カテゴリー別アーカイブ: 経済

経済

広告主からの報道への圧力

1月22日の日経新聞夕刊、中野香織さんの「ハウス・オブ・グッチ公開 ブランドの闇 扱いに今昔」が興味深かったです。公開中の映画についての評論です。

・・・実は、ブランドの暗部でもあるこの話が映画化されたことじたい、モード記事を長年書いてきた私にとって驚きだった。10年ほど前までは、雑誌によってはこのエピソードに触れると、その部分は削除された。ブランドからの広告で成り立つ雑誌は、広告主がチェックし、不都合とみなすことは掲載されない。そういうビジネスモデルなのである。
広告主が関わらないメディアで「不都合な」話を書くと、ブランドからショーや展示会の招待状は来なくなる。見られなければ記事も書けない。日本に本来の意味でのファッションジャーナリズムが存在しえなかったことの背景の一つだ・・・

・・・自分のささやかな経験からの臆測にすぎないが、ブランド側も映画に協力しており、この話をどこに書いても削除されなくなったことに隔世の感を覚える。
関係者や遺族から「事実はああではない」とのクレームも来る状況で、自分の作品としてどっしり構えるスコット監督の勇気ある態度そのものが、映画の内容以上に感慨深い・・・

政府の政策PDCA

1月4日の日経新聞オピニオン欄、上杉素直・コメンテーターの「賢い支出へPDCA回せ コロナ対策で見えた欠落」から。

・・・この2年、日本の政策運営にはいくつもの疑問符がついた。先の読めないパンデミックに対処するのはたしかに難しい。だが、四半期ベースで2度もマイナス成長に陥った21年は残念ながら、同じ災禍からの回復をたどる米欧の国々との差が歴然とした。
なぜ彼我の差はついたのか。人々の価値観に視点を当てた仲田泰祐東大准教授の研究は興味深い。「経済をもう少し回すこと」と「感染をもう少し抑制すること」は一定条件下でトレードオフの関係になる。そして、そのバランスをいかにとるかは社会の価値観を反映するのだそうだ。
そんな前提で「コロナ死者数を1人減少させるためにどの程度の経済的犠牲を払いたいか」を試算すると、日本は約20億円に届く。米国の約1億円、英国の約0.5億円より高い(21年12月3日付日本経済新聞朝刊「経済教室」)。何十倍の違いを知ると、日本経済の低迷が必然とも受け取れる。

行政の構造問題も絡む。政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会に経済学者を代表して参加した小林慶一郎慶大教授は縦割りの弊害が根っこにあると指摘する。自分たちの内輪の論理にこだわってさまざまな対策に取り組む厚生労働省は典型という。
そこに公衆衛生や医療の課題と経済活動への影響をトータルで捉える視点は生まれない。小林氏は「感染が増えても経済を回そうとは言いにくかった」と振り返る。結果としてコロナ死を減らすことに偏重し、膨大なコストを費やしたという反省は、仲田氏の分析とも重なり合ってくる・・・

・・・もう一つの不安はより深刻かもしれない。「C(点検)」は十分なのかという問いだ。
会計検査院が先の報告で取り上げたのは、19~20年度に予算が措置された5つのコロナ対策だ。総額77兆円が各省庁の854の事業へ投じられた。ところが、検査院がその使われ方を分析できたのは770事業にとどまる。
事業によってはコロナ対策とそれ以外の予算が混ざってしまい、使われ方を分別して調べることができないらしい。裏を返せば、コロナ対策と銘打った歳出が最終的にどう使われたかについて、全体図は示せていない。「C(点検)」が不完全なら、「A(改善)」だって期待しにくい。

いま学ぶべき先例は11年の東日本大震災への対応だろう。3月11日の震災発生から3カ月余りで基本法を成立させ、復興にまつわる歳出と歳入を複数年にまたがってパッケージで管理する仕組みを整えた。収支の全体像が明確になり、復興を我がことと捉える土台になったのではないか。

