「報道機関」カテゴリーアーカイブ

交ぜ書き

8月7日の朝日新聞オピニオン欄「常用漢字と私たち」から。

・・・最近よく見る「まん延防止等重点措置」や「医療ひっ迫」――。常用漢字でない字にひらがなを使うのを不自然と感じる人は多いようです。・・・この常用漢字に伴って起きるのが交ぜ書きの問題です。例えば、「まん延」は「蔓延」、「ひっ迫」は「逼迫」、東京五輪で日本人選手が17年ぶりに銅メダルを取った体操の「あん馬」も「鞍馬」と書けますが、「蔓」「逼」「鞍」は常用漢字ではないため、常用漢字だけを使うなら、ひらがなと交ざります・・・

時田昌・産経新聞元校閲部長の発言
・・・ 産経新聞はマスコミでは珍しく、「蔓延(まんえん)」「改竄(かいざん)」と読み仮名(ルビ)付きで漢字表記しています。漢字で書く熟語は全て漢字で表すのが自然と考えるためです。
「双璧」なども、2010年に「璧」が常用漢字に入る前から交ぜ書きをやめ、漢字ルビ付きでした。「双壁」と誤って書かれやすいですが、「壁のようにそびえている」わけではなく、「すぐれている」という意味の「玉」を含む「璧」が正しい。このように、表意性のある漢字は意味を正しく伝えやすい利点があるように思います・・・

・・・私は、日本新聞協会の新聞用語懇談会(用懇)委員を約20年務めました。その場で交ぜ書きの議論が活発になったのは1990年代です。北朝鮮の日本人「ら致」(拉致)、金融機関の経営危機で「破たん」(破綻)、「損失補てん」(補塡)がニュースに頻繁に出ていた頃です。「拉」「綻」「塡」は2010年の改定で追加されるまで常用漢字ではなく、交ぜ書きが頻出していました。
「日本人ら致」などは、「日本人ら」と別の言葉に読めてしまう。さすがに改善を求める声が上がり、用懇では96年、特に読みにくい「ら致」や「だ捕」(拿捕)は交ぜ書きをやめ、ルビ付きで漢字にするといった動きがありました。
それでも、まだ多くの交ぜ書きが残りました。報道各社は交ぜ書きをさらに減らす総論では一致したものの、どういう基準で減らすかを巡って意見が割れました。解消を進めすぎると、「難しい字が安易に使われかねない」と心配する声もあったのです。
用懇は02年に各社の用語担当者が参加する特別の検討部会を設け、1年余り議論した末、報道で使っていた三百余の交ぜ書きを、漢字に改める▽漢字に改め、仮名も振る▽別の表現にする――などと決め、約70まで交ぜ書きを減らしました。それでも「まん延」のように、気になる表記がまた出てくるのですね・・・

外圧のつまみ食い

7月21日の朝日新聞オピニオン欄「外圧の正体」、斎藤美奈子さんの発言から。
・・・戦後まもないころに文化人類学者のルース・ベネディクトが「菊と刀」で論じたのは、日本の特徴は「恥の文化」だという話でした。内なる神との対話を通じて善悪を判断する「罪の文化」とは違って、外の目を気にし、それを自らの行動規範にする文化が日本にはある、と。
この考え方に立てば、日本は外圧を気にする国であるという見立ても確かに、もっともらしく見えてきます。

でも、本当にそうかな、とも思います。日本って、人権やジェンダーといった面では驚くほど世界からの声に鈍感でしょ? 思わず「もうちょっと外圧を気にしろよ」と言いたくなってしまうほどに。
死刑制度の継続に、夫婦同姓の強制、LGBTへの差別に、外国人の長期収容問題……。国連や国際社会から何度見直せと言われても全く変わろうとしない。その鈍感さこそが、私には不思議です。
外の目を気にしているように見える割に、他人の話に耳を貸さない。「外国からの規範の押しつけに屈するな」という声が出る。おそらく足りないのは、自省の作業でしょう。自らの制度や道徳基準とすりあわせたらどうなるか、の吟味が起きない。棚ぼた民主主義の国だからなのかな、とも思うけれど・・・
・・・国内メディアの鈍感さこそを問題視すべきだと私は思います。何かが一見「外圧」に見えるのは、単に、ある問題の所在が国内で可視化されていなかったせいかもしれない、と思うからです・・・

立花隆さんの功績

6月25日の朝日新聞、ノンフィクション作家・柳田邦男による「立花隆さんを悼む、ジャーナリスト+歴史家の目」から。
・・・一国の政治や社会に内包された巨悪とも言うべき矛盾が、一人か二人の作家あるいは知識人の表現活動によって衝撃的に露呈され、時代の傾向あるいは特質を劇的に変えるという事件は、洋の東西を問わず歴史的にしばしばあった。1974年10月発売の文藝春秋11月号に立花隆氏が発表した「田中角栄研究――その金脈と人脈」は、まさにそういう歴史的な事件だった。

戦後史を振り返ると、60年代まではジャーナリズムの社会に対する影響というものは、オピニオン・リーダー的な評論家や知識人が政治や社会問題について、チクリと気のきいた名句(例えばテレビ時代を迎えた時の評論家・大宅壮一氏の「一億総白痴化」)などによるものだった。それを劇的に変えたのが、「田中角栄研究」だった。
この少し前、たまたま米国では、ワシントン・ポスト紙がニクソン大統領陣営による大統領選挙不正事件(ウォーターゲート事件)を、綿密な証言収集や証拠資料収集によって暴露し、現職大統領を辞任に追い込むきっかけを作り注目を集めていた。公的な捜査や調査に頼らない「調査報道」の力の大きさを示すものだった。だが、立花氏はその事件に影響を受けたわけではなかった。偶然、時期が重なっただけだった。時代の要請が国境を越えて共通のものになっていたと言おうか。歴史の興味深いところだ・・・

