カテゴリー別アーカイブ: 寄稿や記事

雑誌への寄稿や取り上げられた記事、講演録など

日経新聞、私の発言「霞が関 政策勝負」

7月4日の日経新聞の特集「ゆがむ統治、私の処方箋」に、私の発言「霞が関、政策勝負」が載りました。先週連載された「政と官 ゆがむ統治」の関連記事です。

かつて言われた「官僚主導」から、「政治主導」に変わりました。その際の、政治家と官僚との役割分担に対応し切れていないというのが、私の趣旨です。
官僚が国民から評価されるためには、社会の問題を拾い上げ、それに対する政策を提言し、決まったことを実行することです。

官僚は政策で勝負すべきです。そういう観点で見ると、官僚たちは政策を問うていません。担当する分野の課題と政策を、公の場で発言していないのです。ここでは、各局長が所管分野の課題を対策を公表することを、提言しました。
例えば、各省や各局には、多くの場合に関係する機関誌があります。しかし、そこに、局長や課長の意見は載っていないのです。成立した法律や決まった予算などの解説はありますが。各省が出している白書は、決まってからのものです。また、ある分野での専門家になるために、学会などでも発言すべきでしょう。

「官僚は匿名性で仕事をすべき」という考え方もありますが、私は違うと思います。誰がやっても同じ、ではありません。また、誰がやったか分からないようでは、責任の所在が不明です。
官僚たちにとって、出世することも重大な関心事でしょうが、そのためには政策を提言しそれを実行することで、評価してもらうべきです。
公務員一般には、業績評価が行われています。期首に自己申告し、期末に評価を受けるのです。その政策提言を通じた高級官僚向け手法、しかも公開のものと考えてください。

5月23日の毎日新聞「論点 国家公務員の不祥事」にも、官僚論を述べました。趣旨は、変わっていません。いまの官僚たちの「混迷」は、構造的なものであること。それを改善するには、政策で示す必要があることです。

文中にある、麻生内閣の政策体系は、総理官邸のホームページに載っています。「麻生内閣の主な政策体系 私の目指す日本」の図。

日経新聞夕刊コラム終了

日経新聞夕刊コラム連載が、終了しました。全部で25回でした。
お読みいただいた方々に、お礼申し上げます。読まれた感想は、どうだったでしょうか。

(元)官僚という立場ゆえ、何かと制約はあります。でも、私は楽しく書かせてもらいました。行政の話ばかりでは、面白くないですよね。これまで考えていたこと、経験したことの中から、紙面にふさわしい主題を選びました。話題はたくさんあって、選ぶのに苦労しました。知人から「××については、書かないのか」という催促もありました。
「けっこう、好きなこと書いているじゃないですか」「官僚として、ギリギリのところを書いていますね」といった感想も寄せられました。ある人からは「新聞、それも一面に嫁さんの名前を書いて、ヨイショするとは」と、あきれられました(苦笑)。

25回は、次のように分類できます。
大震災関係 1、2、3、10回
官僚経験 4、5、6、8、9、14、15、22、23回
行政論 11、16、17、18、19回
私生活 7、12、13、20、21、24、25回

喜多・日経新聞会長から「途中で息切れしないように」との助言をもらっていたので、連載を始める前に、粗々の全体構想を考えました。
大震災の厳しい話、やや専門的な官僚論、高円寺のカエルと、固いものから柔らかいものまで混ざっていましたが、計算の上なのです。
話は具体的になるように、必ず私の経験を書き込んだので、「自慢話」ようになったものもあります。全回を通しての主題を、「官僚の生態学」「官僚が考えていること」としたので、どうしてもそのようになります。御理解ください。

締めきりに追われるのは、精神衛生上良くないので、原稿は十分な余裕を持って提出しました。
苦労といえば、決められた字数に納めることでした。でも、字数制限なしで長々と書くより、わかりやすい切れ味のよい文章になったと思います。
厳しい指摘と適切な助言をくださった編集者のSさんと、鋭い指摘をしてくださった校閲の方に、あらためてお礼を申し上げます。

新聞のコラムの連載は、かつて書いたことがあります。鹿児島県財政課長の時、地元の南日本新聞夕刊に、3か月間、10回書きました。 昭和63年、33歳の時です。若かったですね。もう30年も前のことです。このときも、親しい新聞記者さんに意見を聞き、加筆して活字にしてもらいました。