政府がまとめた22年度予算案はいわば新たな「P(計画)」。過去最大の中身は適切か、21年度補正予算と連なる「16カ月予算」の効果は見込めるか、国会などでしっかり論じてもらいたい。
そして併せて、国の政策を研ぎ澄ます検証プロセスや仕掛けづくりにも目をやりたい。そうした土台があってこそ、財政の賢さが育まれていくのではないか・・・

富裕層の数

1月3日の日経新聞「どこ吹くコロナ、新富裕層台頭」に、国内富裕層の保有資産規模と世帯数が、図になって載っていました。野村総合研究所の調べ、2019年の数値だそうです。
それによると、富裕層の区分、世帯数、純金融資産保有額は、次の通りです。
超富裕層、5億円以上。8.7万世帯、97兆円
富裕層、1億円以上5億円未満。124万世帯、236兆円
準富裕層、5千万円以上1億円未満。341.8万世帯、255兆円
アッパーマス層、3千万円以上5千万円未満。712.1万世帯、310兆円
マス層、3千万円未満。4215.7万世帯、656兆円

世界では、100万ドル(1億1千万円)以上の金融資産を持つ富裕層は2080万人。
国別では、アメリカに次いで日本が多いのだそうです。ドイツ、中国、フランスなどに比べはるかに多いようです。

巨大情報通信企業の情報開示

12月24日の日経新聞、ファイナンシャルタイムズ、ラナ・フォルーハーさんの「テック大手、広く収益開示を 個人情報の価値反映」から。

・・・米国のアルファベットやアマゾン・ドット・コム、メタ(旧フェイスブック)といったプラットフォーム大手や、マイクロソフトが利用者に関する多くの情報を追跡しているのは周知の事実だ。
ただ、検索から電子商取引、SNS(交流サイト)、クラウドコンピューティングまで、これら企業が運営するプラットフォームで得る情報からいかにして利益を得ているかはあまり明らかではない。彼らが握る情報量の多さに対し我々、利用者の知る量はあまりに少ない。この非対称性は、大手テックへの核心的批判の一つとなっている。
米欧の規制当局は、テック大手がこの情報の非対称性を武器に消費者や企業顧客に不利な状況を作り出している点を問題視し、調査している。

英ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(UCL)のイノベーション公共目的研究所(IIPP)が12日に発表した報告書は、テック大手への逆風をさらに強める内容だ。これによると、テック大手は米証券取引委員会(SEC)の年次報告書(10K)の開示規則を逆手にとって、本来なら提供すべき詳細な財務情報の開示を回避しているという。
米オミダイア・ネットワークが資金を提供したこの研究プロジェクトでは、UCLの研究者のイラン・ストロース氏、ティム・オライリー氏、マリアナ・マッツカート氏、ジョシュ・ライアンコリンズ氏がSECの開示規則がデータを収益化するIT大手の事業モデルに適しているかを調べた。結論はあまり適してないというものだった。
消費者物価を企業の独占力の尺度とする米国の現反トラスト法(独占禁止法)が、無料でサービスを提供する代わりに利用者のデータをテック企業が得る手法が横行する今の時代に不向きなように、SECの現在の開示規則も大量の個人情報を使って巨額の利益を稼ぐ監視資本主義には適さない。

根本的問題が2つある。第一は、今の金融規制当局は財務情報にしか目を向けていない点だ。テック大手は無料でサービスを提供し、利用者の増加がさらなる利用者増につながるネットワーク効果を発揮できる規模まで利用者を増やすことで自社のあらゆる製品やプラットフォームからデータを収集、それを収益化している。財務情報しか開示せずにすむおかげで、テック大手は市場を支配している実態を隠して利益率を上げ、様々な不公正な方法で自社プラットフォームの優位性を高めることが可能になっている。
第二にテック大手など多様な事業を抱える複合企業のセグメント開示に関するSEC規則は、プラットフォームで収集するデータに秘められた巨大な価値を認識していない。今の規則は収益を直接的に生む製品しか対象にしていない。テック大手を理解していれば誰でもわかるが、膨大なデータを集積し、それを収益化できる点に価値がある・・・