・・・しかも氏が強調したのは、単に金脈事件の暴露を羅列したのではない、自民党全体を含めての「金脈の全体的な構造」を、徹底的に資料を漁(あさ)り、証言を集め、それらを分析して解明することを目指したということだった・・・

ジャーナリズムの不作為

5月14日の朝日新聞オピニオン欄、山腰修・慶応大学教授の「ジャーナリズムの不作為 五輪開催の是非、社説は立場示せ」が興味深かったです。

・・・「ジャーナリズムの不作為」という言葉がある。メディアが報じるべき重大な事柄を報じないことを意味する。例えば高度経済成長の時代に発生した水俣病問題は当初ほとんど報じられなかった。このような不作為は後に検証され、批判されることになる。
ジャーナリズムは出来事を伝えるだけでなく、主張や批評も担う。したがって、主張すべきことを主張しない、あるいは議論すべきことを議論しない場合も、当然ながら「ジャーナリズムの不作為」に該当する。念頭にあるのは言うまでもなく、東京五輪の開催の是非をめぐる議論である・・・
・・・この段階に至るまで、主流メディアは「中止」も含めた開かれた議論を展開したとは言い難い。例えば、5月13日現在、朝日は社説で「開催すべし」とも「中止(返上)すべし」とも明言していない。組織委員会前会長の女性差別発言以降、批判のトーンを強めている。しかし、それは政府や主催者の「開催ありき」の姿勢や説明不足への批判であり、社説から朝日の立場が明確に見えてこない。内部で議論があるとは思うが、まずは自らの立場を示さなければ社会的な議論の活性化は促せないだろう・・・

・・・かつて6年近く朝日の論説主幹を担った若宮啓文は、社説を「世論の陣地取り」と位置づけた。社の考えや価値観の理解・支持を広げていく手段、というわけである。こうした点からすると、五輪をめぐる朝日の社説は「陣地取り」に完全に失敗している・・・
・・・ただし、「世論の陣地取り」の仕方も時代に合わせて変化が求められる。かつてのように主張を一方向的に伝えても、多くの人々に届かない。不確実性の高まる社会では、自らの主張が「正解」である根拠を見いだすことが難しい。間違いを指摘されるかもしれないし、批判されるかもしれない。
だが、そうした指摘や批判に耳を傾け、応答しながら柔軟に修正を積み重ねるような社説でも良いのではないか。「言いっ放し」ではなく耳を傾ける姿勢が、ソーシャルメディアの時代では共感や理解を得る手段となる。いわばそれは社会との対話によって議論を発展させる新しい社説の形である・・・

特ダネの記録、高知県庁闇融資事件

朝日新聞ウエッブ論座、依光隆明・朝日新聞諏訪支局長の「高知県庁「闇融資」事件 載せていいのか、悩みに悩んだ高知新聞 武器は紙面、エネルギーは読者の応援」(4月29日掲載)を紹介します。

・・・ Kさんのことを考え、何度も夜眠れなくなったことを覚えている。
2001年5月10日、高知県警は決裁ラインにいた高知県庁の副知事から班長まで5人を背任容疑で逮捕した。Kさんは商工労働部長として容疑に関わっていた。連行されるとき、捜査員と一緒に自宅から出たKさんと目が合った。Kさんは覚悟を決めたかのように小さくうなずいた、ように見えた。

彼らが手を染めたのは民間企業への融資である。議会に知らせず、庁内ですらマル秘にして、本来は県信用保証協会に預けておく預託金から予算を流用していた。その額、実に12億円。しかもほぼ全額が焦げ付き、予算にぽっかり穴を空けている。なぜそんなことをしたのか。大きな理由は相手方への恐れだった。
当時、高知県では部落解放同盟の力が強大だった。融資の相手方は、その幹部が関わる縫製企業。求められるまま県は公的資金を注入し、あげく予算の違法流用まで行っていた。闇の中で公金を流すこの行為を、高知新聞は「闇融資」と名付けた。闇から闇への闇融資である。

逮捕された県庁マン5人の誰ひとりとして自分の懐にカネを入れていない。これも県職員の仕事だと信じ、ときには上から言われるままに動いていた。典型がKさんだったように思う。気さくでまじめ、文人肌の善人だった。まじめで組織に忠実だからこそ部長にまで上り詰めたのかもしれない。彼なりに仕事を全うした代償が逮捕・起訴だった。副知事、課長とともに実刑判決を下され、刑務所に収監された。築き上げた社会的地位も、経済的安定もどん底に落ちた。
追い込んだ先駆けは高知新聞である。善良な県庁マンをそこまで追い込んでいいのか。自分が彼の立場だったらどうしたのか。上司や周りに逆らえたのか。甘いと言われれば甘いのだが、逮捕前後にはそんなことをよく考えた。予算に穴が空いていればいつか露見する、高知新聞が報道してもしなくても一緒だ。いや、露見を防いだ可能性もある。なにせ彼らは後付けの理屈をつくるプロなのだ。などなど、いろんなことを自問自答した・・・

詳しくは原文をお読みください。このほかにも、「特ダネの記録」があります。