「私の読んだ本」カテゴリーアーカイブ

「私の読んだ本」という表題ですが、いま書いているのは蔵書の整理です。本の内容については、手が及んでいません。

(蔵書の引っ越し)
2006年春に、実家から蔵書を引き取りました。その顛末記です。なお、進行中。

少し古本を処分3

少し古本を処分2」の続きです。いつものように、笑い話として読んでください。

その後も、ぼつぼつと作業を続けています。「少し古本を処分1」の後、毎週末にがんばって、さらに3箱+3箱を知人に送り、3箱+1箱を捨てました。
休日は、孫の相手のほか、朝は原稿の執筆、午後は本棚の整理です。なかなか腰が上がらないのです。本を捨てる悲しみと、部屋が広くなる喜びとが交錯しています。

最初の頃に比べて、作業が遅くなり、本棚に戻す本が増えてきました。床の山を先に片付けているのですが、これは近年買った本なので、まだ捨てる気になりません。本棚の手が届かないところには、古い本が並んでいて、たぶん迷うことなく捨てることができるはずです。しかし、床の山を片付けないと、脚立をおけないのです。次回は、その辺りを狙いましょう。
「分け入っても分け入っても本の山」(種田山頭火ならぬ山頭水にしておきましょうか)。暑い日には、水のシャワーを浴びて作業をしているので。

全体計画からするとまだ1割くらいですが、それでも成果は出ています。
・本棚に空きができた
・書斎の床が広がった
・階段の壁沿いに積んであった本はなくなった

そこで、机の上の山を、少し本棚に移しました。「書斎と椅子」に書いた、作り付けの机(天板)です。パソコンの前が少し広くなりました。
もっとも、まだ右側に8山、左側に7山あります。一山は10数冊で低いのですが、これを崩さないと、机が全面的には使えません。全部とは言いませんが、半分くらいは空けたいです。
パソコン用の椅子と読書用の椅子を、二つ並べてあります(こだわりの椅子)。まだ、読書用の椅子は使えない状態です。せっかく買った椅子なのに。

少し古本を処分2

少し古本を処分」の続きです。
本を分別する際に表紙を見ると、「こんな本も読んだんだ」「見つからなかった本が、こんなところにあったんだ」という本が見つかります。なるべく考えないようにするのですが、思い出がわいてきます。その思いを断ち切り、どんどん捨てます。気になる本は、悩まずにひとまず棚に戻しました。知的作業でなく肉体労働にすることが、コツですね。

政治や経済の時事評論もの、官僚ものなどが、たくさん出てきました。これらは誰も読まないでしょうから、悩まずに捨てることができました。その時々には、時代を理解するために読んだのですが、それら多くはすぐに時代遅れになっています。「過去と同時代を分析できても、未来は読めない」と、あらためて思います。
寄稿した雑誌や私が取り上げられた雑誌なども、思い切って捨てました。古い写真や近鉄バッファローズの会員証などが、紙袋に入って出てきました。これはどうしますかね。

一番古いのは、たぶん『倭の五王』(1968年、岩波新書)です。高校時代に、今はない奈良市の駸々堂(餅飯殿通りが三条通にぶつかるところ)で買いました。大学時代に古本で買った専門書にはもっと古いのもありますが、それは除いて。
若い頃は、買った日と読み終えた日を、本の奥付に書き込んでいました。それを見て驚くのは、新書は1日か数日のうちに読み終えています。気力と体力があったのですね。また、集中できる時間もあったということです。知らないことばかりで、いろんな本を読む度に、知的興奮を感じていました。

これで、何センチ床が上がったかな(苦笑)。
ある人から、「空いた棚は、すぐに埋まってしまうのでは」と質問が来ました。まずは床に積み上がった本を、棚に並べたいのです。で、すぐに埋まります。肝冷斎は「すぐに元の木阿弥」になると笑っています。
「どれくらいお金をつぎ込んだのですか」との質問も。かなりの金額ですが、見当もつきません。昔は安かったですよね。もっとも物価や収入も低かったです。でも、1冊2千円として、1000冊で2百万円です。使った飲み代に比べれば、安いものですね。

若いときはお金がなくて、好きなだけ本を買えませんでした。だからこそ、買った本はしっかり読みました。収入が増えて(原稿料が入って)本が買えるようになってから、買ったのに読み終えてない本が増えました。
「これで、全体の何割くらい整理できたのですか」という質問も。目分量で1割でしょうか。それを考えると、嫌になります。

少し古本を処分

思っているほど本を読めないことを改めて認識して、きっしょを立てて(「思い立って」「これを機会に」という意味で、関西の言葉だそうです)、家の本を少し整理・廃棄しました。
それぞれに思い出があるのですが、もう読むこともないでしょう。ほかに読まなければならない本が、たくさんあります。私は仕事では判断は速いと言われているのですが、本を捨てることについては、優柔不断で思い切りの悪い奴です。いつも「やるぞ」と言い、何度も「やるぞ」と決めたのですが、実行に移せず。「いつかやる」は、「いつまでもやらない」ですね。

