カテゴリー別アーカイブ: ものの見方

できあがったものか、つくるものか

社会やそれを支えている制度を見る際に、「できあがったもの」と見るか「つくるもの」と見るかの違いがあります。

まず、法律学です。私が大学の法学部で習ったことは、制定されている法律の解釈学でした。日本国憲法は所与のものとして、その制定経緯、解釈、争点についての考え方を学びました。
「このような(条件が変わった、新しい事態が起きた)場合は、このような法律を作るのだ」といった立法学は学びませんでした。社会の実態と乖離するような場合は、解釈を拡大するのです。立法学とあるのも、現在の法律成立過程の分析が主です。
次に、政治学です。これも、日本の近代現代の政治をどのように見るか、その経緯、あるべき論からの分析と批判、欧米の政治の歴史とそれを動かした思想などでした。それはそれなりに、ものの見方を養ってくれました。
しかし、どうしても「できあがったもの」の分析になります。政治学の分野に政治過程論がありましたが、これもできあがった政策の成立過程分析でした。
成立する過程を学んだのですが、身につけたものの見方は、できあがったものの分析でした。

これは、社会学も同じです。これらの学問は、過去と現在=できあがったものの分析です。
「学問である以上、客観性が必要だ」という主張もあります。立法学、政策論になると、各人の主観が入ってきて客観性が欠けるという批判です。それはその通りです。しかし、今ある法律や制度も、ある立場で作られたものです。

かつて、原島博・東大教授の発言を紹介したことがあります。「過去の分析と未来の創造と
「理系の人間から見ると、文系の先生は過去の分析が主で、過去から現在を見て、現在で止まっているように見える。未来のことはあまり語らない。一方、工学は、現在の部分は産業界がやっているで、工学部はいつも5年先、10年先の未来を考えていないと成り立たない」(『UP』2005年6月号)
この項続く

二項分類と三分類

「全勝さんは、三分類が好きですね」と、指摘されました。そうですね。しばしば、松・竹・梅という比喩を使うからでしょう。「職員の三分類

世の中で物事を分類する際には、最も多いのは二分類です。二項分類とも言います。紅白、白黒、右左、上下、前後、善し悪し・・・。
私も、多くの場合に、二項分類を使います。しかし、「ものによっては、三分類の方がわかりやすいのでは」と思う場合があります。最近の関心分野である、公共政策と職員養成でも使っています。

職員養成では、出来の良い職員と出来の悪い職員とに分けるのが二分類です。しかしそのように分類するより、とても良くできる職員(松)、普通の職員(竹)、出来の悪い職員(梅)と3つに分ける方が、ぴったりくるのです。
ここで、松・竹・梅の3分類は、上中下に均等に3分類しているのではありません。鰻重は、特上・上・並ですよね。下はなくて、上と並の2分類の上に、特上を作っているのです。
ここが味噌です。上と下に分けると、下に分類された人がうれしくありません。そこで、一番下は並にするのです。上はそのまま。しかしそれは実質的に並なので、その上に特上を作ります。なお、この松竹梅という表現は、仕事ぶりについてであって、職員の人格を並べているのではないことに注意してください。ある仕事については梅だけど、他の分野では松の人もいます。

公共政策では、公私(官民)二元論から、公共私三元論を提示しています。
読書も、3分類して説明しましたね。「生産の読書、消費の読書、貯蓄の読書

ところで、松・竹・梅が上下の(垂直的)三分類であるのに対し、官・共・私の三分類などは、上下関係はありません、水平的三分類です。
二項分類の場合は、例えば白と黒に分けますが、うまく収まらない中間領域が出てきます。灰色です。しかし、それは二分類で世界を見ているから灰色に見えるのです。色の三原色のように、最初から3つに分けてみると、灰色領域ではありません。
もちろん、世の中はそんなに簡単に分けることはできませんから、もっと多くの分類が良いのでしょう。しかし、3つ以上になるとわかりにくいですよね。

科学、市場経済、民主主義。その2

科学、市場経済、民主主義」の続きです。
これまで、人類に繁栄と安心をもたらした、「科学、市場経済、民主主義」の3つが、限界を見せています。

科学にあっては、高度な進化が、人類に危険を持ち込みました。原爆をつくり、人類滅亡の危機を招きました。遺伝子組み換えは、ヒトに適用されると、とんでもない問題を引き起こす可能性があります。不老不死が実現し、人工知能が高度になると、ヒトの生活にいろんな問題を引き起こすでしょう。
市場主義経済は、これまでも何度も恐慌を引き起こしました。また、貧富の差の拡大と固定を生んでいます。国際的格差と国内での格差は、解消されることなく、拡大しています。
民主主義は、指導者たちの理想が、不満を抱えた国民のポピュリズムによって、停滞と不安定に陥っています。

