今朝16日の朝日新聞1面に、「原発事故からの避難、移住進む 家や土地取得1791件」が載っていました。中村信義記者の署名入りです。2面に、「党拡大、資金集めの呪縛 渡辺前代表8億円問題、軌跡を追う」の記事があり、中村信義記者の署名が入っています。復興と政治資金をテーマに2本の記事、それも1面と2面。他の記者との連名とはいえ、大活躍ですね。
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政治評論の役割、2
御厨先生の指摘を読んで、私は、アカデミズムとジャーナリズムの罪を考えました。もっとも、これは私のオリジナルではなく、多くの識者が指摘していることです。
これまで日本のアカデミズムは、海外の理想的な政治制度を紹介して、それを基準に日本の政治は遅れていると、国民を教育してきました。その際に、イギリスやフランス、アメリカでも、ここに至るまでにどのような経験と犠牲を払っているかを、捨象しています。そして、それらの国々でも、日々の政治の運用では、そんなに単線的にかつきれいに進んでいるのではないこと、利害対立が激しいことを教えません。
ジャーナリズムもまた、その理想を基準に、「日本の現実政治はダメだ」と批判します。それはある面必要です。しかし、「あれもダメ、これもダメ」と批判するだけでなく、「ここはダメだが、ここは良い」と指摘しないと、「全て悪い」では、改良と進歩がありません。また、理想に近づく道筋を指摘しないと、無責任です。
子育ても、部下職員の教育も同じでしょう。欠点をしかってばかりでは、子どもは育ちません。良いところを誉め、欠点は修正の方向を示す必要があるのです。
あわせて、政党の扱いが小さすぎると思います。日本は、議会制民主主義をとっているのですから、政党を通じて政策を実現するのが、正当な道です。すると、それぞれのテーマ・政策について、各党の主張を検証し、より正しいと思われる政党を支援することが必要でしょう。政党を誉め、批判して、育てることが必要です(官僚批判をしているだけでは、良い政治は実現しません)。
政治評論の役割
御厨貴著『馬場恒吾の面目―危機の時代のリベラリスト』(文庫版、2013年、中公文庫)を読みました。
馬場恒吾は、1875年生まれ、1956年死去。20世紀前半のジャーナリストで、昭和前半を独立した政治評論家として活躍しました。戦後は、読売新聞社長を務めています。
勉強になったか所を、引用しておきます、
・・「戦後」70年近くになるが、今や「政治評論よ、何処へ行く」の感を深くする。55年体制と自民党一党優位体制の確立は、まちがいなく政治評論を不毛にした。では55年体制の崩壊とその後の「政治改革」の20年は、どうだっただろうか。いやいっこうに政治評論ははかばかしくなかった。
55年体制下で紡がれたのは、ミクロな政局の叙述と、マクロな政治の展望との二つに集約される議論であった。ミクロとマクロのつなぎの部分が実はない。ジャーナリズム出身者による政治評論はミクロを得意とし、アカデミズム出身者によるそれはマクロに傾斜した。知らず知らずのうちに、相互不可侵の態勢ができあがり、自己満足以上の成果はなく、現実政治に影響力を与える筆の力はなまくらなまま打ち過ぎた。
政治構造の転換を余儀なくされたこの「政治改革」の20年も、小選挙区・二大政党制・政権交代の三題話に収斂する政治評論しかなかった・・(p3、文庫版まえがき。なぜ今、馬場恒吾か―政治評論の復活のために)
この項続く。
ネット報道と新聞との戦い
大治朋子著『アメリカ・メディア・ウォーズ―ジャーナリズムの現在地』(2013年、講談社現代新書)が、興味深かったです。
インターネットの普及でオンライン報道が大きくなり、新聞社の経営を圧迫しています。新聞社は、どのように生き残りをかけているか。大手新聞社(といっても、日本ほど大きくありませんが)が、有料記事との組み合わせ販売などで、ネットとの共存を試みています。他方、地方の小さな新聞社は、地域のニュースに特化し、またライバルである他紙とニュースの共有を試みます。NPOによるニュースや、調査報道の進化も、起きています。興味深い実例が、たくさん載っています。
インターネット報道と新聞との戦いであり、広告収入の奪い合いです。先進地アメリカでの事態は、日本でも早晩起きることでしょう。日本の多くの新聞記者さんは、既に読まれたと思います。
私は、新聞という活字媒体は、なくならないと考えています。ただし、事件の報道だけなら、テレビやネットの方が早く、かつビジュアルです。アメリカの新聞記事を、日本で読むことができるのも、魅力です。
分析という付加価値をつけることが、新聞のそして記者の役目だと思います。
他国の行動を大きく伝える
今日8月30日の各新聞夕刊の1面は、「英、シリア攻撃不参加。議会が否決」という趣旨の、大きな見出しの記事でした。これ自体は、大きなニュースなのでしょう。
でも、諸外国の新聞のトップニュースに、「日本、××攻撃に不参加」というような記事が載ることは、いつのことでしょうか。その前に日本の新聞に、「政府、××攻撃に不参加」と載るのは、いつのことでしょうか。あるいは、そもそもないのでしょうか。
ここには、2つの要素があります。
一つは、「イギリスの行動はわかった。では、日本はどうするのか」と問われた場合の答です。
もう一つは、諸外国で、日本がどのように報道・評価されるかです。
もちろん、戦争は避けるに越したことはありません。また、戦争に関し、日本が世界でも珍しい憲法を持っていることも事実です。しかし報道が事実なら、シリアで子どもや市民が、化学兵器で殺されています。
イギリスの行動を報道・評価するなら、わが国の取るべき態度も明らかにすべきです。ともに参加するのか、身を挺して反対するのか、我がことではないと傍観を決め込むのか。他人のことを評論する際には、我が身に対する質問と答も用意すべきだと思います。
西欧各国の動向を大きく伝えることの裏側に、「日本は別ですよ」という意識が、潜んでいないでしょうか。それとも、イギリスやアメリカは大国で、日本はその他の国なのでしょうか。「一国平和主義」の限界が見えてきます。
私ならどうするか。あなたは、どう判断しますか。難しいです。