カテゴリー別アーカイブ: 寄稿や記事

雑誌への寄稿や取り上げられた記事、講演録など

石原信雄さん追想録

日経新聞5月19日の夕刊追想録、「故・石原信雄さん(元内閣官房副長官) 官僚の矜持体現」に、私の発言が引用されています。

・・・国家運営を担う官僚の矜持を体現した存在だった。官僚トップの官房副長官として政治家に耳障りでも官僚としての正論を説く。政治が方向を判断すれば霞が関の声を踏まえバランスよくさばく。歴代首相は首相官邸の要として手放さず、支えた首相は7人を数えた。

「政治主導への過渡期という時代が石原さんを必要とした」。旧自治省で薫陶を受けた岡本全勝元復興次官はこうみる。
時は冷戦終結後、日本は市場開放や自衛隊の海外派遣など通商政策や外交安全保障政策の転換を迫られた。
今なら政治主導で決めることだが、当時の政治にその備えは十分でなく、石原氏は政治判断でも頼られた。湾岸戦争で米国に90億ドル拠出を求められた際は、海部俊樹首相に「やむを得ません」と決断を促し、小沢一郎自民党幹事長から了承を取り付けた・・・
追悼、石原信雄さん

コメントライナー寄稿第11回

時事通信社「コメントライナー」への寄稿、第11回「「行政文書」は正確か」が、5月11日に配信され、16日にはiJAMPに転載されました。時事総研ホームページでも、しばらく見ることができるようです。

この3月に国会で、総務省の文書が正確かどうか、が議論になりました。「行政文書なのに、内容の正確性が争われることがあるのか」と疑問に思われた方もおられるでしょう。
私が鹿児島県文書課長を務めた約40年前には、現在の「行政文書」という言葉はありませんでした。職員が作った文書は、「公文書」といわれる保存を前提とした重要な文書と、それ以外の執務の過程で作ったメモなどに区分されていました。

「行政文書」という言葉は、1999年に制定された「情報公開法」で作られました。同法では、行政文書には、先に述べた公文書とそのほかの文書の両方が含まれることになりました。ここに、「革命」が起きました。

「公文書」は正確ですが、「そのほかの文書」はええ加減な物です。例えば幹部から電話で指示があったとします。メモを取とった場合に相手に確認を取ることができればよいですが、ほとんどの場合そんなことはしません。「今の話を文書にしました。これで間違いなければ確認の署名をください」と言うことは難しいです。上司には「アレをアレしておいてくれ」というような指示をする人もいます。
そのようなメモについて「正確ですか」と聞かれても、作成者は「私は正確だと思いますが・・」としか答えようがありません。

岸宣仁著『事務次官という謎』

岸宣仁著『事務次官という謎 霞が関の出世と人事』(2023年、中公新書ラクレ)が、出版されました。長年、大蔵省・財務省を中心に官僚を取材してきた記者による新書です。

アマゾンには、次のような紹介があります。
・・・「事務次官という謎」を徹底検証!
事務次官、それは同期入省の中から三十数年をかけて選び抜かれたエリート中のエリート、誰もが一目置く「社長」の椅子だ。
ところが近年、セクハラ等の不祥事で短命化が進み、その権威に影が差している。官邸主導人事のため省庁の幹部が政治家に「忖度」しているとの批判も絶えない。官界の異変は“頂点”だけに止まらない。“裾野”も「ブラック」な労働環境や志望者減、若手の退職者増など厳しさを増す。
いま日本型組織の象徴と言うべき霞が関は、大きな曲がり角を迎えているのだ。事務次官はどうあるべきか? 経験者や学識者に証言を求め、歴史や法をひもとき、民間企業や海外事例と比較するなど徹底検証する。長年、大蔵省・財務省をはじめ霞が関を取材し尽くした生涯一記者ならではの、極上ネタが満載・・・

第1章「その椅子のあまりに軽き――相次ぐ次官辞任劇の深層」に、過去31年間に問題で辞職した事務次官17人の事例が、表になって載っています。実名は避けられていますが、年月と省庁名、事案の概要が書かれています。これを見たときには、驚きました。こんなに多いのかとです。多くの案件は忘れていましたが、一つ一つを見ると思い出します。官僚の不祥事での処分は多いですが、次官がこれだけも辞めているとは。それらには、組織の不祥事の責任をとった場合と、本人の問題でやめた場合が含まれています。

私も取材を受け、話をしました。3か所で、私の発言が取り上げられています。私のほかは、黒江哲郎・元防衛次官が話しておられます。武藤敏郎・財務次官も少し出ておられます。ほかにも次官経験者の話が出ていますが、実名が出ることを条件に取材に応じた次官経験者は、この3人だけだったようです。
何を話しても世間からたたかれるようなご時世なので、取材を受けないことも一つの処世術でしょう。私は、著者の思い込みや噂などによる間違ったことを書かれると困ると思い、幅広にお話ししました。また、高い評価から急激に低下した官僚を同時代として経験した一人として、その反省も話しておくべきだと考えたからです。話したうち取り上げられたのはごく一部ですが、ほかの部分の執筆でも参考になったことがあればうれしいです。

私が官僚になった頃は、いくつも官僚を題材にした本が出ていました。その後は取り上げられることも少なくなり、出るとしたら今回のような扱いです。その変化に、改めて驚きます。
学者の研究でなく記者によるもの、中公新書ではなく中公新書ラクレであることを理解のうえ、お読みください。

南日本新聞、石原信雄さんのお別れ会

4月20日の南日本新聞(鹿児島の地方紙)、石原信雄さんのお別れ会(4月19日、東京で)の記事に、私の発言が載りました。

「県出向後輩ら業績しのぶ」という表題で、次のように書かれています。
・・・元復興庁事務次官の岡本全勝さん(68)は県に出向前、「地方の現場をつぶさに見てこい」と助言を受けたと振り返り、「鹿児島での経験は東日本大震災からの復興を担う市町村との連携に生きた。国を支えるという気概を教えてもらった」と感謝した・・・

コメントライナー寄稿第10回

時事通信社「コメントライナー」への寄稿、第10回「首相秘書官の現実と課題」が、3月24日に配信され、28日にはiJAMPに転載されました。iJAMPの記事は、懐かしい写真(2009年9月、麻生総理とその後ろを歩く岡本秘書官)付きでした。

今回は、麻生太郎内閣での首相秘書官の経験を元に、首相秘書官の育成の難しさを指摘しました。詳しくは原文を読んでいただくとして。
首相秘書官は多くの場合、首相の個人事務所の秘書(政務秘書官)が1人、残りは各省から官僚が事務秘書官として派遣され、任期が終わると派遣元に戻ります。それまで一緒に仕事をしたことがない官僚たちが、首相に仕えるのです。
首相の活動は「事務」「政務」「庶務」の三つに分けることができ、事務秘書官の分担はこのうち「事務」ですが、そうも言っておられません。

私は首相秘書官に就任する4年前に麻生総務大臣に官房総務課長として仕え、その後も政策の勉強に呼ばれていました。また持ち前の「厚かましさ」で麻生さんにいろいろ質問することで、麻生さんの政治姿勢を理解しました。そこで、首相秘書官に就任すると、直ちに簡単な打ち合わせで首相発言原稿を書くことができました。しかし、このような経験を有している秘書官候補は多くはいません。