「体験談」カテゴリーアーカイブ

生き様-体験談

近況報告、執務室の片付け

復興庁の執務室の片付けを進めています。書類とパソコンの中と私物です。

執務関係の書類で、私だけが持っているものは、基本的にはありません。職員と共有するようにしていたからです。私が頭の整理につくった文書のようなものもありますが、その都度、関係者に配っていました。
参考のために取ってあった資料などが、問題です。問い合わせがあったり、自分でも「あの時の資料は」と取り出すために、保存してあったものがあります。公文書とは言えないものですが、思い出す際に必要なのです。復興関係の新聞切り抜きなどもあります。
整理を始めると、「こんな資料もあったな」というのが出てきます。忘れていて何の支障もなかったのですから、なくても良いものです。最低限のものに絞って、残すことにしました。

次に、パソコンの中です。電子メールのやりとりは、最近のものを残して、削除しました。たいがいの人には「このメールアドレスはしばらくしたら使えなくなるので、今後必要なときは、私の自宅パソコンに送ってください」と伝えてあるので、これも大丈夫です。
資料が大変です。約10年間使ったパソコンなので、執務参考資料、講演資料などが大量にたまっています。それぞれに分類し年度ごとにファイルに入れてあるので、その中を見て削除しました。これも、思い出を捨てているようなものです。執務外の講演資料や原稿は自宅のパソコンに保管してあるので、これは作業の必要なし。

私物にはいろんなものがあります。大震災関係で買った本、いただいた本などは、職場に寄付しました。
壁に掛けていた絵、机や棚に飾ってあった小物類は、持ち帰ります。肝冷斎が描いてくれた絵など。その時々に、さまざまないわれで集まった物がたまっています。他人が見たら、ガラクタと思えるようなものですが、なかなか捨てがたいのですよね。

仕事そのものは(被災者生活支援チーム時代を含めて)、復興庁のホームページに残すようにしてあります。後世に引き継ぐことと、評価を受けるためです。私自身も取材に応じたり、本を書いたりして(さらにこのホームページに書いて)、広く理解してもらい、残るように心がけました。その点では、基本的な情報は残しました。
その周辺の私物を片付けることは、10年分の、いくつかはもっと昔からの思い出を整理する作業でした。

谷公一・衆議院議員のお褒めの言葉

谷公一・衆議院議員のブログ(10月22日)で、紹介してもらいました。谷先生とは、20代の頃、先生が兵庫県庁から自治省に出向されていたときに、一緒に仕事をしました。そして、自民党大震災復興加速化本部事務局長として、ご指導をいただきました。

・・・東日本大震災発災以来、彼ほど霞ヶ関で長く復旧復興に携わった人はいないでしょう。幅広い識見と豊かな人脈、細やかな気配り、そして何より関西人らしく、あくせくしない性格の明るさ、脤やかさ、それでいて憎めない図々しさ。辞めるに惜しい人材です。「全勝のあとには全勝は出(い)でず」でしょう・・・
・・・官僚は2年位(時に1年)で異動するのが当たり前の中で、ほぼ10年、東北の復興に、本当に頑張っていただきました。特に役人が手を付けるのが難しい課題にも逃げずに取り組んでいただきました・・・

官邸の怪人、「民」と出会った衝撃 復興の現場で。その3

朝日新聞「官邸の怪人、「民」と出会った衝撃 復興の現場で」」の続きです。朝日新聞ニュースレター「官邸の怪人、「民」と出会った衝撃 復興の現場で 」(10月11日配信。秋山訓子編集委員執筆)が、朝日新聞ウエッブサイト・アナザーノートに掲載されました。内容は同じもののようです。会員制ですが、記事下にあるように無料登録するか、文末「関連ニュース」の右下のリンクからアナザーノートに無料登録すると、全文が読めます。

この記事を読んだたくさんの人から、ねぎらいや励ましのお便りをいただきました。ありがとうございます。いくつか紹介します。少し改変してあります。
・官僚も、すばらしい仕事をしてることがわかりました。
・官僚の悪口ばかりが目につく時代に、この記事を読み、うれしくなりました。
・今後ますます「怪人」ぶりを発揮して、世の為に腕を振るってください。
・記事の最後の文章、「「政」と向き合い、時に翻弄された「官」の人生は、終盤に「民」と出会ってさらに豊かに深くなった」がよいですね。
・NPOが、被災者支援や復興をはじめ行政と協働するのは当たり前になりましたが、このようになったのは東日本大震災からだったことを思い出しました。

