今朝5月10日の朝日新聞1面を見て、おやっと思いました。全ての記事に、記者の署名が入っていました。いつからそうなったのだろうと聞いてみたら、社会部や経済部は2005年頃から原則署名入りだそうです。政治部が最近から署名を原則にしたそうです。1面は政治部記事が多い、また私が読むのは政治部が多いから、私が気づかなかったのですね。
私は、署名入りが良いと思います。責任がはっきりします。もちろん、社内で上司の手が入り、また入らなくとも社の方針に従うので、記者個人の思いを全て書くわけではありませんが。署名入りの方が、記者も張り合いが出るでしょう。無署名は、無責任になります。これは、ブログにも当てはまります。
毎日新聞は、早い時期から署名入りが原則でした。次は、社説にも、執筆担当者の名前を入れて欲しいです。社説は、論説委員が合議して書くようですが、執筆担当者はいます。それを、明らかにすると良いと思うのですが。
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新聞報道を自己検証する
尾関章著『科学をいまどう語るかー啓蒙から批評へ』(2013年、岩波書店)が勉強になりました。長年、朝日新聞科学部記者として勤めた著者が、福島第一原発事故をきっかけに、過去の朝日新聞の科学報道を検証したものです。自己評価、自己反省の書になっています。
まず、朝日新聞という日本の言論界で大きな位置を占めている組織の、自己評価であることが、大きな意味があります。
そして、率直に、過去の科学報道の欠点を述べています。それは、副題にもあるように、これまでの新聞による科学報道は啓蒙型のジャーナリズムであって、批評型のジャーナリズムでなかったという反省です。その結果、国策宣伝の一端を担った、しかし他の道もあったのではないかという反省です。その背景には、科学が社会を進歩させる、科学は善であるという思い込みが、続いていたからです。原子力発電、医療、宇宙開発など具体例で、検証しています。
この本は、一記者による検証ですが、組織として、新聞社や各編集部が、自らの報道を振り返って評価や反省することは、重要な意味をもつと思います。個別の記事の検証やこの1年の回顧でなく、中長期的な位置づけです。社会に大きな影響をもつ存在であるほど、それが必要でしょう。第3者を交えた評価も良いでしょう。
その点では、私たち官僚も、各省がこの半世紀、あるいはこの20年間に、何をして何をしなかったか、何に成功して何に失敗したかを、大きな視点から振り返る必要があると思っています。もちろん、自己評価は難しいです。よいことばかりが書かれて、不利な評価はあまり期待できません。しかし、今後も国民の期待に応えていくならば、何がよかって何が足らなかったということの反省に立って、次の仕事を組み立てる必要があります。
かつて連載「行政構造改革―日本の行政と官僚の未来」で、官僚の失敗と官僚制の限界を論じたことがあります。もちろん、現役官僚が一人で検証するには、大きすぎるテーマですが、議論のきっかけになると思って試みました。途中で、総理秘書官になって忙しくて中断してしまいました。
愛国心、いびつな言説はメディアにも責任、3
「相当な覚悟としたたかさが必要ですね。日本にできますか」という問に。
・・もちろんできます。ここでも現代日本を過小評価してきたメディアの責任は大きい。日本のメディアはあまりに悲観的です。世の中には楽観的な事実も悲観的な事実も無数にある。そこから何を選び、どんな論調をつくるかは、ジャーナリズムの責任です。ひたすら悲観的な論調で日本の世論を暗くし、イメージを傷つけるべきではありません。
社会が暗くなると人々に自虐的な思考が広がる一方、不満をためた人たちは過去の栄光にすがる。日本の良いところをきちんと評価し、健全なプライドをメディアが意識して育てないと、人々はゆがんだプライドを求めるようになります。それが「大東亜戦争」を肯定したり、慰安婦問題で居直ったりという行動につながってしまうのです・・
「しかし現状を肯定するばかりでは、メディアの責任を果たすことはできません」との、記者の反論に対して。
・・権力監視や現状の批判は必要ですが、現在のあまりに硬直的な悲観主義や否定・他罰的傾向を見直してはどうかと言っているのです。それは政府や社会に対してだけでなく、メディア相互の関係でも言えることでしょう。例えば朝日新聞と読売新聞の論調は互いに批判しあう関係ですが、むしろ両者が共有できる部分を大事にするべきでしょう・・
「日本人は健全な愛国心を持てますか」
・・戦後日本の歩みは世界で類をみないほどの成功物語でした。日本にはそれだけの力がある。どんな人間だって「誇り」という形で自分の存在理由を見つけたい。メディアがそれを示し、バランスのとれた議論を展開すれば、日本社会は必ず健全さを取り戻すと信じています・・
愛国心、いびつな言説はメディアにも責任、2
・・日米安保体制の強化で中国の行動への抑止力を高めることは必要でしょう。けれども20年後、さらに50年後はどうか。米国に頼って中国と軍事的に対峙する路線が、どれだけ賞味期限をもつのか。そうしたリアリズムこそ日本に必要なものです。
13億人の中国は、多少の挫折はあっても将来米国と肩を並べ、さらに米国を超える超大国になる可能性が高い。他方、百年国恥の屈辱感の裏返しである現在の中国の攻撃的な路線が永久に続くわけではない。対立するより、諸国と共に中国の過剰な被害者意識をなだめ、卒業してもらう工夫を日本はするべきです・・
・・中国が持たないソフトパワーをいかすことです。日本の学者が主導してアジア国際法学会を日本で開催した際、参加した中国人が必死に運営のノウハウを学ぼうとしたことは象徴的です。製造業やサービス業、医療のシステム、アニメやファッション、さらには秩序だった市民生活のルールなど日本には中国にとって魅力のあるソフトがあります。それで中国の懐に入り込み、ウインウインの関係をつくり出すべきです・・
愛国心、いびつな言説はメディアにも責任
朝日新聞オピニオン欄4月16日は、大沼保昭教授の「日本の愛国心。『誇り』か『反省』か、極論を見せ続けたメディアにも責任」でした。
「最近、日本人の愛国心が変だと心配されていますね」との問に。
・・「愛国」や「日本人の誇り」を主張する人が、日本の起こした過去の戦争を反省する姿勢を「自虐」と切って捨てる姿勢が強まっています。戦争を真剣に反省して努力を重ねたからこそ、世界に誇り得る戦後日本の見事な復興と達成がある。そこが十分理解されていないのではないでしょうか・・
・・他方、現在のいびつな状況をつくり出した大きな責任は、「愛国」「誇り」の論者と過去を「反省」する論者を対立させるという「激論」の図式で人々の思考に影響を与え続けてきた日本のメディアにあるのではないか。戦後日本は過去を反省し、世界の国々から高く評価される豊かで平和で安全な社会をつくり上げた。それを私たちの誇りとして描き出さず、戦前・戦中の日本に焦点を当てて、愛国か反省かの二者択一の極論を見せ続けた。その結果、いびつな愛国心が市民に広がったのではないでしょうか・・
・・私はずっと、戦後日本は過去の植民地支配と侵略戦争を反省して平和憲法を守り続けてきたことを世界にもっともっと発信した上で、欧米に対して「あなたたちはどうだったのですか?」と問題提起をするべきだと主張してきました・・