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生き様-体験談

通学と通勤の思い出

電車通勤」の続きにもなります。1時間半あまりの通勤は、私の毎日の通勤としては一番長い時間なのですが、高校時代はもっとかかりました。

高校は、奈良市にある奈良女子大学附属高校に通いました。
家のある明日香村大字岡から、バスで近鉄橿原神宮前駅まで行きます。家からバス停までは100メートルあまりなので、近くです。バスの本数は通学通勤時間帯は、1時間に2本以上ありました。飛鳥の宮跡や古墳の横を通って、橿原神宮前駅まで15分です。

近鉄橿原線で、大和西大寺駅まで30分(急行)から45分くらい(各停)かかります。1時間にそれぞれ2本ずつ、朝はもっと多くの本数があったでしょうか。大和盆地を北上し、郡山城や薬師寺の横を通ります。西大寺駅で近鉄奈良線に乗り換えて、平城宮跡を横切り、近鉄奈良駅まで約5分です。
奈良駅で、市内循環バスに乗り換えます。町の南、紀寺にある学校まで、興福寺や東大寺の前を通って約10分ほど。(帰りはバスに乗らず、奈良公園や奈良町の中を歩いて帰りました。ぜいたくな散歩です。)

家から学校まで、バス、電車、電車、バスを乗り継ぎます。待ち時間を入れると、最短でも1時間半かかりました。学生の中でも、最も遠いところから通っていた一人でしょう。
白状すると、朝起きるのが苦手で、しばしば父が車で駅まで、時には学校まで送ってくれました。朝6時のバスは、当時はつらかったです。早朝に目が覚める今から思うと、別人です。学校からの帰りについては、次回に

お酒も訓練が必要

NHKウエッブニュースに「私、こんなに弱かったっけ? 久しぶりの居酒屋で」(11月17日掲載)が載っていました。

・・・緊急事態宣言がすべて解除されて1か月余り。久しぶりに会った友人や仕事帰りに職場の同僚と一緒に、居酒屋で楽しくお酒を飲んでいたら・・・。
「あれ。私、こんなにお酒に弱かったっけ」酔った中で感じたことありませんか?
その感覚、実は間違いではないかもしれません・・・

・・・都内でクリニックを営む高山哲朗医師に聞いてみました。
「久しぶりに飲むとお酒に酔いやすくなるのは一部の方について言えば本当です。もともと飲めない人とお酒に強い人がいます。日本人は結構な割合で飲んでるうちに、だんだん強くなるとか、お酒に慣れる方が多いようなことが遺伝的にわかってきています。そういう方がしばらくお酒から離れると弱くなってしまいます」
高山医師は日本人の特性に加え、アルコールの分解にも関わる酵素の働きが鍵を握っているといいます。
「お酒を飲んでいる時は、酵素がアルコールを分解する活動をいっぱいしてくれますが、お酒を飲まなくなると活動しなくなります。久々に飲む場合は酵素が十分に働かず、結果としてお酒に弱くなってしまう人が出てきてしまいます」・・・

実は、半年近く夜の意見交換会を中止していた私も、同じ「症状」なのです。「訓練」を再開しているのですが、なかなか元には戻りません。
キョーコさん曰く「飲まなければ、よいのよ」。
はい、ごもっとも。

仕事のリズム

新しい仕事に転職して、約1か月が経ちました。早いものです。
挨拶回りや業務説明を一通り終え、今度は私の疑問を職員に教えてもらっています。若いときに何度か講師として来ていたのですが、全体像を見るのは今回が初めてです。
市町村職員中央研修所の本業である「研修」をどのようにするか、そのための「組織運営」をどうするか。その全体を見るのが、私の任務です。それぞれの業務は担当者がやってくれています。優秀な職員たちなので、心配ありません。
私の役割は、これまでの延長がよいのか、どこをどのように変えるとよりよくなるのかを検討すること。また、職員たちが考えている改善案を聞くことです。

私の生活のリズムも、ほぼできあがりました。家を出る時刻、乗る電車、職場での過ごし方などの「形」ができました。それができるまでの手探りの期間は、何かと気を遣います。慣れることは、ありがたいことです。みなさんも、職場を異動したときに感じるでしょう。
運んできた書物や書類を棚に並べ、使い慣れた文房具類を机に入れ、持ってきた絵を飾りました。東大寺戒壇堂の四天王「広目天」(飛鳥園の写真)も。

