「私の読んだ本」カテゴリーアーカイブ

「私の読んだ本」という表題ですが、いま書いているのは蔵書の整理です。本の内容については、手が及んでいません。

(蔵書の引っ越し)
2006年春に、実家から蔵書を引き取りました。その顛末記です。なお、進行中。

積ん読の開き直り2

積ん読の開き直り」「踏みとどまる勇気」の続きです。
なぜ、読めないとわかっているのに、次々と本を買ってしまうのか。それは、好奇心が止まらないからです。他方で、学生時代はお金に余裕がなく、欲しくても買えませんでした。勤め人になって少々余裕ができ、その後、原稿料などが入るようになってさらに買えるようになりました。

もう一つは、本を捨てないからです。冷蔵庫に入れる生鮮食品なら、新しい品を買えば、古い品を捨てるしかありません。冷蔵庫を次々と買う方法もありますが、賞味期限切れの食品が溜まるばかりです。家を建てて書斎を造ったことも要因です。以前に住んでいた住宅は狭くて、本を置く場所がありませんでした。買った本は実家に送り、倉庫に保管してもらっていました。
なぜ捨てられないのか。本という物ではなく、読んだ本、買った本という思い出が捨てがたいのです。「本を捨てる、思い出を捨てる」「希少価値と過剰と、書物の変化2

別の見方も考えました。これらの本の山は、私の好奇心の軌跡です。その時々に興味を持ち、買ったものです。そう思ったら、そんなに悪いことではないですよね(開き直り)。
それはまた、私がそろえた「百科事典」とも言えます。百科事典では各項目は簡潔に書かれていますが、それらを詳しく書いた本をそろえたということです。調べたいと思ったら、本棚から出せばよいのです。もっとも、本の山では、どこにどの本があるかわからず、出てこないのですが。

そして何より、買ったときは、探していた本を買った、あるいは知らない本を見つけて買ったという「うれしさ」がありました。ほかの娯楽に比べると、安くて効果の高い満足感でした。本より、この満足感を買っていたのかもしれません。

でも、このままにしておくと、家族に苦労をかけることになります。いつかの時点で、腰を上げましょう。まだしばらく先の話かな。
もう一つの貯まった山である仕事関係の資料は、受けている聞き書き(オーラルヒストリー)のために、順次整理中です。こちらは、資料の棚卸しであり、私の人生の棚卸しでもあります。

ところで、私以上に本に埋もれている肝冷斎は、完全に開き直っています(文末に記述あり)。ここまで来れば、ある意味、すごいです。

「あの人の本棚」

休みの日の昼、テレビを見ていたらNHKのEテレで「あの人の本棚」という番組をやっていました。鈴木敏夫さんの回で、マンション内の8つの部屋に、8800冊の本と1万本のDVDを持っておられるとのこと。きれいに整理されていて、尊敬しました。

放送は火曜の夜9時半からで、再放送が火曜の昼12時15分からです。私は、この時間帯にテレビを見ることはなく、すでに放送が終わっている分もあるので、を買いに行きました。8人の方の本棚(書斎)が、紹介されています。私の知らない分野の本がたくさんあります。
私の小さな書斎(+階段や寝室の壁沿い)でも、収拾がつかないのに。皆さん、すごいし、素晴らしいです。楽しませてもらいました。

踏みとどまる勇気

先日、新聞の書評欄で、興味を引く本が紹介されていました。
少々値が張るので、まずは図書館の蔵書を検索しました。しかし、まだ入っていません。アマゾンで注文しようかと思いましたが、考え直しました。インターネットで内容を調べたのですが、よくわかりません。いつもなら、そこで注文するのですが、最近は経験を積んだので、踏みとどまりました。
後日、紀伊國屋書店に行って、実物を見ました。残念ながら、表題とは少し内容が異なり、私が期待しているものではありませんでした。

踏みとどまって、正解でした。「勇気」というほどのものではないのですが(笑い)。あのまま、アマゾンで注文していたら、読まない本が貯まったのです。よかった。「積ん読の開き直り
肝冷斎にも、この勇気を教えて上げなければ。「肝冷斎の場合、下部に写真あり」

