カテゴリーアーカイブ:歴史

清水唯一朗ほか著『内務省』

2025年8月10日   岡本全勝

8月6日の朝日新聞夕刊が「内務省、「怪物」の多様な顔 細分化する省庁研究 分野の垣根越え、学者ら新書」を書いていました。
・・・内務省と言えば日本の内政を一手に引き受けた巨大官僚組織で、特別高等警察(特高)や国家神道に関する部局を抱え、「悪の総本山」のイメージも強い。だが、それは一面的な見方だ。講談社現代新書の「内務省」(内務省研究会編)は、戦前日本の官僚機構を象徴する、この巨大官庁の歴史を多角的に掘り下げ、その光と影を照らし出す。

明治新政府の発足から間もない1873(明治6)年、大久保利通を初代内務卿として発足した。後に山県有朋も通算6年半にわたり内務卿・内相を務めたことでも知られるこの官僚組織は、「なんだ? この『怪物』は…」と本書の宣伝文句が示す通り、強大な力を持っていた。
鉄道・郵便や殖産興業と呼ばれた産業政策などを含む内政全般を担当。農商務省が設けられた後もなお、現在の警察庁、総務省、国土交通省、厚生労働省、都道府県知事、消防庁に相当する機能を一手に抱え、霞が関に君臨した。さらには、国家神道や、戦前の言論統制・思想弾圧を担った特高の担当部局が省内に属していたため、軍国主義の根絶を掲げる戦後の占領下で解体された。
ゆえに内務省には、「省庁の中の省庁」「悪の総本山」といったイメージが先行しがちだが、本書ではこうした一面的ではない、「怪物」の多様な側面を照らし出す・・・

・・・会の創設を主導し、本の序論を担当した政治学者で慶応義塾大教授の清水唯一朗さん(日本政治史)が着目するのは、中央から地方へと全国一律の近代的な行政組織を浸透させた旗振り役としての内務省だ。
「他省庁よりも抜きんでて優秀な人材を集め、先進的な『技術』『政策』の導入や、行政の制度化を推し進めた。道路や河川、港湾などのインフラ整備、選挙行政や宗教行政、北海道・植民地の統治なども含めて、内務省が果たした歴史的役割は極めて大きい」と語る。
一方で、霞が関に君臨した「省庁の中の省庁」「悪の総本山」という見方に対しては、「内務省の位置づけは時期により変わる。近代国家の建設期には、いわばプロジェクト主導型の苗床だった。強大な権力をふるい、国家主義的だった時期は短期間と見ていいのでは」と語る。
藩閥政治家や政党政治家、軍部それぞれとの関係に影響された時期を経て、内務省は戦後に解体される。
「今では霞が関の機構改革で内閣官房を核にした官邸機能の強化が定着しているが、戦前は内務省が霞が関の司令塔だった」と言い、戦後の行政組織への継承と断絶を考える上でも、内務省の分析は重要だという・・・

内務省研究会編『内務省 近代日本に君臨した巨大官庁』(2025年、講談社現代新書)です。
私は、内務省の末裔である自治省に入りました。建物は、この記事に載っている内務省の建物です。2001年の総務省発足時に合わせたかのように、新しい現在の建物(現在の2号館)になりました。内務省についてはいくつか書物を読みましたが、知らないことが多いです。内務省の解体と自治庁としての再発足に、組織の役割として大きな断絶があるのです。自治省の幹部は内務省採用の方が就き、私が若いときはまだ現役で、薫陶を受けました。

私も、著者から本を贈っていただきました。500ページの新書ですが、切り口(各章)といい、分析といい、良くできていると思います。記事にも書かれているように、これまで「怪物ぶり」が先行して、実態と全体像が見えませんでした。
清水先生には、お礼を言う際に、「戦前の官庁だけでなく、次に戦後の官庁の功罪を研究してください」とお願いしました。私の連載「公共を創る」は、戦後の官庁が果たした役割と、その後の失敗を全体的に見ています。各省ごとに、より客観的な分析が欲しいのです。戦後も80年、バブル経済崩壊後からも34年です。既に歴史になっています。
参考 黒澤良著『内務省の政治史 集権国家の変容』(2013年、藤原書店)

『孝経』

2025年7月20日   岡本全勝

橋本秀美著『孝経 儒教の歴史二千年の旅』(2025年、岩波新書)を読みました。儒教というと『論語』を思い浮かべ、『孝経』は思い浮かびません。でも、「身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり」は、孝経に出てくるのですね。

