カテゴリーアーカイブ:社会の見方

付加価値で見る世界貿易

2013年7月6日   岡本全勝

6月26日の日経新聞経済教室で、玉木林太郎OECD事務次長が、OECDが5月29日に公表した「グローバル・バリュー・チェーン報告書」と「世界貿易におけるサービス貿易の重要性報告書」を紹介しておられました。
貿易を、日本と他国例えば中国との輸出入で測り、貿易量の多さや輸出超過(貿易黒字)であるか輸入超過(貿易赤字)であるかを見ます。
しかし、例えば中国が日本から60ドルの部品を輸入し、それらを組み立てて100ドルの製品にしてアメリカに輸出したとします。日本の中国向け輸出が60ドル、中国のアメリカ向け輸出が100ドルで、世界貿易総額は160ドルです(総計、グロス表示)。
これを付加価値で見ると、アメリカでの最終需要100ドルに対し、日本では60ドルの付加価値、中国では40ドルの付加価値です。しかも、日本の付加価値60ドルは、中国向けでなくアメリカへの輸出に計上されます(純計、ネット表示)
このように、2国間の貿易額でなく、付加価値が各国をどのように移転するか、チェーンで見る見方です。
国内での生産と消費を計算する場合(国民経済計算、GDP)も、部品を買って加工して売った場合は、仕入れた額を中間投入として差し引いて、二重計上しないようにします。また、中央政府から10万円補助金が出て、それをもらった地方政府が5万円加えて、住民に15万円支出した場合も、同様です。単純に、国の支出10万円と地方の支出15万円を足すと25万円ですが、全体で見ると15万円が住民に渡っています。

今回の報告書を見ると、日本から部品をアジア各国に輸出し、それらの国で加工組み立てされて、アメリカへ輸出している構図が見えてきます。
台湾や韓国では、輸出のうち4割が国外での付加価値に依存していて、それら部品などの輸入がなければ、輸出できないことを示しています。輸入を制限すると、輸出ができなくなるのです。
このほか、各国の輸出の半分が、サービス(卸売り、運輸、通信、金融、研究開発など)です。輸出額で見ると4分の1なのですが、付加価値で見るとその倍になるのです。私見ですが、モノは輸入し加工して輸出すると、付加価値では半減するのに(純計操作)、サービスはそのまま付加価値になる(輸入したサービスをそのまま使って輸出できない)からだと思います。
日本の対外貿易を示す際に、2国間の輸出入の矢印の太さで示す世界地図がありますが、付加価値で見ると、違った地図になるのですね。

新しい時代の投資とは

2013年6月27日   岡本全勝

昨日に続き、日経新聞経済教室「成長戦略の評価」。6月20日の宮川努・学習院大学教授の「包括的な投資戦略支援を」から。
・・多くの人は「投資」という言葉から、建物や機械といった有形資産を想像するだろう。しかしIT(情報技術)革命以降、こうした有形資産の投資だけでは、生産性の上昇、ひいては経済成長が達成できないという見方がほぼ定着している。
例えば先ごろ経済協力開発機構が公表した「新しい成長の源泉」というプロジェクトの報告書では、有形資産以上に、ソフトウェア、研究開発、マーケッティング、人材育成などを包括した「知識ベース資産」の方が、有形資産よりも生産性向上への貢献度が大きいことを紹介している・・
詳しくは、原文をお読みください。

規制改革を妨げるもの

2013年6月26日   岡本全勝

日経新聞6月19日の経済教室、八田達夫先生の「特区で岩盤規制打破を」から。
・・成長戦略には、①特定の産業を政府が選んで成長のために補助金をつける方策と②経済全体の新陳代謝を良くするための規制改革とがある。安倍首相がこのうち規制改革を成長戦略の理念として選択した意義は極めて大きい・・
成長は必ず衰退を伴う。同じ産業の中でも新しい工夫をした事業者が入ってくれば、既存の事業者は出て行かなければならない。新しい産業が生み出されれば、古い産業は衰退しなければならない・・
しかし経済成長がある程度進んだ段階では、既得権を持つ成熟産業は新産業の成長を止めようとする。そのために既得権集団は、様々な口実をつくり、政治家を使って、参入規制を法制化する。参入規制は、新陳代謝を阻害し、成長を止める最大の要因である。だからこそ、参入規制の撤廃が成長戦略の一丁目一番地なのである・・
(この後、先生は例として、農業、医療、美容師を挙げておられます)
・・これらの参入規制は「岩盤」と呼ばれている。岩盤はマグマのように強い力を持った制度が生み出している。
その第一は、国家公務員制度である。エリート官僚は定年よりはるか以前に退職しなければならない。このため、官僚達は自分だけでなく先輩や後輩の退職後の就職先のことを考えながら行政を行わざるを得ない。必然的に、産業や企業の既得権を維持する規制強化の手助けをする。定年まで退職せずに働けるような国家公務員制度改革を行えば、省益を守る動機は大幅に低下するであろう。公務員をいじめるのではなく、公務員が省益を考えなくても済む制度を設計する必要がある。
第二は、労働の流動性を極端に下げている日本の雇用法制である。年功序列と終身雇用の組み合わせという戦後日本に独特の雇用制度の下では、若い人は自身の生産性よりも低い賃金をもらい、年配者は自身の生産性よりもはるかに高い賃金をもらう。若い人には、賃金が生産性を超える年齢に達するまで企業を去るインセンティブがない。一方で年配者をその賃金水準で雇おうとする他社はない。このため日本では労働の流動性が低く、自社にしがみつく。そのような従業員を抱えた日本企業には、競争的な新企業が参入することを防ごうとする強い動機が発生する・・

