9月11日夜に、朝日新聞社社長が、「吉田調書」記事を取り消し、謝罪しました。あわせて、慰安婦をめぐる記事撤回の遅れを謝罪しました。
部下が失敗した場合の上司のお詫び、組織が失敗をした場合の責任者の任務について、私もたくさん経験しています。このページお読みの方は、ご承知のとおりです(仕事の仕方3)。今回の朝日新聞の対応についても、考えることがありますが、それはまたの機会にして。少し違った観点から、述べておきましょう。
12日の朝日朝刊を見て、「天声人語」に違和感を感じました。天声人語は、1面下に載っている、朝日新聞の看板コラムです。その日の1面は、全面が記事の取り消しとお詫びの記事でした。ところが、天声人語は、沖縄の知事選挙についてでした。この取り合わせに、疑問を持ったのです。私が紙面編集責任者なら、このテーマでは載せなかったでしょう。
9月12日の紙面は、朝日新聞が続く限り、あるいは日本の新聞報道の歴史において、長く引用されるでしょう。いささか場違いなコラムとして残ることになります。翌13日の天声人語は、「痛恨事からの出直し」でしたが。
次に、12日の午後に、朝日新聞の紙面の議論に及んだ際に、ある人が「今朝の朝日新聞って、社説はどう書いていたっけ?」と質問しました。別の人が「そういえば、気がつかなかった。でも、1面の左半分が社長のお詫びだったから、あれこそが社説でしょう」と答えました。
気になって後で確認したら、実は社説は載っているのです。16ページに、シリア空爆と法科大学院についてです。これも、どうかと思いました。13日の社説は、「論じることの原点を心に刻んで」でした。
今回の検証とお詫びは、朝日新聞社にとっては大事件です。当日夜の紙面作りでは、大変なエネルギーと作業が必要だったと思います。しかし、この2つの文章を見ると、社としての方針徹底、あるいは社員全員に問題意識が行き渡っているのか。いささか疑問になります。
カテゴリーアーカイブ:社会の見方
社会を観察するのではなく、社会に参加し貢献する学問
東京大学出版会のPR誌『UP』2014年9月号、山下晋司教授の「公共人類学―人類学の社会貢献」から。
・・近年、大学の、あるいは学問の社会貢献が問われているなかで、「公共哲学」「公共政策学」「公共社会学」など「公共」を冠した研究分野が現れてきている。人類学も例外ではない。「公共人類学」(public anthropology)という新しい分野が立ち上がってきているのだ。その背景には、アメリカ人類学会会長を務めたジェームズ・ピーコックの言う”public or perish”(公共的でなければ、滅亡)に示されるような人類学会の危機意識がある。社会に貢献しなければ、人類学は生き延びることができないというのである・・
・・従来の人類学では学問的な営為としては、参与より観察の方が勝っていた。逆に、公共人類学においては、観察よりも参与に力点が置かれ、当該社会が直面する問題の解決に向けて貢献することが目的となる。その意味では、公共人類学は、マックス・ウェーバー流の没価値的な客観性の追求から、価値創造に向けての実践への転換の試みである・・
坂の上の雲をもじる
講談社のPR誌『本』2014年9月号、平田オリザさんの「下り坂をそろそろと下る」の冒頭は、次のような書き出しで始まります。
・・まことに小さな国が、衰退期を迎えようとしている。その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。讃岐の首邑は高松・・
お気づきになりましたか。平田さんは続けて、次のように白状しておられます。
・・と、これは、読者諸兄がよくご存じの『坂の上の雲』の冒頭の、できの悪い贋作である・・
う~ん、平田さんにやられましたね。国民的小説とも評され人口に膾炙した『坂の上の雲』をもじった本は、いくつかあります。『坂の下の・・』とか。でも、書き出しをもじるとは。
もっとも、原文は「まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている」で、小さな国がその後発展して大きな国を破るので、この文章が成り立ちます。今この文章をもじるなら、「まことに大きく発展した国が、衰退期を迎えようとしている」でないといけません。「まことに小さな国が衰退」しても、小説にはなりません。