孔子の言葉を記したもので、「孝」について述べ、つぎに天子、諸侯、郷大夫、士、庶人の孝を説明します。1800字と短く、それが約20章に分かれています。日本でも、江戸時代どころか、戦前まで広く学ばれたとのことです。難しくなく、短いからでしょう。私も、「身体髪膚・・・」を覚えています。どこで学んだのかな。両親からかな。

ただしこの本は、孝経の中身・教えについて解説したものではなく(最後に現代語訳がついています)、経典の来歴、解釈の争いについて書いたものです。目次を見てください。その点は、やや専門家向けです。
秦の始皇帝の焚書に逢って、儒教の経典は燃やされてしまいます。それをくぐり抜けたものが、前漢の初めに出ます。その後に、孔氏の書院の壁から「発見された」より古いと言われる文書が出てきます。少し異なっているのです。どちらが本物か、大きな派閥争いが起きます。唐の玄宗が統一します。

孝経には、儒教による社会秩序・人の道が書かれていて、良いことを教えてくれます。でも、本家の中国では、どれだけの人がこれを読んで実践したのでしょうか。王朝は次々と交代し、そのたびごとに戦争が起きます。新しい王朝も、すぐに権力争いが起きます。庶民は、支配層にいじめられます。孝経を読んで実践したと思えないのです。その辺り、孝経の社会的影響力も知りたいものです。
肝冷斎に聞けば、詳しく教えてくれるでしょう。(と書いたら、肝冷斎は途中まで訳したことがあるそうです。さすが)

なお、身体髪膚は、第1章に出てきます。その前に「子曰く、夫れ孝は徳の本なり。教えの由って生ずる所なり。」があります。その後に、「身を立て道を行ない、名を後世に揚げ、以って父母を顕わすは、孝の終わりなり。」が続きます。

『女たちの平安後期』

2025年7月18日   岡本全勝

榎村寛之著『女たちの平安後期―紫式部から源平までの200年』(2024年、中公新書)を読みました。
宣伝には、次のように書いてあります。
・・・平安後期、天皇を超える絶対権力者として上皇が院政をしき、それを支える中級貴族や源氏・平家などの軍事貴族、乳母が権力を持つようになる。そのなかで巨大な権力を得た女院たちが登場、莫大な財産は源平合戦のきっかけを作り、武士の世へと移って行く。紫式部が『源氏物語』で予言し、中宮彰子が行き着いた女院権力とは? 「女人入眼の日本国(政治の決定権は女にある)」とまで言われた平安後期の実像がいま明かされる・・・

平安時代は、約400年も続きました。その後半、私たちの知識は藤原道長から源平合戦まで飛んでしまいます。この本が取り上げた、宮中での女性の地位や活躍も、知りませんでした。長講堂領については、かつて知って、そのように皇室財産が相続されたのかと驚きました。
摂関家に対抗するべく、天皇が上皇になって、幼い天皇を補佐する形で政治権力を握ります。ところが、上皇がいなくなったりすると、幼い天皇の母や養母が天皇家の「家長」として差配を振るいます。なるほど。
200年の間の話なので、たくさんの女性が出てきます。天皇も貴族も。その多さに、読んでいる途中で、こんがらがります(苦笑)。それに対して、小説は良いですね、登場人物が限られていて。

ただし、この本が分析しているのは、宮中での権力争いです。彼女たちが、ふだんどのような生活を送っていたかは、わかりません。また、庶民の女性がどのような暮らしをしていたかも、わかりません。

「イスラーム世界とは何か」

2025年7月13日   岡本全勝

羽田正著『〈イスラーム世界〉とは何か 「新しい世界史」を描く』(2021年、講談社学術文庫)を読みました。単行本が出たときに読みたいと思いましたが、そのままになり、文庫本になっても手をつけず。知人が読んでいるとのことで、読みました。
宣伝文には、次のように書かれています。
・・・ジャーナリズムで、また学問の世界でも普通に使われる用語、「イスラーム世界」とは何のことで、一体どこのことを指しているのだろうか? ムスリムが多い地域のことだろうか、それとも、支配者がムスリムである国々、あるいはイスラーム法が社会を律している地域のことだろうか。ただ単に、アラビア半島やシリア、パレスチナなどの「中東地域」のことを指しているのだろうか? 
本書は、高校世界史にも出てくるこの「イスラーム世界」という単語の歴史的背景を検証し、この用語を無批判に用いて世界史を描くことの問題性を明らかにしていく。
前近代のムスリムによる「イスラーム世界」の認識、19世紀のヨーロッパで「イスラーム世界」という概念が生み出されてきた過程、さらに日本における「イスラーム世界」という捉え方の誕生と、それが現代日本人の世界観に及ぼした影響などを明らかにする中で、著者は、「イスラーム世界」という概念は一種のイデオロギーであって地理的空間としては存在せず、この語は歴史学の用語として「使用すべきではない」という・・・

