カテゴリー別アーカイブ: 体験談

生き様-体験談

体験談

本業のいくつか(歴史遺産)
①「現場経験という財産」2001年度総務省職員採用パンフレット(このページ)

総務省の2001年新規職員採用パンフレットに、先輩談として載せたものです。(すっかり忘れていました。「発見」したので載せました。)
以下、その他の年のも、載せておきます。
②「社会が求める官僚と官僚が目指す社会と」2004年度職員採用パンフレット
③「この国を変える」2005年度職員採用パンフレット
④「本業の様子」2004年
現場経験という財産
自治財政局交付税課長
岡本全勝(昭和53年度採用)


老人ホームにて慰問演奏中の筆者(中央)

(厳しい緊張と楽しい緊張)
 下の写真は、平成5年5月、カンボジアに向かう朝、成田空港での緊張した表情の村田自治大臣とお供をしている岡本大臣秘書官である。
 当時、国連PKOの「カンボジア暫定機構」の下、総選挙実施のために、日本から自治省職員を始めとする選挙監視要員や警察官などが派遣されていた。
 不幸なことに警察官が死亡するという事件が発生し、宮沢総理のご指示で、自治大臣が急遽カンボジアに派遣されることになった。総理官邸からの電話が出張先の大臣車にかかってきたのが前日の夕刻、派遣公表が深夜0時、そして成田発の飛行機が翌朝10時という慌ただしさである。
 緊張した表情は、寝ていないからだけではないことが、わかってもらえるであろう。
 一方、上の写真は、富山県総務部長当時、仲間と老人ホームに慰問の演奏に行った時のものである。元気良く、しかし調子外れの手拍子を打ってくれる痴呆性老人のパワーにとまどいながら、フルートを始めたばかりの私は楽譜を間違えないように、これまた別の緊張をしている。


村田敬次郎自治大臣と共にカンボジアに向かう筆者
(左から2人目)
(現場の経験)
 23年前、私も「少しでも日本の国を良くすることに貢献できれば」と思って、公務員を選んだ。大学ではそれなりに勉強もし、本も読んだと自負していた。しかしその後の公務員の経験は、新鮮な驚きの連続であった。
 PKOのような国際政治も、そしていろんな国内の政治・経済も、天の上から神様が動かしているわけではない。いわんや、大学の研究室でシナリオが書かれているわけではない。その時そのとき、その場そのばで、生身の人間が議論をし、決断をし、行動する。その積み重ねが社会を作り、歴史を作っている。
 私たちの仕事は、「自然科学」ではない。「人間と人間の関係」の分野である。それは、机の上だけでは進まない。現場がどうなっているか知らずに、霞ケ関で議論していても「机上の空論」になる。かつての自治省に採用された私は、先輩同僚と同じように、若いときから、他の職業・他の省庁では得難い幅の広い経験をさせてもらった。徳島県財政課、鹿児島県財政課長、富山県総務部長と、それぞれの場面で、県民、議会、マスコミの人たちに、教えられ、ぶつかり合い、説得する中で私は鍛えられた。
 老人ホームでのフルートも、趣味であるとともに、高齢社会の現場視察であり、ボランティアの実践だと言っていた。もっとも、下手なフルートを聞かされる老人にとっては、迷惑な話だったかもしれない。

(広い視野と判断力)
 議会答弁で、記者会見で、予算査定で、また老人との受け答えでと、その時々に私の判断が試される。その際には、幅広い経験が広い視野を与えてくれ、よりよい判断を生むであろう。もっとも、経験だけで判断力が養われるわけではない。理想を掲げ、未来を予測しつつ、現場で判断を下す。その緊張感。私には、これまでに経験した多くの緊張、そこには厳しい緊張も楽しい緊張もあったが、それらの経験が大きな財産である。

 

略歴等

 

 

石舞台古墳
(この隣に小学校がありました)
(画像提供・明日香村教育委員会

 

略歴
昭和30年1月1日 奈良県高市郡高市村生まれ(現・明日香村)
昭和48年 奈良女子大学文学部附属高校卒
昭和53年 東京大学法学部卒、自治省採用
徳島県財政課、自治省財政課、鹿児島県財政課長、自治大学校教授、自治省交付税課課長補佐などを経て、
平成4年 自治大臣(村田敬次郎・自民党、佐藤観樹・社会党)秘書官
平成6年 富山県総務部長
平成10年 内閣・省庁改革本部参事官
平成13年 総務省自治財政局交付税課長
平成16年 総務省大臣官房総務課長
平成18年 内閣府大臣官房審議官(経済社会システム担当)、内閣官房内閣審議官(再チャレンジ室長)併任
平成20年 総務省大臣官房審議官(財政制度、財務担当)
平成20年 内閣総理大臣秘書官(麻生太郎内閣総理大臣)
平成21年 総務省消防庁消防大学校長
平成22年 総務省自治大学校長
平成23年 内閣府東日本大震災被災者生活支援本部事務局次長
以後9年半にわたり復興に従事
平成23年 内閣府東日本大震災復興対策本部事務局次長
平成24年 復興庁統括官
平成27年 復興庁事務次官
平成28年 内閣官房参与福島復興再生総局事務局長
令和2年 内閣官房参与、福島復興再生総局事務局長退任。復興庁顧問を経て退任
令和3年 市町村職員中央研修所学長

平成14・15年度 東京大学教授(大学院総合文化研究科)併任
平成17・18年度 一橋大学公共政策大学院で「現代行財政論」を講義
平成19・20年度 慶應義塾大学法学部講師兼務
平成22年度  日本大学法学部大学院講師、慶應義塾大学法学部講師兼務
平成29・30年度 慶應義塾大学法学部講師