もちろん、これまでも、核兵器の使用や拡散を止める努力が行われてきました。1929年の世界恐慌を経験に、2008年の世界金融危機は比較的小規模で抑えることに成功しました。
しかし、科学者が、経済人が、国民が、自由に行動することで社会全体によい結果が生まれるという「神の手」は限界に来ているようです。
「自然と社会を人間が制御できる」という原点は変えない、変わらないとしても、「科学、市場経済、民主主義」という思想と手法は、修正が必要なのかもしれません。

自由を制限することが、1つの方法でしょう。中国の手法が、その一つです。これはある意味、民主主義より、また西欧型市場主義より、効率がよいようです。しかし、このような自由の制限は、私たちの望むところではありません。
科学と市場経済については、自己運動を続けることを、「人知=政治」によって制限することが考えられます。修正資本主義のように、これまでもそうしてきましたから。
しかし、民主主義は、有権者が参加して決めるということが基本です。その有権者の間に亀裂が入っています。それを、民主主義で修復することができるのか。難しいところです。

理想主義と現実主義と現実的理想主義

理想主義は、「こうあるべきだ」という姿を目指します。反対は現実主義です。「世の中こんなものだ」とあまり無理をしません。

ところが、この言葉を使う場面に分けて考えないと、混乱します。
理想主義にも、その理想に至る道筋に、二つのものがあります。道筋を理想的に考える人と、道筋を現実的に考える人です。仮に、前者を「理想的理想主義」と名付け、後者を「現実的理想主義」と命名しましょう。
前者は、目指す理想はよいのですが、そこにたどり着く道筋が現実的でないのです。すると、時に空想主義に陥ります。
目指す理想状態は、簡単には実現しないから「理想」です。実現するためには、困難な過程が待ち受けています。

現実主義者も多くは、現状に甘んじることなく、改善しようと考えています。すると、「現実的理想主義」とは紙一重です。
違いは、現実的理想主義は、理想とする目標を持っていることでしょう。
私たち行政職員は、現実的理想主義がふさわしいと思います。

科学、市場経済、民主主義

ヨーロッパ統合、成功の次に来た危機」の続きです。
近代西欧文明は、自然と社会を人間が制御できると考え、実際にそれを進化させてきました。これは、佐藤俊樹先生の『社会は情報化の夢を見る―“新世紀版”ノイマンの夢・近代の欲望』(2010年、河出文庫)で教わったことです。

近代産業社会は、人間が科学技術の力を借りて、自然を支配できると考えるようになりました(科学革命、自然の論理的認識)。あわせて、社会技術によって社会を制御できると、信じました。そして社会制御に関して、2つの大きな制度を持ちました。産業資本主義という経済制度と、民主主義という政治制度です(p205)。それぞれ、神の思し召しではなく、人間が経済を発展させ、人間が政治を操ります。「人間は、自然と社会を理解でき、制御できる」「人間は、自然と社会を理解でき、制御できる。2

長年、人類にとって大きな敵は、戦争、病気、貧困でした。20世紀後半に、先進諸国では、国際的には平和、国内では治安を達成しました。多くの伝染病にも打ち勝ちました。豊かさを手に入れ、飢餓と貧困からも脱却しました。3つの敵に打ち勝ったのです。これらは、科学技術、自由主義市場経済、民主主義によって、もたらされたものです。

科学技術、自由主義市場経済、民主主義。これら3つの考えの基にあるのは、神様や偶然が自然と社会を支配するのではなく、人間が自然と社会を理解でき、制御できるという思想です。人間主義(ヒューマニズム)が基礎にあります。もう一つ、個人がそれぞれ自由に考え行動してよいという自由主義が基礎にあります。

そして、この3つはものの見方であるとともに、自動的に発展を続ける仕組みを内在しています。参加者の行動が、それらの発展をもたらす仕組みになっているのです。
科学者は、自然のあらゆる現象を説明しようと、研究と重ねます。市場経済は、個人がより豊かになろうと、新たな富を生みだします。民主主義は、政治家と有権者が社会をよくしよう、特に自由と平等を達成しようと、法律や予算をつくります。
それぞれ、個人が努力することが、社会全体の発展につながります。個人を駆り立てるのは、名誉、金銭や権力への欲求です。
これまでは、この仕組みがうまく働き、豊かで、安心で、自由平等の社会を作り上げました。ところが、ここに来て、この仕組みの問題点が明らかになってきました。
この項続く