中には、次のようなものも。
・秋山記者の筆力で、臨場感がありました。引き込まれました。
・主語が「岡本氏」になっていますが、「ぜんしょうさん」の間違いでは。
・岡本さんの発言が、関西弁ではありません。

官邸の怪人、「民」と出会った衝撃 復興の現場で。その2

朝日新聞「官邸の怪人、「民」と出会った衝撃 復興の現場で」」の続きです。記事にも登場する藤沢烈さんが、ブログに書いてくれました。10年を振り返ってです。「岡本全勝さんという稀有な官僚の退任」(10月13日掲載)。藤沢さんは、復興をはじめ社会の課題に取り組むNPO「RCF」を運営しています。

・・・岡本全勝さんとはじめて「遭遇」したのは、2011年春。東日本大震災に関わる大臣が一同に会する会合を、全勝さんが完全に仕切っている現場においてでした。私は当時、内閣官房震災ボランティア連携室の一スタッフとして会合に陪席していたのですが、「こうした方が復興施策をリードしているのか」と衝撃を受けたことを今でもはっきりと覚えています。
その後、様々な偶然でご縁を頂き、官と民のあり方について指導頂いています。私やRCFは行政と民間の連携をミッションとしていますが、この道を進むと決めたのは、全勝さんとの出会いがきっかけでした・・・

・・・RCFは、社会事業コーディネーターという仕事をしています。RCFによるコーディネイトは一般と異なります。根底にある社会課題に向き合い、関係者を調整というよりもむしろリードしながら、仕事を進めます。こうした視点を持てたのも、全勝さんの仕事を見たからでした。
「復興」という言葉に答えはありません。基本は被災者に寄り添うことですが、寄り添いすぎても、その地域の復興にとってプラスにならないこともあります。被災自治体と県と国。民間と行政。復興にむけて連携が必須ですが、利害が一致しないことも多々あります。
そうした中で全勝さんは常に仕事に哲学をもっていて、その世界観にあらゆる関係者を巻き込みながら、影響をあたえながら、新しい社会を創り続けていました。そうでなければ復興は進まなかったはずです。社会課題解決においても、そうしたビジョンとリーダーシップがあるコーディネーターが必要だと、全勝さんを通じて気づくことができました・・・

過分のお褒めの言葉、ありがとうございます。NPOの活躍を社会に認知してもらい、行政の関係を変えることができたと思います。それに貢献できたことは、私の誇りです。
NPOは、いまや災害時には、なくてはならない存在になりました。阪神淡路大震災がボランティア元年と呼ばれましたが、東日本大震災はNPOが認知される場でした。次は、災害以外での活躍を、社会で認知してもらい、さらに協働を進めることです。

朝日新聞「官邸の怪人、「民」と出会った衝撃 復興の現場で」

朝日新聞ニュースレター「アナザーノート」で、取り上げられました。「官邸の怪人、「民」と出会った衝撃 復興の現場で 」(10月11日配信。秋山訓子編集委員執筆)。
・・・発足したての菅政権についての多くのニュースが新聞を埋めていた9月19日、紙面の片隅にひっそりと小さな記事が載った。
福島復興再生総局事務局長の岡本全勝氏(65)が退任――。2011年以来9年半、東日本大震災の復興に取り組んできた末のことだった・・・ 

私と大震災復興の始まり、復興でのNPOとの出会いと協働などが書かれています。帽子の話は、本論と関係ないと思うのですが(苦笑)。記事の最後は、次のように締めくくられています。

・・・2015年、岡本氏は復興庁の次官となる。退任後は福島復興再生総局の事務局長に就任した。原発事故からの復興という前例のない難しい仕事で、政府と与党、地元の調整役を担った。
「復興の仕事に一発回答はない。とにかく少しずつ、今回はここまで、というのを水面下で瀬踏みしながら繰り返してきた」
週の半分は2泊3日で福島に通った。何度も何度も足を運び、根気強くていねいに交渉や説明を繰り返した。「震災発生直後からずっと復興に関わってきた岡本がやってここまでなら、しゃあない、と思われるのが理想だった」

そうやって10年近くがたった。
「退任が報じられると、多くの人から、『今やめるなんて』とおしかりを受けた。全部が全部、皆さんの期待に応えられなかったけれども、長年公務員として働いてきた自分だからこそできたことがあったのではないかと思います」
「政」と向き合い、時に翻弄された「官」の人生は、終盤に「民」と出会ってさらに豊かに深くなった。
岡本さん、おつかれさまでした。・・・

ありがとうございます。これだけ仕事ができたのは、関係者の理解のおかげです。1週間後に、朝日新聞のウエッブサイトにも載るそうです。