20年後の新聞

今日の放課後、旧知の新聞記者さんと、意見交換会をしました。そこでの話題です。
「20年後に、新聞はどうなっているか?」
いろいろと悲観的な意見が出ましたが、私は次のように考えています。
新聞は、なくならない。ニュースを見るなら、インターネットで、素早くたくさんの記事を読むことができます。しかし、新聞の「機能」は、あふれるほどのニュースから、ある基準で選択し、そして優先順位をつけて、一定の紙面の中に納めてくれることです。
忙しい社会人としては、この機能はありがたいです。そしてこの「選択」が社会での「標準」になります。重要なニュースを知っていないと、会社でついて行けません。他方で、新聞に載っていない記事は、知らなくても恥をかきません。もちろん、常に記事の取捨選択や優先順位付けが「正しい」とは限りません。そこに、各新聞社の「考え方や趣味の違い」が現れます。朝日新聞と、読売新聞と、毎日新聞と、産経新聞との違いです。
もう一つの新聞の機能は、解説です。日々のニュースを流すだけでなく、それらを歴史的社会的背景から位置づけ、どのような意味を持っているかを解説してくれることです。もちろん、この機能は専門誌などが担うことでもありますが、新聞はお手軽です。
朝刊と夕刊が、毎日宅配されているか。これは、疑問です。自宅にあるプリンターで、印刷するようになるでしょう。新聞配達員はいなくなるでしょうね。
現在、日本語という「非関税障壁」に守られている「記事の内容」「解説の水準」についても、大きな変化を受けていると思います。グローバルな記事や解説が増え、それは日本語でなく英語になっている可能性が高いです。あるいは、英語の記事が翻訳されているでしょう。
20年後には、実際はどうなっているでしょうね。私の予想は、当たったためしがありません。苦笑。