佐伯啓思先生「資本主義の臨界点」2

佐伯啓思先生「資本主義の臨界点」」の続きです。
・・・ところが、高度な工業化による大量生産・大量消費による経済成長は、先進国では1970年代には頂点に達する。そこでその後に出現した「成長戦略」は何かといえば、80年代以降のグローバル化、金融経済への移行、それに90年代の情報化(IT革命)であった。先進国は、グローバル化で発展途上国に新たな市場を求め、新たな金融商品や金融取引に利潤機会を求め、ITという新技術にフロンティアを求めた。そして、その結果はどうなったのか。
それらは、ほとんど先進国に富も利益ももたらさなくなりつつある。グローバル化は中国を急成長させたが、米欧日などの先進国は、成長率の鈍化、格差の拡大、中間層の没落などに悩まされる。モノの生産から金融経済への移行は、金融市場の不安定化と資産の格差を生み出した。情報革命は一握りの情報関連企業に巨額の利益を集中させた。いわゆるGAFA問題である。明らかに新たなフロンティアは限界に達しつつある。

今日、先進国は、一方では、格差問題の解消へ向けた所得再分配に舵をきるといい、他方では、改めて新興国の市場を取り込むグローバル化と、デジタル技術の革新に活路を求めている。結局「グローバリズム」と「イノベーション(技術革新)」を成長に結びつけ、その成果をもって格差を是正しようというのである。
では「グローバリズム」と「イノベーション」は成長を可能とするのだろうか。話はそれほど簡単ではない。グローバリズムは、今日、国益をめぐる国家間の激しい競争へとゆきついた。成長戦略や経済安全保障を政策に組み込んで国益を積極的に実現することが国家の責務となった。自由な市場競争どころではない。新重商主義とでもいうべき国家主導の経済戦略なのである。

また、イノベーションが経済成長を実現するなどと気楽に構えるわけにはいかない。今日のイノベーションは確かに一企業の生産効率を高め、労働コストを低下させることは事実であろう。しかしそれが意味するのは、勤労者の所得の低下である。少なくとも総所得が上昇するとは考えにくい。ということは、総消費は増加せず、GDP(国内総生産)の増加はさして見込めないであろう。
かくて、AIやロボットや自動運転装置等のイノベーションは目覚ましく、確かにわれわれの生活を変えるであろうが、だからといってそれが経済成長につながるという保証はどこにもない。新技術が大衆の欲望フロンティアを開拓して大量生産・大量消費の好循環を生み出した高度成長の60年代とはまったく異なっている。
とすれば、空間、技術、欲望のフロンティアを拡張して成長を生み出してきた「資本主義」は臨界点に近づいているといわざるをえない。「分配」と「成長」を実現する「新しい資本主義」も実現困難といわざるをえないだろう・・・

・・・近代社会とは、人間が、己の活動や欲望について無限の拡張を求める社会であった。科学や技術によって自然を支配し、それを自らの自由や欲望の拡張に向けて改変する時代であった。そこに無限の進歩があるとみなした。資本主義は、近代人のこの進歩への渇望に実にうまく適合したのである。
そして今日われわれは、人間の外部に横たわる自然を改変するだけではこと足りず、AIや遺伝子工学、生命科学、脳科学等によって、われわれ自身を改変しようとしている。これらの新しいテクノロジーによって一層の自由や富や寿命を手に入れようとしている。本来的に有限で、いわば「死すべきもの」である人間が、無限で「永遠なるもの」へと接近しようとしているようにも見える。人間が人間という「分限」を超え出ようとしている。近代の欲望は、まだ「有限性」の中にあって少しずつフロンティアを拡張するものであった。だが最近の技術は、それさえも超え出てしまったのではなかろうか。
皮肉なことに、人間の「有限性」を突破しかねない今日の技術のフロンティアにあって、先進国は経済成長の限界に突き当たっている。われわれはようやく「資本の無限の拡張」に疑いの目をむけつつある。とすれば、われわれに突き付けられた問題は、資本主義の限界というより、富と自由の無限の拡張を求め続けた近代人の果てしない欲望の方にあるのだろう・・・