カテゴリー別アーカイブ: ものの見方

単線、系統樹、網の目4

単線、系統樹、網の目3の続きです。今回は、網の目的見方の拡大です。

生物学の考えを参考にして、単線・系統樹・網の目という思考では視野が狭いという例を挙げます。生物はたくさんの相互関係の中で生きているということです。
その代表例が、「マイクロバイオーム」です。
人間の体内や皮膚に、何兆もの微生物が住んでいるのだそうです。体にある細胞の9割が微生物で、体重の3パーセントを占めているそうです。常在菌とか細菌相と呼ばれています。
いくつもの本が出版されていますが、私は、ロブ・デサールほか著『マイクロバイオームの世界――あなたの中と表面と周りにいる何兆もの微生物たち』(2016年、紀伊国屋書店)を読みました。
細菌は皮膚や内臓などに群集で生息し、特有の生態系を形成しています。この群集は、消化や免疫など人間の生存に不可欠な機能を提供し、遺伝子にも影響を与えているのです。「細菌は病気の元、手をよく洗いましょう」と教えられましたが、これらの細菌群を滅菌してしまうと、逆に健康を損ねることがあるのです。すなわち、単純に細菌=悪玉ではなく、共生しているのです。
「主体は環境に影響される」ということですが、環境同士が依存関係にあるということです。

マイクロバイオームまで行かなくとも、生物多様性はこのような考えを示しています。
かつて、ウィルソン著『生命の多様性』(1995年、岩波書店)を出版直後に読んで、感銘を受けました。
様々な生物が、ほかの生物と競争しつつ、また隙間を見つけて生息しています。それらは、単純に生物Aが生物Bを食べるだけでなく、様々な食物連鎖と天敵・共存関係にあります。ある害虫を駆除したら、ほかのところで影響が出てくるのです。奄美諸島でハブを駆除するためにマングースを放ったら、マングースはハブを食べずに、もっと弱いアマミノクロウサギを食べたとか。

人間の社会もそうです。人たちの間に、さまざまな関係が成り立っています。その際に、ある部分だけを「改革」しても、想定したとおりの結果になるとは限りません。大多くの場合、「副作用」があるのです。それらを想定に入れた上で、改革を議論しなければなりません。そして、私たちが考える関係以外の「意外なつながり」がたくさんあって、思ってもいない余波が出るのです。
共産主義にしたら、人は平等になると考えた人がいました。結果は、働いても働かなくても同じなら、人は働かなくなり、効率が落ちるとともに、発展が遅れました(少し論理が飛躍していますね)。

単線、系統樹、網の目3

単線、系統樹、網の目2の続きです。系統樹的な見方の問題点についてです。
問題は、もう一つあります。系統樹は通常、下に行くほど枝分かれしますが、これは現実を表していません。前回述べた「行き止まりの枝」と別の観点です。

あなたも私も、父親と母親から生まれました。ところが系図は、通常は父親の方で遡ります。「岡本家第何代目」です。母親側を遡ることは、めったにないでしょう。
多くの家で、母親の母親のそのまた母親と、3代・4代以上遡るのは難しいのです。
ミトコンドリアは、女性を通して子孫に引き継がれるのですが、多くの社会では男系で家の歴史を作ってきました。

一度、あなたを起点に、母親を含めてご先祖様を遡る「逆系統図」を作ってみてください。いろんな家の血が入っていることがわかります。1世代ごとに、母と父2人が必ずいます。
大きな川を想像してください。河口では一つになりますが、源はたくさんあります。通常は最も長いところが「源流」とされ、そこからが本流になります。でも、ほかの山々からも、たくさんの支流が流れ込みます。

これを社会に例えれば、今を終点とするなら、それらに入り込んだ要素は、とてつもなくたくさんなのです。系統樹をひっくり返したような図になります。

単線、系統樹、網の目2

単線的思考の続きです。ものごとの発展・進化の見方を、単線と系統樹と網の目に分けて議論しています(しばらく放ってあって、すみません)。今回は、系統樹的見方の限界について。

