朝日新聞7月9日オピニオン欄、バラック・クシュナー・ケンブリッジ大学准教授の「ラーメンから見る日中関係」から。
・・明治半ばになると、中国(清)から留学生がやってきます。その数は日清戦争後に急に増えました。なぜ日本が短い間に近代化を成し遂げたのかを、学びにきたのです。清朝政府は奨学金制度をつくり、中国の富裕層も若者が日本で学ぶのを支援しました。そもそも漢字のおかげで勉強もしやすかった。
ところが彼らも僕と同様、日本の食事に苦しんだ。当時の彼らの日記を読むと、やれ魚くさい、やれ肉がない、量が少ないとさんざん嘆いている。「こんな貧しいものを食べる日本人が、なぜ中国人に勝てたのか」とね。
明治後期から大正にかけて、食べ盛りの留学生や華僑たちの食欲を満たすため、今のラーメンにつながる料理を出す店が現れました。札幌の「竹屋食堂」は北海道大学に交換留学で来た中国人学生に人気だったし、長崎の「四海樓」はちゃんぽんの発祥地になりました・・
・・そこ(ラーメンが日本人に広がる過程)に、日本の近代化プロセスが関係してくるわけです。江戸時代までの日本人の食事スタイルは、今とはかなり違ってました。江戸っ子は朝昼晩と決まった時間に食べるのではなく、スナックのように小刻みに食べては休憩する。
今と違って、時間感覚もゆるかった。明治初期に日本に西洋の技術や制度を教えにきたお雇い外国人の日記を読むと、愚痴で満載です。「日本人の野郎、いったいいつやって来るんだ」と書いてある。
でも明治維新で身分制度が崩れて人々が自由に移動できるようになりました。給与生活者や学生が現れた。朝から夕まで外で働いたり勉強したりしなければならないので、カロリーが必要です。そうした庶民の需要に応えたのが、ラーメンのようなスタミナのある料理だったのです・・
・・日本の近代化において、それまでに豊富な交流の積み重ねがあった中国大陸、台湾、朝鮮半島が果たした役割をもっと注目してほしい。実は、僕も以前は西洋が日本を開国させたのだと思っていました。でも調べると、「帝国」だった明治大正期の日本は、アジアから多様な人材が集まり、文化が出合う場でした。日本人の側も外の文化を積極的に受け入れ、それが経済発展を後押しした。
確かに法律や政党政治のシステム、社会制度は欧米から採り入れたけれど、庶民が食べるものや、テーブルを囲んで食べ、飲み、しゃべるといったコミュニケーションなどの多くをアジアから得たのです・・
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知的共同体の衰退
4月1日の読売新聞文化欄、三谷太一郎先生への『学問は現実にいかに関わるか』(2013年、東京大学出版会)についてのインタビューから。
・・日本には、江戸末期に「社中」と呼ばれる知的共同体が全国各地にありました。一つひとつは小さく、そのリーダーもそれほどの知的巨人ではないけれども、そこで人々は学び、盛んに議論した。それがまた「処士横議」という、幕府や藩を超えた横のコミュニケーションを生み、日本近代の前提となりました・・
大正から戦後の一時期までは、『中央公論』などの総合雑誌が日本の知的共同体を作っていました。その中には学者も政治家も文学者もいて、政治学者でいえば吉野作造、南原繁、丸山真男など、アマをリードするプロの知識人もそこから生まれました。昨今の総合雑誌の衰退は、こうした知的共同体の弱体化を意味し、大きな損失です・・
さらに今考えるべきは、国境を超えた知的共同体を作っていくことでしょう・・
流行語が作る時代の雰囲気
流行語やキャッチフレーズは、時代の雰囲気を反映したものですが、その言葉が逆に、時代の雰囲気を作る場合があります。
例えば「失われた10年」という言葉がありました。1990年代に、日本が改革に遅れ、国力を低下させたことを指し示していました。ところが、この言葉を繰り返し聞いていると、あるいは自分でも発言していると、それが正しいことであり、当たり前のことと思えてしまうのです。国民の間の共通認識になってしまいます。
この言葉に反発をして、「では改革をやろう」となれば良いのですが、この言葉に納得してしまうと、引き続き「失われた20年」「失われた30年」になってしまいます。時代がラベルを生み、ラベルが時代を作ってしまうのです。キャッチフレーズの、意図しない効果です。
「日本の産業が空洞化した」という「空洞化論」が実際に空洞化を呼ぶ危険性を、藤本隆宏先生が1月7日の日経新聞経済教室で論じておられます。
そして、次のようなこともあります。流行語やキャッチフレーズは、短い言葉で時代を映し出すので、便利です。しかし、それは現実の多様性を隠してしまいます。「1億総中流」という言葉も、実際はそうではなく、1つの理想でした。しかし、多くの人が「自分も中流になった」「働けば中流になることができる」と信じたのです。これは、日本人を勤勉にし、また社会の安定をもたらしました。
