「仕事の仕方」カテゴリーアーカイブ

生き様-仕事の仕方

業績V字回復、社員に謝る

日経新聞私の履歴書、磯崎功典・キリンホールディングス会長の続き、第22回「ビバレッジ」から。

・・・ブラジルキリンの売却を進めながら、次の低収益事業とも向き合った。その1つがキリンビバレッジだった。
てこ入れのため、清涼飲料の巨人である米コカ・コーラグループと資本業務提携をする方針を2016年に打ち出した。・・・互いに株式を数%ずつ持ち合う案を軸に交渉が進んだが、ビバレッジの業績改善が前提である。もし再建が行き詰まれば、コカ・コーラ社に売却する「プランB」も頭の中にあった。

キリンビバレッジは1963年に設立された歴史ある会社だ。当初は「キリンレモン」、その後も「午後の紅茶」をはじめ愛されるブランドを多数世に送り出してきた。
だが上位競合企業と規模の差が大きく、長年の低収益体質も課題であった。私が社長についた15年の事業利益率は1%台という低水準にあえいでいた。グループ内で安住するような甘い意識を捨て、もっと厳しく収益性を追求しなければ未来はない。
社長には新たな人材を充てた。小岩井乳業の社長として実績を上げた堀口英樹氏が就任。広がりすぎた商品数を絞り込み、中核ブランドである「生茶」を刷新した。営業面では数量ばかりを追うのではなく、いかに安売りを避けるかに知恵を絞った。生産面においても急な増産にも柔軟に対応して欠品を回避したことが、業績回復を支えた。
こうした取り組みが功を奏し、16年に5.9%に急回復した事業利益率は年々上昇。19年には9.1%に達した。

何よりもビバレッジ従業員が「なにくそ、売られてたまるか」と奮起してくれたからにほかならない。結局は実現しなかったが、コカ・コーラとの資本提携案が新聞にスクープされたことで、売却されかねないとの危機感がさらに高まり、心に火をつけた。
ビバレッジの業績がV字回復した16年。グループで顕著な貢献があった組織や個人を表彰する制度「キリン大賞」に、同社が選ばれた。同社幹部が受賞のプレゼンテーションの最後に「コカ・コーラと売却交渉していた磯崎社長、みんなの前で謝ってください。私たちは頑張りました」。こう発言した。私はその場で「ものの見事に自分たちの力で再生してくれて大変うれしい。心からお礼とおわびを申し上げます」と頭を下げた。その時の受賞者の満足した顔は忘れられない・・・

子会社の整理

日経新聞私の履歴書、磯崎功典・キリンホールディングス会長「事業の中止を提言する」の続き、第17回「子会社売却」です。

・・・当時のキリンは多くの子会社を保有していたが、いくつかはベテラン社員のポストの受け皿のような会社があった。本業とのシナジーが乏しく、先の展望が見えない事業については、当時社長だった加藤壹康さんに提案し、売却や清算を進めることになった。対象は15案件程度、限りある資源を分散させないためにも実行する必要がある。
しかし、グループ各社からの反発は激しい。ある会社では開口一番「うちは赤字じゃない」と抵抗された。ほかでも「うちの社員のことを少しでも考えているのか」「とにかく今日は帰ってくれ」といった声が上がる。目に涙をためて訴える社長もいた。
子会社社長の胸の内を考えれば無理もない。それぞれが経営努力をしていたのは確かだが、持続的成長を目指すキリングループにとって、痛みの伴う構造改革は避けられない・・・

・・・これらの会社を1社ずつ訪問し、社長らに直接ひざ詰めで事業継続は難しいと説明して回った。当然、反発は大きかった。「お前さすがに、やり過ぎだぞ」。あちこちで摩擦が起きたことから、子会社を担当する役員達も私を責め始めた。多くの会社がベテラン社員らのポストという事情も理解しろという。

熟考の末、納得してもらうには、最初にホテル事業を売却するしかない。
1999年から2001年にかけて総支配人を務めた兵庫県尼崎市のホテル事業は、自分の分身のような存在だ。力を合わせて黒字化を達成させた従業員みんなの思いがつまっている。だが事業としてみれば1カ所だけホテルがあっても今後の発展はのぞめない。それならば、一番ふさわしいオーナーの下で運営されたほうが、社員の今後の生活にもプラスになるはずだ・・・
・・・自ら育てた事業を自らの手で売却したことが各社の社長に伝わり、ようやく彼らも納得してくれたのだろう、最終的に全て売却・清算できた・・・