系統樹は、複数の路線に別れます。生物の進化の図が、わかりやすいですね。ある時点でも、複数の種が共存します。それぞれに、住む場所や食べ物を争いつつ確保するのです。
ところが、実際には、系統樹は枝分かれするとともに、行き止まりになる枝もあります。今につながるものたちだけが生き残り、ほかは死に絶えます。恐竜、マンモス、エディアカラ生物群などなど。
ヒト属(属名 Homo )も、現在生き残っているホモ・サピエンス以外にも、ネアンデルタール人などいろいろな種類がいたようです。でも、サピエンスだけが生き残ったのです。
ネアンデルタール人とサピエンスが共存していた時代があります。しかしその時点では、その後にネアンデルタール人が死に絶えることは想像できなかったでしょう。体つきは、ネアンデルタール人の方が頑丈だったらしいのです。

この話を、強引に拡大しましょう。
複数のものが同時に存在するとき、その先にどの枝が主になるか。その時点ではわかりません。「みんな仲良く暮らしました」とはならず、「勝ち残ったものだけが生き残りました」となります。そして、どれが勝ち残るかは、その時点ではわかりません。
すると、同時代の歴史、近過去の歴史を書くことは難しいのです。私たちが読む歴史は、済んでしまってから遡る歴史です。結果がわかってから書かれたものです。

単線、系統樹、網の目

事実は小説よりも・・・」の続きです。まず、単線的な考え方についてです。
私は、これを物事の見方の違い、変化の過程の違いとして、考えています。3つの見方、考え方があります。「単線」「系統樹」「網の目」との違いと表現したら、わかりやすいでしょうか。

最も簡単なのは、単線です。多くの小説や、歴史の教科書の記述です。話は一本道を進みます。
次に複数の登場人物の話が展開する場合は、系統樹です。進化の過程が系統樹で表されます。魚類、両生類、は虫類、鳥類、ほ乳類と分化し、さらにその中で分化、進化します。複数の道がありますが、それぞれが単独に進んでいきます。これも、単線的思考です。
これに対し、網の目は、複数のものが単線的に進むのではなく、相互に影響を与えつつ、進んでいきます。

単線と系統樹は、ともに直線的です。因果関係が単線的で、分岐はあるにしても一方向であることを想定しています。これに対し、網の目状関係関係は、因果関係が単線のように簡単ではなく、相互に影響し合います。関係は入り組んでいて、思わぬところに影響が出たり、自分自身に跳ね返ってきます。

これが当てはまる一つが、生物の進化です。学説によると、ウイルスが生物を進化させてきました。突然変異だけでなく、ウイルスが感染することで遺伝子が合体し変化して、種が進化します。縦方向だけでなく、横でも進化が進むのです。進化の系統樹は太い幹が順に枝分かれしたのではなく、いろんなところで交差することになります(2012年6月13日の記述)。
枝分かれだけでなく、混交するのです(ウィキペディア、水平伝播と混合)。

事実は小説よりも・・・

私は、あまり小説を読みません。もちろん、小説も面白いし、勉強にもなります。しかし、それ以外の分野の本を読むのが、忙しいのです。
もう一つ理由があります。日々の暮らしの方が、小説よりも「面白くスリリング」なのです。毎日仕事をしていると、小説に対して「世の中、そんな甘いものやないで」と言いたくなります。

まず、登場人物の数が違います。小説には、通常は何百人も人が出てきません。出て来たら、ややこしくて、読みにくいです。
それに対し、私もあなたも、毎日大勢の人を相手にしています。しょっちゅう会う人、たまに会う人、初めて会う人。好きな人、波長の合わない人。嫌だけど付き合わなければならない人・・・。

そして、小説は、作者一人の視点で書かれています。推理小説は、途中まで全体構造が分からないように仕組んでありますが。たいがいの小説は、作者が神様のように各登場人物を操って、筋書を進めます。単線的なのです。
しかし、私たちの日常は、そんな簡単なものではありません。それぞれの人が、自らの欲望と判断で「勝手に」行動します。たくさんの人が、ブラウン運動の微粒子のように、不規則に動き回ります。話の筋に影響を与える人と、関係ない人とがいます。でも、後にならないと、それはわからないのです。ある結果は、後から振り返ると、それまでに無駄な動きを、いっぱいしています。

それぞれの登場人物にとって、未来は見えていないのです。どのような人生を送るか、どんな楽しみと苦しみが待ち受けているか、分かりません。小説は、終わったことを一つの視点から書きます。
現実は複雑で、予測できません。そして、時には残念な、悲しい結末もあります。その逆が小説です。だからこそ、小説が読まれるのでしょうね。

単線とブラウン運動については、別途書きましょう。