ところが、1990年代以降、その言葉の陰で格差は広がっていたのです。あるときは国民を元気づける言葉であったものが、あるときから現実を覆い隠す言葉に転化していました。
進歩は、多くの失敗の上に成り立つ
400トンの金属の塊が、時速1,000キロメートルの早さで、空を飛ぶ(ジャンボジェット機の場合)。私には、理解しがたいことです。
加藤寛一郎著『飛ぶ力学』(2012年、東大出版会)が数式なしで解説してあるとのことで、本屋に行ったら、関連する書籍がたくさん並んでいました。ふだんは立ち寄ることのないコーナーです。悪い癖で、何冊か買いました。
その中で、鈴木真二著『飛行機物語 航空技術の歴史』(2012年、ちくま学芸文庫。2003年中公新書を収録したもの)を、先に読みました。
リリエンタールのグライダー、ライト兄弟の初飛行、エンジンや翼の改良、ジェットエンジンの開発、ジェット旅客機と、この100年あまりの歴史が、テーマごとに易しく述べられています。ライト兄弟の初飛行は、1903年、たった110年前です。
これだけだと、一直線に開発改良が進んだと思えます。でも、この本を読むと、失敗の連続ですね。ここに至るまでに、どれだけの失敗や事故が重ねられたか。驚きます。それと同時に、不可能と思われたことに挑戦した先人たちの努力に、頭が下がります。鈴木先生も、あとがきで、次のように書かれています。
・・空を自由に飛びたいとする人類のロマンが、飛行機として結晶するまで、技術と科学の長い発展があったことを改めて知った。それは、段階を追った積み上げと、突然の飛躍が繰り返されることで達成されたが、いずれも人間のドラマがそこにはあった。過去の因習にとらわれることなく、空の飛行を成し遂げようとする人間のロマンが原動力になっていた。
近代の科学技術がいきなり導入されたわが国では、それらが簡単に手に入ってしまったために、新しい科学や技術が長い歴史の流れのなかで、人間の意志によってなかば必然的に作り出されてきたという認識が欠けているのではないかと思ってしまう・・
日本サッカー成長の理由、現実が漫画を追い越した
10月10日の読売新聞論点スペシャルが、日本のサッカーが力をつけたことを取り上げていました。ワールドカップやオリンピックでの活躍、世界の頂点に立つ欧州名門クラブへの日本選手の移籍や活躍、「どれも一昔前には想像すらできなかった。成長の理由は何か・・」。
岡野俊一郎元日本サッカー協会会長は、
・・世界のサッカー界は、今の日本を驚異と感じている。50年ほど前、日本代表コーチだった頃、世界のサッカーを見て回った。欧州はもちろん、アジアの強豪国との差も大きかった。マレーシア、インドネシアなどには、勝てる気がしなかった。
アジアで勝ちたい、という方針で選手の強化に力を注いだ。東北など各地域に選抜チームを作り、若い世代にエリート教育を実施した。Jリーグが誕生すると、日本サッカーは実力を開花させた・・
現段階では、欧州や南米から認められたとはまだ言えない・・
サッカー漫画「キャプテン翼」の作者、高橋陽一さんは、
・・サッカーを好きになったきっかけは、高校生の時に見た1978年のW杯アルゼンチン大会。こんな大会に日本が出場して、優勝争いができれば良いな、と願って1980年から「キャプテン翼」を描き始めた・・
でも現実を見ると・・漫画が現実に少し追い越されたかなという感じもする。日本サッカーは徐々に、順調に成長していると思う。
日本の若い世代の考え方も変わってきた。Jリーグができた頃は、そこでヒーローになりたいという子が多かったと思う。でも今は、小学生も中学生もJリーグを飛び越して、世界に行くんだという気持ちでやっているように感じる。
「キャプテン翼」に影響を受けたという海外の選手も多い。イタリアのデルピエロ選手、スペインのラウル選手、バルセロナのメッシ選手やイニエスタ選手などだ。フランスのアンリ選手は僕に会いたかったようで、サインも求められた。
海外でも人気が出たのは、初めからW杯を意識して世界基準で描いたことが良かったのかなと思う・・
現実が漫画を追い越すとは、すごいことですよね。もちろん、夢だけでは実現しませんし、子どもや若者があこがれるだけでも実現しません。ここまでには、関係者の大変な努力がありました。メキシコオリンピック(1968年)での銅メダル獲得以来、長く低迷の時代が続きました。その後、トップ選手の育成だけでなく、裾野を広げ、さらにはJリーグという「ビジネスモデル」を立ち上げ、と。
弱小な競技が、日本でも最大級のスポーツ(競技人口も観客動員やテレビ放映でも)になるとともに、国際大会ですばらしい成績を残し、さらに世界で戦う若者を育てるまでになりました。この過程を、一つのビジネス、あるいは国家戦略として見ると、日本が世界で戦う際の一つのモデルがあると思います。
高校時代にサッカーボールに触れましたが、才能がないことを直ちに自覚した、元サッカー少年より。今や誰も信じてくれませんが、ゴールキーパーをしていました。