(呼び名)
名前は、「まさかつ」が本名です。でも、世間では「ぜんしょう」で通っています。高校以来ですから、ほとんどの人は、それが本名だと思っておられます。
「官邸の怪人」「霞が関の治外法権」というあだ名の由来については、「官邸の怪人、「民」と出会った衝撃 復興の現場で」(2020年10月11日朝日新聞ウエッブサイト)をご覧ください。被災者生活支援本部では、何でも引き受けるので「ブラックホール」とか「スーパーゴミ箱」とも呼ばれました。長く復興に従事したので「ミスター復興」とも、呼んでもらっています。
体験談」のページへ。笛吹中年(トップページの絵)について。

今月も今週も、あっという間に過ぎました

熱心な読者から、意見がありました。「7月になったら、いつものように『私の断りもなく、今年も半分が過ぎました』と書いてください」と。すみません、書こうと思ったのですが、他の記事が忙しくて。今週も、あっという間に過ぎました。昨日、職員の反応「朝が長くて困ります」を書いたところですが。
37年間の公務員生活で、「今日は、時間が余って困る」という事態は、思い出せません。仕事に追われているか、締め切りが迫った原稿を抱えているか、書きたいと思っている論文の企画書を書いているか、不義理をしている方との飲み会(異業種交流会)の設営に悩んでいるとか・・。
しかし、このホームページに何度も書いているように、日々の忙しさと、長期的な成果とは比例しません。毎日忙しい割には、成果が上がっていない。それはよくあることです。組織管理者になったら、1年や2年、あるいは5年で、その組織がどのような成果を出すか、を考えることが仕事です。
振り返ると、この3か月間、大臣や職員と一緒に「復興後期5ヶ年の事業計画」策定に力を入れてきました。それが、無事終わりました。そこで、「これからは、次官らしくゆっくりするぞ」と叫んだのですが。昼間は、次官室に座っているだけで、部下職員が断続的に攻撃に来ます。それを阻止せずに、どんどん入れる「悪い秘書」もいます(笑い)。部下と秘書は、「岡本次官が、好きで仕事をしているのでしょ」と反論するでしょう。その通りですけどね。
早退したいのですが、毎晩、異業種交流会があり。しかも、たいがい6時半開始なのです。今日も5時過ぎに、長島副大臣に職場を見回ってもらい、職員に「早く帰るように」と声をかけてもらいました。それを見届けて、5時15分に会社を出て、銀座まで2キロメートルを、1時間かけて歩いて行きました。銀座の、中国からと思われる旅行者の買い物風景は、すごいです。大型バスが止まっていて、その周辺は両手に商品を持った人や、商店を見て回る観光客で一杯です。40年前のパリやロンドンは、日本人観光客で、同じような風景だったのでしょうね。

奈良女子大附属高校

日本経済新聞「私の履歴書」今月は、松本紘・元京都大学学長、理化学研究所理事長です。6日は、高校入学でした。先生は、郡山中学から奈良女子大附属高校に進学します。そう、私の母校です。
・・・1学年3クラスの150人で男女は半々。うち100人は付属中からの内部進学で、残り50人が他中学からの受験組だった。内部進学組は格好良く洗練されスマートに見えた。入学すると、他中学から来た生徒は外様、内部進学者は譜代と呼ぶような見えない壁があった・・
私が入学した昭和45年は、1クラス40人、1学年120人でした。男女半々は同じです。外部からの編入は、20人くらいだったのでしょうか。その後、中高一貫校になりました。
郡山という町の学校から進学された松本先生と違い、から進学した私は、内部進学組だけでなく皆が、洗練された都会の子に見えました(郡山は奈良市の南隣、明日香村から奈良の学校までは毎日が遠足でした)。皆の髪の毛は長いのに、私は丸坊主だし。しかし、鈍感だったので、外様と譜代の違いは、気になりませんでした。私以外全員が都会の子で、私+何人かが田舎の子という区分に見えたからでしょう。2年生になったら、生徒会長や文化祭実行委員長もさせてもらいました。これは、外部編入組では初めてだったそうですが。松本先生も、文化祭の学年演劇の演出を担当して、その壁を越えられたようです。
私の方は、東大に入ったら、これまた東京の子は洗練されて、何でも知っていることに驚きました。高校でも大学でも、親切に教えてくれる友人がいて、「追いつく」ことができました。彼らのおかげで、今の私があります。今も、飲み会を設営してくれ、いろいろと心配してくれます。感謝しています。

茶の湯、藪内。2

今日は、NHK教育TV趣味DO楽、「茶の湯 藪内家“織部も親しんだ茶の魅力”」の第3回目。同業者意見交換会を早々と切り上げて、21時25分にはテレビの前に座りました。先週放送(今朝再放送)の第2回目を見ても、20年前に習ったことは、ほぼ忘れていますね。反省。
でも、いつか、再度挑戦する機会があるでしょう。フルートとともに。決意表明。その前に、原稿を書かないと。すみません、編集長と待っていただいている読者の方に。
ところで、このような趣味の世界を見る度に、あるいは昔の文化人や官吏の書を見る度に、私は(私を含めて現代の官吏は)、「忙しい、忙しい」と言って、何をしているのか疑問になります。そして、忙しい結果として、何を残しているのでしょうか。
放送は、次回8月25日で終わりです。関心ある方は、ぜひご覧ください。