なるほど。「イスラーム世界」という言葉、概念は、近代ヨーロッパが作ったものなのですね。私は子どもの頃「中近東」や「極東」(こちらは最近聞かなくなりました)という言葉を聞いて、「なんでだろう」と疑問に思いました。ヨーロッパから見て、近いか遠いかだったのです。
しかし、「では、イスラーム世界に変わる言葉、概念は何か」と考えると、この本はそこまでは書いていません。
・・・地球環境と人類史的視点から「新しい世界史」を構想し叙述する方法の模索が始まる・・・と書かれているのですが、そこで止まっています。

歴史も地理も、それ自体は連続した事実に、何らかの視点から区切りを入れる作業です。視点によって、いくつもの区切り方があるでしょう。その一つは、住民の暮らし、生活文化です。その点では、イスラームは、有力な切り口だと思います。
これまでの歴史学は、政治権力によって区切ることが多かったです。日本史でも、奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山と。でも、この切り口では、日本列島人の暮らしの変化は見えません。私は、昭和後期・昭和末が、「戦後の終わり」「長い明治の終わり」「長い弥生時代の終わり」と説明しています。

戦争の証言と戦争の実像

2025年7月9日   岡本全勝

6月27日の読売新聞夕刊、井上寿一・学習院大学教授の「昭和史の「なぜ」考えて学んで」から。詳しくは記事をお読みください。

「記憶が風化 戦争抑止力が弱くならないか × 悲惨な記憶継承だけで戦争回避 楽観にすぎる」
戦前・戦中の日本政治外交史を研究する政治学者、井上寿一さん(68)は「昭和を知ると〈いま〉がわかる」と語る。その昭和の戦争体験を語る生存者が少なくなっている。戦争への道に進んだ歴史からどう学んだらよいのだろうか。

――記憶が風化し、戦争への抑止力が弱くならないか、心配です。
井上 悲惨な戦争の記憶を継承しさえすれば戦争を回避できるかといえば、それは楽観にすぎます。
歴史上初めての総力戦となった第1次大戦を終え、ヨーロッパの人びとは「二度と戦争は嫌だ」と思った。それなのに、戦争の記憶が生々しかった20年後、もう一回大戦争をやったじゃないですか。

――確かにそうですね。
井上 第2次大戦の直接のきっかけは、ナチス・ドイツのポーランド侵攻(1939年)です。あの時、「戦争はいけない」「ヒトラーに降伏しよう」と侵略されたポーランドの人々に言えたでしょうか。それでは侵略に加担することになります。
戦争の全体像は多面的で複雑です。照明の当て方によって、戦争像は異なります。戦争は被害の過酷さだけでは語りきれません。

――確かに日本人の戦死者は44年以降の戦争後期に集中し、45年3月の東京大空襲からは民間人の犠牲者が急増する。敗色が濃くなっても「一撃講和」にこだわったことが一因とされています。
井上 どこかで一度、戦果を上げ、有利な条件で終戦交渉に臨もうとする考えが「一撃講和」論です。ところが「一撃」の機会は訪れず、その結果、全国各地に空襲が広がり、沖縄戦では民間人も多く犠牲になり、8月には広島・長崎に原爆が投下されました。

――一撃のために戦場に散った特攻隊員も数多い。そして、終戦の遅れはソ連軍の侵攻も招き、大きな被害が出ました。
井上 いたずらに戦争を続けた原因の一つは、戦争目的が不明確だったことです。そもそも37年7月7日に起きた偶発的な軍事衝突は、4日後に現地で停戦協定が結ばれたのに、気が付いたら全面戦争に拡大していました。陸軍の仮想敵国はソ連、海軍の仮想敵国はアメリカなのに、なぜ中国と戦争するのか? その理由もあいまいで、戦争目的は変遷しました。
最初は「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」。荒れ狂う支那(中国)を懲らしめるためでした。それが途中からは「東亜新秩序の建設」となり、米英との戦争が始まると「大東亜共栄圏の建設」「アジアの解放」と言い出す。