事業の中止を提言する

日経新聞私の履歴書、5月は、磯崎功典・キリンホールディングス会長です。5月13日の第12回「LAホテル事業 全日空との協業中止提言 損失回避へ役員を説得」から。日本を代表する大企業で、こんな状況なのですね。いえ、日本を代表する企業だからこそ、日本文化を反映しているのでしょう。詳しくは原文をお読みください。

・・・1991年。米国留学とミズーリ州での実地研修でホテルの経営を学んだ私が、直後に任命された仕事が「LAプロジェクト」だった。
キリンビールが米ロサンゼルスで進めていたホテル開発プロジェクトの担当となったのだが、採算的に無理のある計画だったので、駐在事務所の上司に中止を進言した。
「会社が決めたことなんだから、君は言われた通りホテルをつくって運営すればいいんだよ」と言われた・・・
・・・ホテル業を学んだ成果が早速生かせる仕事だ。計画を精査するとともに、事務所の目の前にある建設予定地に足を運び、「このホテルは成功するのか?」と自問自答しながら定点観測を繰り返した。総工費は200億円を超す見込みで、コンセプトは正しいのか、コストと収益のバランスはどうか、客室稼働率はどうか、いいスタッフが集まるか……。熟考した末、「中止した方がいい」と確信した。
冷戦が終わり、軍事産業が盛んだったカリフォルニアは不景気で、街にホームレスが溢(あふ)れていた時代。経営環境が激変したのに、まずは建設ありきで社内は進んでいた。

同じ事務所で働く上司が動いてくれないなら、私が本社に中止を提言するしかない。上司に了解を取り、当時はメールがなくFAXで送った。
担当役員が日本から飛んできた。困った表情で「経営会議で決まりメディアにも出たこと。全日空という相手もいるんだから無理を言うな。俺の立場にもなってくれ」。役員はそう言って帰国したが私は納得いかず、その後も本社にFAXを送り続けた。

キリンで一番ホテルを知っている私が、失敗することを分かっていながら見て見ぬふりをするわけにはいかない。建設がスタートすればもう戻れない。ホテル経営がいかに大変か、ミズーリ州の実地研修で身に染みている。米国は労働組合が強く、簡単に合理化できない。開業後に撤退となれば、膨大な損失がでるはずだ。会社が大変な重荷を背負うことが目に見えていた。
執拗に言い続けたからか、ついに担当役員が全日空側の幹部に見直しを提案した。すると思わぬ答えが返ってきたという。「実は我々もその言葉を待っていたんです。ホテル事業は難しく旅客事業に集中したい」。全日空側の本心としてはプロジェクトを中止したかったのだが、自らキリンを誘った手前、やめようと言い出せなかったようだ・・・

野中郁次郎さん、外国への発信

4月18日の日経新聞夕刊追想録は野中郁次郎さんの「経営とは生きざま」でした。

・・・野中氏といえば、「失敗の本質」や「知識創造企業」(いずれも共著)があまりにも有名だ。だが、もう一つ他の経営学者と違ったのは著書の外国語訳にこだわった点だ。
教壇に立ち始めた1970年代は日本の経営学も米研究の「解釈学」といわれていた。だが、日本にも暗黙知と呼ばれるものに裏打ちされた優れた知識創造の経営はあった。それを発信し続けた・・・

法学にしろ政治学にしろ、日本の社会科学の多くは、欧米の学問の「輸入業」でした。欧米への発信だけでなく、アジアへの発信もしてこなかったのではないでしょうか。

オーラルヒストリーの2種類

復興庁オーラルヒストリー」を書きながら、またほかの人の話を読んで、次のようなことを考えました。

オーラルヒストリー(聞き書き)というと、著名人が対象ですよね。でも、復興庁オーラルヒストリーには、実働部隊で苦労した人たちの話が、たくさん載っています。オーラルヒストリーには、2種類あるということでしょうか。
あのページを読む人、特に官僚には、大臣や幹部の経験談より、実務を担った先輩や同僚の経験談の方が、面白く役に立つでしょう。

識者に聞くと、次のようなことを教えてくれました。
・・・「オーラルヒストリー」は、録音技術が進化した20世紀後半に、アウシュビッツの生き残りやアメリカインディアンの古老など、自伝や日記も含む文字記録とは縁の無さそうな人の言語記録を残そう、として始まった記録方法です。そういう意味では、「無告の関係者」の言葉が本来のオーラルヒストリーです。
しかし、それまでにもあった政治家や識者へのインタビューによる「回顧録」と形態的には同じになるので、20世紀終わりごろにまとめて「オーラルヒストリー」という用語になったんです・・・