最近触ってない棚から本を下ろし、分別しました。まだ読めそうな本は段ボール箱に詰め、知人に送って処理してもらうこととしました。合計5箱。ここが味噌です。自分では思い入れがあって処分できないので、頼んでいるのです。もし役立つ本があれば再利用され、そうでない本(ほとんど)は捨てられるでしょう。
古い学術雑誌は、捨てる前に「ひょっとしたら」と知人の研究者に、「だれもいらないわな」と聞いたら、引き取ってくれました。肝冷斎の興味のありそうな本は、送りましょう。でも、彼の本の山を高くすることになりますね。嫌がらせかな。
しかし、これだけでは本棚の前後に詰め込んである(2列になっている、さらにその上に横積みしてある)のが、1列分4棚で減っただけで、削減効果は目に見えません。

気合いを入れて、一番上の棚に詰まっている新書に手をつけました。数えてみると、1列に約60冊並んでいます。前後2列、上下2段に詰め込んであります。合計240冊。脚立に上り、下で受けてくれる孫に手渡しして、廊下に下ろして選別。いくつか残して、捨てました。ここは棚が空いて、成果が見えます。棚板は約20年間の重みで、たわんでいました。
ただし、新書と文庫は、まだ別の棚に4段あります。しかもその棚には、1列で80冊ほど並んでいます。ということは、80冊×4列×4段あります。コツコツとよく読んだものです。
新書も含めて、捨てたのは合計5箱ほど。

翌日、宅急便に集配に来てもらいました。「また、明日もありますかね」と聞かれたので、再度挑戦。クロネコのお兄さんは、わかっていますねえ。感謝です。
で、違う棚に挑戦しました。その結果、詰めて送るのが2箱でき、ほかに約3箱分捨てました。前日の作業を含め、棚が4マスほどスカスカになりました。快挙です。作業の前後を写真に撮っておけば良かったのですが、恥ずかしいのでやめました。

目標は、書斎の床に積み上げてある「山脈」と、寝室の壁沿いの「万里の長城」を崩すことなのですが。まったく、行き着きません。でも、やれば少しは進むということが証明されました。今年の夏休みの快挙です。「それほどのものかい」と笑われそうです。
悪あがきの記録「本棚への収納」「書斎の整理」「本を捨てる、思い出を捨てる

ゆっくりと本を読みたい

また、定番のぼやきです(苦笑)。
多くの方が、夏休みではないでしょうか。私も、夏休み中です。
休みの前には、あれをしよう、これもしたいと考えますよね。外出、片付けなどなど、ふだんできないことに取り組もうとします。

読書も同じで、読もうとして置いてある本、特に分厚い本を読みたくなります。そして、挑戦はするのですが、後はご想像の通り。原稿の締め切りは、待ってくれませんし。
その前に、図書館で借りてきた本を、返却しなければなりません。分厚いので買わずに、借りたのですが。なかなか終わりまでたどり着かず。

何事も、願望だけでは進まず、計画を立てないと進みません。そして着手しなければ。だらだらしているだけで、時間は過ぎます。孫の相手もしなければならないし。
暑いし。ビールはおいしいし。
ハハハハ。休みとは、そんなものですよ。いつものように開き直り。

積ん読の開き直り2

積ん読の開き直り」「踏みとどまる勇気」の続きです。
なぜ、読めないとわかっているのに、次々と本を買ってしまうのか。それは、好奇心が止まらないからです。他方で、学生時代はお金に余裕がなく、欲しくても買えませんでした。勤め人になって少々余裕ができ、その後、原稿料などが入るようになってさらに買えるようになりました。

もう一つは、本を捨てないからです。冷蔵庫に入れる生鮮食品なら、新しい品を買えば、古い品を捨てるしかありません。冷蔵庫を次々と買う方法もありますが、賞味期限切れの食品が溜まるばかりです。家を建てて書斎を造ったことも要因です。以前に住んでいた住宅は狭くて、本を置く場所がありませんでした。買った本は実家に送り、倉庫に保管してもらっていました。
なぜ捨てられないのか。本という物ではなく、読んだ本、買った本という思い出が捨てがたいのです。「本を捨てる、思い出を捨てる」「希少価値と過剰と、書物の変化2

別の見方も考えました。これらの本の山は、私の好奇心の軌跡です。その時々に興味を持ち、買ったものです。そう思ったら、そんなに悪いことではないですよね(開き直り)。
それはまた、私がそろえた「百科事典」とも言えます。百科事典では各項目は簡潔に書かれていますが、それらを詳しく書いた本をそろえたということです。調べたいと思ったら、本棚から出せばよいのです。もっとも、本の山では、どこにどの本があるかわからず、出てこないのですが。

そして何より、買ったときは、探していた本を買った、あるいは知らない本を見つけて買ったという「うれしさ」がありました。ほかの娯楽に比べると、安くて効果の高い満足感でした。本より、この満足感を買っていたのかもしれません。

でも、このままにしておくと、家族に苦労をかけることになります。いつかの時点で、腰を上げましょう。まだしばらく先の話かな。
もう一つの貯まった山である仕事関係の資料は、受けている聞き書き(オーラルヒストリー)のために、順次整理中です。こちらは、資料の棚卸しであり、私の人生の棚卸しでもあります。

ところで、私以上に本に埋もれている肝冷斎は、完全に開き直っています(文末に記述あり)。ここまで来れば、ある意味、すごいです。