そして、もっと楽しい小説にするためにも、「まことに衰退期に入る国が、復興期を迎えようとしている」にしなければなりません。
ジャーナリズムの現状を憂える、2
大鹿靖明編著『ジャーナリズムの現場から』の続きです。「あとがき」から(p335~)
・・新聞や放送のかなり多くのニュースは当局発表に依存している。朝日、毎日、読売の3大紙の朝刊に占める発表モノの記事の面積比率は49~55%を占め、発表モノに少し独自の味付けをした記事を入れると60%にもなる。解説記事などを含めて発表モノに端を発してつくられた記事まで含めると、紙面の面積における発表依存度はなんと80%に達する。
しかも新聞記者が特ダネと称する記事の少なからずは、実は当局者(官公庁、捜査機関、大企業)のリークか、少なくとも当局者の意図に沿う報道にすぎない。発表の直前に掲載されることの多いリーク型の特ダネ記事は、読者や視聴者の視点に立てば、発表モノと何ら変わらない。こうした記者クラブ型とも呼べる報道は、常に当局者に依存し、発表主体である当局の動きに受動的になりがちだ。クォリティーペーパーといわれることがある日経新聞だが、海外メディアからは「大きな『企業広報掲示板』」「大量のプレスリリースの要点をまとめてさばいているだけ」と辛辣に批評されてもいる。
それを脱するには、発表主体に距離を置き、報道の主導権を自分が担えばいい。状況に身を任せず、自分が「企画力」を身につければいいだけのことだ。自身の問題意識や発見したストーリー、あるいは切り口を起点にする・・
同感です。さらに、この業界では、「抜いた」「抜かれた」という競争があります。ほとんどは、当局者の発表を、どの社が先に書くかです。翌日や数日後に公表されるので、それを待てばよい話です。例えば幹部人事とか。1日早く知っても、1日遅れても、社会には何の影響もありません。
しかも、ある社が先に書いた案件は、後追いをする他社の記事(追っかけ)では、小さな扱いになります。その際に、記者が当局者に求めるのは、「何か、付け加えることはありませんか」です。すると、その部分が大きく書かれます。
非公開情報を「抜く」ことは、これとは異なります。それについては「情報をすっぱ抜く」(2012年5月26日)に書いたことがあります。当局者がいずれ発表する内容を早く書くのか、当局者が知られたくない内容を記事にするのかでは、大違いです。そして前者にあっては、当局者のコントロールの下に(リークしてもらって)公表より早く書く場合と、別のところから資料を入手して公表より早く書く場合があります。
ジャーナリズムの現状を憂える
大鹿靖明編著『ジャーナリズムの現場から』(2014年、講談社現代新書)を紹介します。ジャーナリスト10人へのインタビューをまとめたものです。現在の日本のジャーナリスト、ジャーナリズムに対する、厳しい批判の書になっています。内容は本を読んでいただくとして、一部を紹介します。
「はじめに」p3~
・・本書の編著を思い立った直接のきっかけは、2011年3月11日の東日本大震災とそれに続く東京電力の福島第一原発爆発事故の取材を通じて感じた今の報道のありようだった。
あのとき記者会見場は、まるでソロバン教室のようだった。つめかけた記者たちは一斉に手持ちのパソコン画面に目を落とし、猛スピードでキーボードをたたいていく。未曾有の大地震が起き、原発が相次いで爆発したというのに、レクチャー担当者のほうに目をむけたがらない。バチバチバチバチ。会見場は一斉にキーをたたく音が反響する。
戦後最悪の災害と人類史上に残る惨事がひき起こされたというのに、記者会見ではこんな光景が日常的に繰り広げられた。東電本店で、原子力安全・保安院で、経済産業省で、そして官邸で。そのあまりに異様な光景に驚いた。メモ打ちのためのキーボードに神経を集中すれば、肝心の質問がおろそかになるのではないか、と思ったからだった。
みなICレコーダーを机の上におき一部始終を録音していた。ならば何もタイピストの真似事なぞ、する必要はないはずだった。どの新聞社も放送局も一社あたり数人の記者が出席しているので、なおのこと、そろいもそろってパソコン打ちをする必要はない・・。
これは、私も気にしていることです。かつて「記者会見、記者の役割」として、質問される側からの不満を書いたことがあります(2012年3月31日)。読んでいただくと、私の主張とそっくりなのがわかるでしょう。たぶん、多くの関係者が、同じ考えにいると思います。