カテゴリー別アーカイブ: 歴史

『風呂と愛国 』

川端美季著『風呂と愛国 「清潔な国民」はいかに生まれたか』(2024年、NHK出版新書)を読みました。

日本人は清潔で風呂好きだと言われます。では、いつ頃からそうなったのか。江戸時代に風呂屋・銭湯が広まったとのことですが、庶民はどの程度の回数で使っていたのでしょうか。本書を読んでも、明確な統計はないようです(私が見落としたかも)。

風呂を沸かすとなると、湯船と洗い場という施設、給水と加熱設備が必要です(東日本大震災の際も、避難者に風呂を提供することは難しかったです)。庶民の家にはなく、風呂屋に行くしかありません。しかし有料ですから、貧乏人がどの程度の頻度で利用したのでしょうか。また、銭湯が成り立つには一定規模の利用者が必要ですから、小さな集落ではどうしたのでしょうね。

明治以降は、本書に書かれているように、国策として清潔が教育され、公衆浴場も広げられます。
ところが、1942年(昭和17年)に沖縄県で調査したところ半年以上入浴していない児童がいるので、学校が風呂を作ったことが紹介されています。これを見ると、国民全員が多い頻度で入浴していたわけではなさそうです。

『ブリュメール18日 革命家たちの恐怖と欲望』

藤原翔太著『ブリュメール18日 革命家たちの恐怖と欲望』(2024年、慶應義塾大学出版会)が、勉強になりました。

紹介には、次のように書かれています。
・・・ナポレオンが総裁政府を打倒し権力の座についたクーデタ「ブリュメール18日」。本書ではこのクーデタを、ナポレオンが独裁を志向した結果として捉えるのではなく、むしろフランス革命の成果を守るために、改憲派の革命家たちがナポレオンを権力の座に引き上げた事件として理解し、革命家たちの視点に立って考察する。革命期に発展した民主主義を、思いどおりに制御できなかった革命家たちが、まさにその民主主義のなかから権威主義体制を形成していく過程を、派閥の動向、憲法、選挙制度、地方行政の改革をとおして明らかにする・・・

国王を処刑して、封建制度を廃止し、民主主義を導入したフランス革命。ところが、いつの間にか、ナポレオンが皇帝になります。それだけを見ると、なんのための革命だったのと、????です。
子どもの頃に読んだ偉人伝には、必ずナポレオンが入っていました。でも、どのようにして、民主主義を目指した革命が、皇帝独裁に変化したのか、よく知りませんでした。
いかにナポレオンが天才で有能であっても、簡単に革命の成果を横取りすることはできません。彼を担ぎ上げた社会状況、政治状況があったのです。もちろん、担ぎ上げられるだけの人望はあったのです。ただし、その神輿に乗っているだけでは、皇帝にはなれません。そこからが、彼の知恵と腕の見せ所です。
この本を読んで、よくわかりました。

近代文学の終焉

朝日新聞「柄谷行人回想録」、12月11日と18日は「近代文学の終焉」でした。小説は、読者とは違う世界を見せてくれるものです。すると、社会に差異がなくなり、また理想がなくなると、小説の出番はなくなるのでしょうか。

柄谷さんが、2003年に近畿大で行った講演で、翌年「早稲田文学」に掲載された「近代文学の終り」が説明されています。
「近代的な国民国家の成立には、文学、とりわけ近代小説が重要な役割を果たしたことを確認しつつ、その役割は終えたと指摘した。社会階層などでバラバラだった人々を、“想像の共同体”としての国民(ネーション)としてつなぎ合わせる過程で、共感を生み出す小説が基盤となった。娯楽として軽視されていた小説の地位は向上し、より真実らしさを表現するため、リアリズムが課題となった。しかし、国民国家が世界各地に広がったこと、さらに映画などよりリアリティーを喚起しやすい形式が発達したことなどが重なって、小説は特権的な地位を失っていった、とみる。」

――柄谷さんは、70年代には中上健次や村上春樹といった作家が登場し、リアリズム中心の近代文学が抑圧した言葉遊びやパロディー、物語といった要素を持つ文学が復活してきたと見ていました。しかし、90年代にはそうした文学も急速に力を失った、とも。なぜでしょう。
「複雑な要因がありますが、一つの理由としてあげられるのは、近代小説が、“差異”から出てきた、ということでしょうか。例えば、ゴーゴリ独特のリアリズムは、先進国では失われた濃密な共同体がロシアに残っていたことから生まれた。
日本の夏目漱石も、コロンビアのガルシア・マルケスも、それぞれの社会独特の背景から生まれた。当たり前のようだけど、重要です」

――国による発展の違いが文学の源になったわけですか。
「米国国内での不均衡が背景にあるフォークナーも、同じです。都市と農村、先進国と後進国、男性と女性のような差異が一つの大きな動力になった。こうした差異は高度成長とグローバリゼーションによって、消滅の方向に向かいました」

――社会や人々の均質化で描くことが減った、と。しかし、差別や理不尽は残っています。
「格差がなくなること自体は、当然望ましい。その上で、ひどくなっている問題も多い。だけど、漱石やフォークナー、戦後文学の頃までは、差異をあぶり出すことによって新たな共同性を築くことができた。今は、サルトルのような世界的な連帯を牽引できる作家もいません。文学だけではなく、思想にも宗教にも求心力がない」

外国人観光客が期待していたこと

11月28日の読売新聞に「訪日客 地方にも広がり」が載っていました。
訪日客が急増しています。定番の東京、富士山、京都、大阪だけでなく、各県でも増えています。
そこに、「外国人観光客が期待していたこと」が載っています(観光庁調べ、複数回答)。景勝地より、日本食と買い物なのですね。繁華街や日本酒も多いとは。

・日本食を食べること、81%
・ショッピング、62%
・自然・景勝地観光、55%
・繁華街の街歩き、55%
・日本の酒を飲むこと、33%
・日本の歴史・伝統文化体験、27%
・美術館・博物館等、27%
・四季の体感、25%
・温泉入浴、24%

『グローバル・ヒストリーとは何か』

パミラ・カイル・クロスリー著『グローバル・ヒストリーとは何か』(2012年、岩波書店)を読みました。『中央公論』11月号「世界史を学び直す100冊」で興味を持ったので。
歴史学の変遷や歴史の見方に興味を持って、いろいろ読んだことがあります。「歴史学の擁護

書店の宣伝文には、「急速なグローバル化が進展するなか,一国史的,地域史的な枠組みを脱して,人間の歴史を世界大,地球大で捉える歴史研究が注目を集めている.それは従来の歴史学と方法論的にどう異なるのか.いかなる理論とナラティヴを特徴とするのか.グランドスケールの歴史叙述を広く見渡しながら,新たな歴史ジャンルの特色を浮き彫りにする」とあります。

グローバル・ヒストリーは、世界史とは違うようです。各国や各地域の歴史を並べるのではなく、地球規模での「流れ」を読み解くと言ったらよいでしょうか。それぞれの地域での独自の発展とともに、共通した発展と、それらの間の相互作用を重視します。
ウォーラーステインの世界システム論や、ジャレッド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』、ウィリアム・マクニールの『世界史』などが取り上げられます。ヘーゲルやマルクスもです。

著者は、それらの視点を「発散」「収斂」「伝染」「システム」の4つに分類します。この分類は納得できます。
次に期待したいのは、これら歴史学の成果を踏まえた「世界史」またはグローバル・ヒストリーです。一冊の本にするのは、難しいのでしょうか。