想定外は、夜の意見交換会がたくさん入ることです。コロナ対策で行動制限があった時期に中止や延期していた会合が、次々と入ってきます。これは、転職とは関係ないのですが。
早く帰りたいので、17時とか17時半に始めてもらって、早く終わるようにしています。お店も、早い時間から始めてくれるようになりました。まだ勤務時間中の参加者には「時間休を取って出てくるように」とか「必要なら、あんたの上司に「早く出してやってください」と電話するよ」と言いますが、後者は「必要なときは使いますが、大丈夫です」といやがられます(苦笑)。

組織を作り動かす2

組織を作り動かす」の続きです。

私は、過去に新しい組織を作って、混成部隊で仕事をする経験がありました。省庁改革本部再チャレンジ室です。また、ほかの組織の失敗事例を見てきました。
取り組むべき課題を整理し、職員を集めることも重要なのですが、その組織を動かすことはもっと難しいです。

各分野に精通した職員を、それぞれの省庁から呼び集めます。方向性さえ統一すれば、それぞれの分野については彼らに任せればよいのです。ところが、彼らの間での、仕事の進め方を共通にすることが難しいのです。
職員たちに何をしなければならないかを理解させ、どのように仕事を進めるかを考えてもらい、上司に判断を仰ぐものと自分で判断するものとの線引きを作り、そして上司の指示を待たずに課題に取り組むようにしなければなりません。
ところが、各省ではそれが文書決裁規定に定められ、慣習ができています。そして各省において、この慣習は異なるのです。「これは誰に相談するか」「どのように起案して決裁を回すか」などです。それを一からつくる必要があるのです。
知らない職員同士が、異なった社風で仕事をすると、放っておくと、歯車がかみ合いません。これを軌道に乗せる、みんなで助け合い、同じ目標に進む、そして誰に相談すればよいかをわかるようにすることが、重要なのです。

大震災で支援本部の運営が比較的うまく行ったのには、それ以外の条件もあります。
まず、被災地で困っている大勢の被災者がいて対応を急ぐ必要があったこと、少々の間違いや混乱があっても対策を急いだことです。前例はなく、根回しをしている時間がありません。
また対応を急ぐために、決裁も簡略化しました。職員から参事官に相談し、直ちに統括官に上げて判断する。難しいものは毎日の大臣たちを入れた幹部会議で決定するという、まことに簡素な意思決定過程でした。
記録には残しましたが、このような知恵と経験は、どのように後輩たちに引き継ぐのがよいのでしょうか。

組織を作り動かす

先日、ある研究者から取材を受けました。東日本大震災被災者支援本部と復興庁での仕事、特に組織を作って運営することについてです。改めて、自分のした仕事を振り返ることができました。

被災者支援本部でしなければならなかったことは、次の通り。
取り組むべき課題を整理する、それに応じて各省から人を集める、課題の変化に応じて班を再編し人を増やす。意思決定過程を作る。幹部が判断することと、部下職員に任せる案件の線引きを作る。そして、状況の変化に応じて、それぞれが自己変革することを組み込む。後には、民間からも職員派遣を求め、期間職員を採用をする。
そこには、取り組むべき課題の整理、それに応じた班編制と人集め、さらに意思決定過程を作ることが含まれています。1番目は企画課の仕事、2番目は人事課の仕事、3番目は文書課の仕事と慣習の部分と言ったらよいでしょうか。

この点については、『東日本大震災 復興が日本を変える』にも書きましたが、山下哲夫執筆「政府の被災者生活支援チームの活動経過と組織運営の経験」(季刊『行政管理研究』2011年12月号)に詳しく記録と分析がされています。山下君(現・総務省総務審議官)は、後に行政管理局長、内閣人事局人事政策統括官を務めた、組織の専門家です

内閣官房などで、これまでもたくさんの本部とその事務局が作られ、そのたびに各省から職員が集められ仕事をしました。これまでにない課題に取り組む、新しい組織を作る、混成部隊を運営することは、けっこう難しいのです。
さらに、大震災では現地の状況がどんどん変化し、それに応じて仕事も組織も変える必要がありました。毎週、職員を増やし、席替えをしていました。

新しい組織を作ることも難しいのですが、その組織を動かすことはもっと困難であり重要です。あらためて、そのことを思い出しました。
私は防災の専門家でなく、組織を作って動かす職人だったのです。自治体現場を知り、各省を知り、官邸を知り、与野党幹部を知っていた。それが私がこの仕事を遂行できた理由です。私が最初に呼び集めた、山下哲夫君も福井仁史君も、霞が関での組織運営のできる人材でした。

私は、被災者生活支援本部と復興庁では、この点についてうまくできたと自負しています。一つには参画してくれた職員の多くが不満を持たず取り組んでくれたこと、もう一つは一定の成果を出せたことです。もちろん、全員が満足できたわけではなく、対応が満点だったわけではありません。この項続く