終わってしまうと、あっという間でした。また、このようなコラムを書く機会があれば、うれしいですね。
半年間、お付き合いいただき、ありがとうございました

日経新聞夕刊コラム第25回

日経新聞夕刊コラム第25回(最終回)、「人間修養道場」が載りました。

世間知らずというか、甘やかされたというか。若いときは「たいがいのことは、自分の思い通りになる」と思っていました。母親も近所のおばさんたちも、先生たちも、みんな大事にしてくれました。で、キョーコさんとの新婚生活は、ショックでした。
その後、家庭と職場の両方で経験を積んで、褒めること、頭を下げることを覚えました。なぜ、もっと早く気づかなかったのでしょう。反省。

「職場は人間修養道場だ」と、教えてくださった先輩に感謝します。
私が経験で得た知識は、『明るい公務員講座』と『明るい公務員講座 仕事の達人編』に書きました。皆さん、経験して学ぶことなのですよね。でも、そんな簡単なことは、それが基本なのですが、本には書かれていません。

25回の連載を、どのような形で締めようかと考え、この話を最後に持ってきました。キョーコさんは、合計3回登場しました。この項続く

日経新聞夕刊コラム第24回

日経新聞夕刊コラム第24回「明日香村」が載りました。

正確には、私が生まれた昭和30年当時は、奈良県高市郡高市村大字岡でした。その後に合併して、高市郡明日香村大字岡になりました。飛鳥村と書かないのは、合併した旧村の一つが飛鳥村で、新しい村の名前に明日香村を使ったのです。いずれも、万葉集に出てくる「あすか」(万葉仮名)です。本籍は、そこに残してあります。

「岡」と「岡本」というのは、古い地名のようです。岡寺という有名な寺があり、その門前町で栄えました。西国33ヵ所の第7番札所で、私の子供の頃までは、巡礼の人を見ました。春や夏のお祭りや市も、賑やかでした。今となっては、過去形です。
岡本宮は、7世紀に、岡にあった大和朝廷の宮殿です。岡の麓で、岡本と名づけたのでしょう。わが家の祖先も、それにあやかって、名乗ったようです。折口信夫さんの親戚になるとのことです。書かれたものにも出て来ます。「・・大和の明日香村岡寺前の岡本善右衛門の八男・・」。

石舞台古墳は、当時は石室の上に、登ることができました。あの大きな石ですが、ある方向からは、子供でも簡単に登ることができるのです。今は、登ることは禁止されています。玄室には、入ることができます。壁や天井の巨大な石が、怖かったです。落ちてこないかと。

小学校高学年になるまで、学校にプールはなく、青年団の兄ちゃんたちが、飛鳥川をせき止めて天然プールを作ってくれました。今となっては、ぜいたくな話です。
新たにできたプールも、飛鳥川の水を引き込んでいました。その季節になると、上流の家の子供たちはチラシを持って帰ります。「川の水をプールに使うので、農薬を使わないでください」といった趣旨が書かれていました。
魚、カエル、蛍、トンボ、蝉、モグラ・・・たくさん捕まえて、殺してしまいました。生き物たちにひどいことをしました、すみません。学校の解剖に使ったカエルは、板蓋宮跡の井戸(当時はそう呼んでいました)で捕まえました。
家では蚊帳をつって寝ましたが、玉虫も飛んできました。蛇もムカデも来ましたが。
昭和30年代の故郷の話は、始めると尽きません。それはまたの機会にしましょう。

来週で、この連載も最終回です。

日経新聞夕刊コラム第23回

日経新聞夕刊コラム第21回「鷹の目と象の時間」が載りました。
「鷹の目と蟻の目」、あるいは「鳥の目と虫の目」は皆さんご存じですよね。視野の広さです。拙著『明るい公務員講座 仕事の達人編』でも、わかりやすい挿絵を描いてもらいました(第3章扉)。

長期的な視野と短期的な視野を、どのような比喩で例えるか。なかなか良い言葉が見つかりません。そこでお借りしたのが、本川達雄著『ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学』 (中公新書、1992年)です。
初めてこの本を読んだ時は、驚きました。へ~、そうなっているんだと。もっとも、人間はこの算式に、ぴったりとは当てはまらないようですが。

このコラムにも書きましたが、鼠も象もお互いに、自分以外の「時間の進み方」は知らないのでしょうね。人間だけが、このように他の生物の「時間」を計測して、比較することができます。
もっとも、私たち個人個人は、自分の「時間」でしか物事を考えられないことが多いのです。だから、今回のようなコラムが成り立つのですが。
少し違いますが、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という金言があります。先達の経験と智恵を、どのように活用するか。ここに、できる人とできない人の差が出ます。