イギリス社会はどう変わったか。英国病の前と後

2013年6月23日   岡本全勝

清水知子著『文化と暴力―揺曳するユニオンジャック』(2013年、月曜社)が、興味深いです。
サッチャー政権以後のイギリス社会を対象に、「働かない労働者を、どのようにして変えたのか」「社会の亀裂はどう広がり、サッチャリズムはどう利用されたか」「衰退した帝国はどのように反転を試みているか」などを分析しています。政治経済ではなく、社会文化の観点からです。
サッチャー首相にとって、新自由主義はあくまで手段であって、目的は「国民の信条を変えること」「国民の精神的な構造を変革すること」だったと、清水さんは喝破します。第2次大戦戦後のイギリス政治を特徴づけてきた「合意の政治」「福祉国家」こそが労働意欲をそぎ、サッチャー首相が登場する頃には、国民全体が福祉に依存する怠惰な文化を生み出し、英国病をもたらしたという主張が受け入れられていました。しかし、首相が主張し、各種の制度を改革しただけでは、国民の意識を変えることは難しいでしょう。それを支持した国民がいたから、劇的な変化が起きたのです。
国民の中にあった「亀裂」が、それを支えました。「内なる敵」、それは移民であったり、炭鉱労働組合であったり、アイルランド独立運動です。「私たち英国民を危機に陥らせる、人種的他者であり怠惰な市民」が敵になるのです。
一方で、伝統や集団から「独立する」ため、「自由」が尊重されます。しかし、それはサッチャー首相の言葉「社会というものはありません。あるのは個人としての男と女と家族だけです」が表しているように、中間集団というセイフティネットのない、孤立した個人と家族を生み出します。
政治や経済を論じる際に、それを支えた、あるいは反発した国民や市民の意識は重要です。しかし、分析するのは、難しいです。とらえにくく、移り気で、定量的分析にはなじみにくいです。
太平洋戦争を支持した国民意識、戦後復興と経済成長を支えた国民意識、失われた20年を受け入れた国民意識。そして、広く国民一般ではなく、指導者層、中間層、庶民、あるいは都市労働者と農民、若者と、立場の違いがあります。

日本語への引きこもり

2013年6月22日   岡本全勝


朝日新聞6月18日夕刊、藤原帰一教授の「翻訳文化の時代が過ぎて―日本語への引きこもり」から。
・・西欧と肩を並べる国家形成を目指して以来、外国文化の吸収は近代日本の課題だった。科学技術だけではない。旧弊に閉じこもった日本を変えるためには、欧米諸国の政治制度やその基礎にある価値観を学ぶ必要があるという自覚が、近代日本の知識人を支えてきた。
外国の言葉を話し、その知識や文化を伝える官僚、知識人、そして大学が西欧化の担い手になった。外国語を話さない国民には翻訳を通してその成果が紹介された。翻訳を読むだけで外国に発信することはできないし、外国語で意思を伝えることのできる官僚や学者は稀だったから、文化の流入は一方通行だった。とはいえ、外に目を開くことがなければ日本の変革があり得ないという感覚が多くの国民に共有されていた時代はあった。
高校生の頃から、私は翻訳文化を好きになれなかった・・
だが、国外に目を開くことに意味がないと思ったわけではない。翻訳を通すことなく原語を通して外国に学ぶ、いや、ただ学ぶのではなく、同じコミュニティーの一員として外国の人々と議論し一緒に仕事をするのが当たり前ではないか。翻訳文化とはその状態に変わる前の過渡的な現象に違いないと思っていた。
実際、翻訳文化とその時代は過ぎ去った。だが、代わって訪れたのは原語を通し国境を超えて議論を行う空間ではなく、日本語を読み、日本語で考え、翻訳された文章さえもあまり読まない空間だった・・
第2次世界大戦中のように政府によって強制されるからではなく、日本の外に広がる意味空間を、自分の選択によって排除するのである。
アメリカ人だって英語だけで勉強するひとがほとんどなのになぜ日本人が外国語を読まなければいけないのかと言う人がいるだろう。だがイヤな言い方を承知で言えば、外国語、特に英語で書かれた文章は、質量ともに日本語で構成された空間とは比較にならない。東西冷戦終結後の四半世紀、ヨーロッパでも韓国でも中国でも英語で構成された空間のなかで活動する人々が急増した。英語を母語としない人も英語で発信し、学術成果を発表するのが当たり前になった。英語を使わないと仕事にならないのだから無理もない。
ところがその時代の日本は、以前よりも日本語の世界に引きこもっていった。経済成長も達成し国内だけで大きな市場を持つのだから外国に目を向けなくても生きていける。英語を使わなくても豊かな生活を保持できるのは幸福だと言うこともできるだろう。しかしその幸福は、ものを知り、考え、議論する空間が日本語の世界に縛られるという犠牲と引き換えに得られたものだった・・
部分的に紹介するだけでは、先生の主張が正しく伝わらないので、原文をお読みください。