではないか・・・

ありがとうございます。ご指摘の通りです。もちろん、企業と行政を単純には比較できません。「公務(のやりがい)は、お金(の多寡)じゃない」と言う人もいますが、そのような志だけに頼っていては、良い人材は集まらないでしょう。
私は、40年前に公務員になりました。その際に、民間企業に比べ収入は少ないと聞いていましたが、これだけも差があるとは知りませんでした。かつて、母校の高校で後輩たちに、私の仕事をお話ししたことがあります。その際に、年収を話したら、後ろで聞いていたお母さんたち(私の同級生)が、余りの少なさに絶句して、同情してくれました。

記事では、上場企業334社の社長・専務・常務と比べています。この人たちと比べても、次官や局長の報酬は、はるかに少ないのですが、もう一つの比較があります。友人たちと話すと、しばしば大学時代の同級生との比較がでてきます。いわゆる大企業の社長、副社長との比較です。この場合は、次官や局長は、恥ずかしいくらい少ないです。

実務でも、問題が出ています。独立行政法人など役所の外郭団体です。民間人を登用するとの趣旨で、企業の幹部を採用する場合があります。ところが、年収2千万円くらいでは、大企業幹部は年収1億円~5千万円程度ですから来てくれません。よほどの「ボランティア精神」か「公共心」でもないと。
この項続く

東大法学部の凋落

8月5日の読売新聞1面コラムは、北岡伸一先生の「東大法学部の凋落 官僚バッシングの帰結」です。東大法学部の人気が落ちていること、公務員制度の危機を書いておられます。

・・・給与は安い。一流企業と比べると、かなり安い。役人トップの次官でも、大企業トップの10分の1程度、好調な民間企業の課長程度である・・・恵まれない条件でも優秀な若者が霞が関に進むのは、国家の運営に携われる使命感と満足感からだった。しかし現在、それも難しくなっている・・・
・・・かつて世界の日本に対する信頼は公務員にあった・・・しかし、現状のような劣悪な待遇と政治に対する自律性の喪失が続けば、質の高い日本の官僚制は、維持できないだろう・・・

・・・東大法学部の側にも一定の責任がある・・・現実の世界の問題に対応する生き生きとした学問を教えているだろうか。例えば憲法学である。憲法(Constitution)とは骨格のことで、元来、国家の基本法のことだ。しかし東大(のみならず大部分の大学で)の憲法学は、ほとんどが日本国憲法の解説である。日本をより良く運営するにはどうすべきか、世界の大きな変化にどうすれば的確に対応できるか、といった議論は、ほとんどなされていない・・・

ぜひ、原文をお読みください。
官僚制批判は昔からありますが、昨今の批判は質が違ってきています。かつての批判は、官僚を批判しつつも信頼してもらっていました。近年は、仕事の成果において、そして立ち居振る舞いについて、国民の信頼を失っています。私には、これが心配です。先日の毎日新聞インタビュー日経新聞インタビューでも、指摘しました。

北岡先生の指摘の後段、東大法学部がふさわしい教育をしているかについても、同感です。かつては官僚をつくるための「予備校」でした。明治国家がそのために東大を作ったのですから。そしてその教育内容は、欧米先進国に学ぶことと、できあがった法律の解釈論でした。そこに満足していることで、発展は止まりました。
卒業して官僚になると、その弊害が出て来ます。既存の法律を解釈するには長けているのですが、それが故に、新しい法律を作らない結果になるのです。
優秀な官僚ほど、現状維持になってしまうのです。(このホームページでも指摘し続けています。例えば「提言・国家官僚養成」。かなり古いですね)