町田康さん「本の整理、破滅への一本道」

4月9日の朝日新聞文化欄に、町田康さんの「本の整理、破滅への一本道」が載っていました。私は、まだその心境に達しません。全てを紹介できないので、関心ある方は全文をお読みください。

・・・同業者に比べれば少ない方だとは思うが、職掌柄、家に本が仰山ある。
そしてその中には常な必要な本、たまに必要な本、まったく必要でない本がある。そしてそれらが分類整理されぬまま混在している。
それはあかん事や、と思う。なぜなら必要な本をすぐ取り出せないし、不必要な本は空間を圧迫して、住人(俺の事)のメンタルを削るからである。
なので本を分類整理しよう。不要な本は処分し、必要な本を、恰(あたか)も掌(たなごころ)を指すように容易に取り出せるようにしよう、とこう考えたのが、事の始まり、それ自体は穏当な考えであったと今も思うが、それから一瀉千里、気がつけば破滅への一本道を歩んでいる。
と言うと、「本の分類整理の何が破滅なのか」と疑問に思う方も多かろう。順に申しあげる。

・・・つまりどういう事かと言うと、本棚もそうなのだけれども、家中のありとあらゆるところに、様々の雑物が分類整理されぬままぎっしりつまって整理をしようにも手を付けられない状態に成り果てているという事である。
これでは出世は覚束ない。いや、出世とかそういう厚かましい問題ではなくして、物に圧迫され、精神があかん感じになり、その結果、仕事も投げやりになって経済的に追い詰められ、人間関係も破綻、荒れ果てた家で一人、猫にすら疎んぜられて、すべてを後悔しつつ滅びていく。
そんな人生、己(おら)やんだ。
心の底からそう思った私がやるべきことはただ一つ、そう、取り敢えず、明確な不要品をゴミとして捨て、家内で物が回転する余地を確保する事であった。
そこで私は、次のゴミの日に、もう買ったばかりで結局一度も着していない悪趣味で安っぽい衣服を廃棄した。
これはしかしなかなかに困難な仕事であった。なんとなればそれを捨てるということは、そのそれを買った自分の過去の過ちを認め、それに費やした費用を心の家計簿に損失として計上することに他ならないからである。

・・・しかしそうこうするうち家の中に堆積している物品の九割はそうした失敗物であることが判明するに至り、自分がアホではない、という気持ちが滅亡して、半笑いで物を捨てられるようになった。
それからはもう勢いが付いてしまい、それどころか物を捨てて空間が出来る事に異様な快楽を得るようになり、様々の、今現在、使用している物にさえ、難癖をつけて捨てるようになり、肝心の本も今では人から贈られたものを除いて殆ど処分、スペースだらけ、というか、ただのスペースと化した家の中を捨てる物を探してケタケタ笑いながら歩き回っている・・・

積ん読の開き直り

長く気になっているけど放置したままの問題に、本の山があります。このホームページでも、何度か書いています。しょっちゅう反省しつつ、全く反省していません。

一度に100冊増えると問題が顕在化するのでしょうが、1冊とか2冊とか少しずつ時間をかけて増えていくので、気になりません。急性の病気と、慢性病の違いでしょう。気がつくと、書斎の床、階段、寝室に積み上がっています。最近は、横に広げると何かとぶつかるので、山が少しずつ高くなっていきます。
インターネットで見ると、積ん読に関する書物もいくつかあるようです。でも、それを買うと、また山が高くなります(笑い)。

原因は簡単です。捨てられないからです。なぜ捨てられないか。それは、「読んだ本」の多くは思い出であり、本を捨てることは思い出を捨てることなのです。そして、それ以上に多い「読んでない本」は、いつかは読むかもしれない(たぶん読むことはないでしょうが)と思っているからです。
根本原因は、読めないほど本を買うことです。

書斎の整理」「蔵書の苦しみ」「蔵書の苦しみ、2」「本を捨てる、思い出を捨てる」「希少価値と過剰と、書物の変化2」「本を増やさない2