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生き様-生き方

人生の意味は誰が決めるのか2

人生の意味は誰が決めるのか」の続きです。
ここでの「意味」は、内容(の説明)とともに、価値(の評価)が含まれているようです。内容なら「××して生きた」と記述すればすむ話ですが、価値はそれがあったかどうかを評価しなければなりません。
その評価は、誰が何を基準にするのでしょうか。本人でなく社会が評価するとしたら、その人がそれぞれの立場でどれだけ社会に貢献したかを評価するのでしょう。では、本人は何を基準とするのか。

多くの人は、日々の生活で人生の意味を深く考えることはないと思います。私も自分で考えたことはなく、聞かれたらどのように答えるか悩みます。
かつて大学で教えていたときに、学生から「自分は何者かは、どうしたらわかるか」という問がでました。いわゆる「自分探し」です。
私は「今20歳前後のあなたたちが自分探しをしても、答えは見つからない。まだあなたたちは、細いラッキョウのようなもので、これから皮を増やしてタマネギになるのだ」と説明しました。「「わたし」とは何か」「タマネギの皮を増やす

人生とは「自己実現」と意味づける場合もありますが、最初から「自己」という目標があるのではなく、生きていく過程で見つける「自己発見」と見る方がわかりやすいでしょう。

人生の意味は誰が決めるのか

1月18日の日経新聞夕刊1面コラム「あすへの話題」は、森岡正博さんの「人生の意味は誰が決める」でした。

・・・自分の人生に意味があるかどうかは、その人生を生きている本人が決めればいいことだろうか。それとも、誰の目から見ても意味のない人生というものがあるのだろうか。これは悩ましい問題である。
日本で問いかけると、多くの人たちは次のように答える。「自分の人生に意味があるかどうかを決めるのはその本人なのであって、他人からとやかく言われる筋合いのものではないのだ」と。
だが、現代の哲学者のあいだでは、そのように考えない人のほうが多いと言えるだろう・・・
そして、次のような問題提起がなされます。
「一日中、マリファナを吸ったり、クロスワードパズルを延々とし続けることは、その人の人生に意味を与えない。ヒットラーの人生には大きな意味があったと認めるのか」
詳しくは原文を読んでいただくとして、難しい問題です。

どうやら、ここで問われている「意味」には、二つのものがあるようです。一つは、本人が考える意味。もう一つは、社会が認める意味です。
しかし、人は一人で生きているのではなく、社会の中で他者との関わりの中で生きています。意味もまた、社会との関わりの中で見いだせるものであって、個人で見いだせるものではないでしょう。参考「公共を創る」第54回。宇野重規著『〈私〉時代のデモクラシー』(2010年、岩波新書)

かつては、人生の意味は神様が与えてくれました。また、職業選択の自由がなく、食べるのに精一杯の時代では、人生の意味に悩んでいる時間はありませんでした。自分の人生を自ら選ぶことができるようになって、このような悩みが生まれました。

私は、人生の意味は、毎日を精一杯生きること、そして人生を続けていくことで、できてくる、見えてくるものだと考えています。この項続く。

勤勉で一生懸命が人に好かれ、人に恵まれる

日経新聞夕刊「人間発見」、1月22日の週は東野智弥・日本バスケットボール協会技術委員長の「世界の壁破る 日本バスケ躍進の仕掛け人」です。
バスケットボールのコーチの技術を習得するために、アメリカに渡ります。大学のバスケットボール部に頼み込み、使用人のような立場から始めます。いわゆるぞうきんがけをして、コーチになることができました。

24日の記事に、次のような話が載っています。
「かなり無謀な米国行きでしたが、ギリギリのところで幸運な出会いがありました。力になってくれる人に恵まれた一因は僕が好かれたからではないでしょうか。好かれた理由は、僕が勤勉で一生懸命だったからだと思っています」

答えの出ない事態に耐える力

1月3日の朝日新聞オピニオン欄、帚木蓬生さんの「答えを急がない力」から。

―帚木さんは「ネガティブ・ケイパビリティ」という著書で、負の能力の重要性を指摘していますが、どういう意味ですか。
「『答えの出ない事態に耐える力』のことです。世の中は明確な答えのある問題ばかりではありません。むしろ人間社会は、解決できない問題の方が何倍も多いのではないですか。先が見えず、どうしようもない不安に耐えながら、熟慮する。答えが出なくても問題に挑み続ける力こそ、ネガティブ・ケイパビリティです」

「これに対し、正の能力、ポジティブ・ケイパビリティは、答えをみつける問題解決能力をさします。学校教育もそうですよね。テレビでクイズ番組を見ても、記憶した答えを素早くはき出すことを競います。でも、多角的、長期的な視野でものを考えることも大事です。早く答えを出すと見落とすものがあるからです」

―どういうことですか。
「今ここに、理解できないものが出てきたとします。ヒトの脳はわからない状態に耐えられず、すぐにそれが何かを決めつけて、理解したつもりになろうとします。ノウハウ、マニュアル、ハウツーものが歓迎されるのは、悩まなくてもすむからです。だけど、そこには落とし穴がある。深い問題が浮かび上がらず、浅薄な理解にとどまってしまうのです」

近藤和彦先生「『歴史とは何か』の人びと」完結

近藤和彦先生の、連載「『歴史とは何か』の人びと」(岩波書店の『図書』)が、12月号で完結しました。先生のブログ
15回にわたって、カーをめぐる人物を取り上げ、カーの人生に迫るとともに、当時のイギリス歴史学界を紹介してくださいました。先に紹介したように、とても面白かったです。

研究の成果は客観的なものですが、それを生み出す研究者の人生は生身であり、さまざまな付き合い、悩みなど単線的ではありません。もちろん、「このような境遇で、このような人生を送れば、このような成果が出る」というものでもありません。しかし、境遇と付き合いと本人の苦悩が、成果を生むこと、成果に色づけすることも間違いないでしょう。
で、この項目は、「歴史」ではなく、「生き方」に分類しておきます。