カテゴリー別アーカイブ: ものの見方

人件費は費用か投資か

会社では、人件費は会計上の費用に計上されます。官庁では、歳出に立ちます。この観点から見ると、人件費は少ない方が良いと考えられます。経費は少ない方が、会社では決算が黒字になり、官庁では経費を削減したと評価されるからです。

でも、この見方は、とても狭い見方です。どんどん人件費削減(人員削減と給与引き下げ)をすると、よい経営者であり、よい自治体でしょうか。会社はよい賞品を売って利益を増やすことがよい会社であり、自治体はよい業績を上げることが任務です。人件費を削減しすぎて、会社の業績が悪くなったり、必要な行政サービスが提供されないようだと、本末転倒です。もちろん、同じ売り上げ、同じ行政サービスなら、費用は少ない方が良いですが。

業績の悪い会社を立て直す経営者に、コストカッターと呼ばれる、経費削減を行う人がいます。しかし、経費を削減するだけでは、業績は向上しません。売り上げを上げないと、じり貧です。経営立て直しには、コストカット(経費削減)と共に、新製品など売り上げ向上が必要なのです。

人件費をどう考えるか。難しいのは、従業員の職場での「価値」を、お金では測ることができないことです。同じ職位の職員に同じ給料を払っていても、仕事のできる職員とできない職員がいます(ボーナスでは差をつけているでしょうが)。
さらに、多くの職員は将来、より重要な職務に就くことが期待されています。職員は現在の仕事を処理する「機械」であるとともに、将来を見越しての育成中の「素材」です。よい職員を育てることは、「投資」です。費用に終わる人件費と、投資になる人件費があるということです。

と書いて放置してあったのですが。10月11日の読売新聞の「経済学×現代 ノーベル賞5 人は財産 世界で争奪戦」が、人的資本について解説していました(今頃になって、すみません)。
・・・ゲーリー・ベッカー「人的資本」(1930~2014)米国生まれ。経済学の手法を様々な社会問題に応用した。1992年に受賞。
人への投資は一時的にコストがかかっても、企業の発展につながる。当たり前のように思える知見を実証し、「人的資本」という言葉で表したのがゲーリー・ベッカーだ。技術革新のスピードがこれまでになく速くなるなか、企業が求める人的資本も変わり始めている・・・
人的資本については、次のように説明しています。
「労働者を、投資によって生産性を高められる「資本」と捉える考え方。伝統的な経済学は、企業にとって労働者の生産能力はあらかじめ決まっており、必要に応じて雇用、解雇することを前提にしていた」

人的資本をこのようにとらえることはよいことですが、課題は、人的資本をどのように数値化するかでしょう。きわめて難しいと思います。
ある社員の能力を、どのように評価するか。それぞれの社員の能力は、用いる分野や場面で違ってくるでしょう。もっとも、あらゆるものを価格で評価するのが、経済学や会計学の手法です。その手法を使えば、一つの方法は、ある社員がいくらの値段で他社や労働市場で「取引されるか」の価格で表すことができます。経済学では、どのように扱っているのでしょうか。「統計に表れない人的資本の価値

立派な新国立競技場、でもその周囲は

2020年東京五輪・パラリンピックの主会場となる新しい国立競技場が完成しました。当初の案が変更になり、代案が採用されました。なかなか立派な施設のようです。例えば「読売新聞」。

ところで、写真を見て残念なことがあります。競技場は立派なのですが、すぐ隣にビルが建っているのです。このような巨大な記念碑的施設は、周りの景観も重要ですよね。
観客が写真を撮るときに、よけいな建物が入ってしまいます。それは、総理官邸も同様です。

「木と緑にあふれた杜のスタジアム」と言うようですが、周囲に木は少ないようです。
面積が二倍になったとのこと。その影響もあったのかもしれません。

表現と主張の違い

読売新聞12月2日一面コラム、山崎正和さんの「あいちトリエンナーレ 表現と主張 履き違え」を読んで、よくわかりました。
この夏、愛知県の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展が反対者の脅迫を受け、展示を中止した事件です。

・・・というのは私の見るところ、ことの発端には企画者の重大な思い違いがあって、それが問題の根本的な種を蒔いていたのに、その点を指摘する声は聞かないからである・・・
・・・とくに「不自由展」の目玉が現下の外交的な争点である、いわゆる従軍慰安婦の問題だと聞くにつけて、企画者は「表現」と「主張」という言葉を取り違えたのではないか、というのが第一印象であった。そもそも企画者は、言論人として、自己表現と自己主張の違いについて一度でも真剣に考えたことがあったのか。二つは似ているように見えるものの、本質はむしろ正反対であることに気づかなかったのだろうか・・・

・・・しかし、そのうえでなお遺憾とすべきは、今回の展示品が宣伝芸術としてすら粗略に扱われ、核となるはずの表現はほとんど無視されていることである。
もし、あのいわゆる従軍慰安婦を象徴する少女像が芸術上の作品として制作され、それとして評価されていたなら、その純造形的な側面について、これまで何らかの批評があってしかるべきだろう。彫刻としての色と形、素材の選択や技法について、少なくとも企画者による評価が語られてほしいところだが、それが全くない。これでは作品は宣伝「芸術」としてすら、正当に遇されたとはいえないのではないか。
同じことは「表現の不自由展」の他の展示品、昭和天皇の肖像を用いた作品を燃やす映像についても指摘できるから、残念ながら、この企画は表現といえないばかりか、主張の展示としても適格性を欠くといわざるをえない・・・

いつもながら、山崎先生の分析は鋭いです。

政治家。計画的でなく、その場のやむ得ない決断

10月12日の日経新聞読書欄、岡崎哲二・東大教授のアダム・トゥーズ著『ナチス 破壊の経済』(みすず書房)についての書評「独戦時体制の全体像を詳述」から

・・・第2に、開戦の直接の引き金となったドイツによるポーランド侵攻は、周到に準備された「電撃戦」ではなく、ドイツ経済の切迫した状況と国際情勢の圧力の下での、やむを得ない決断だったことが強調されている。39年、国際収支の制約によってドイツの再軍備が限界に直面する一方、潜在的な敵国である英国、フランス、米国、ソ連の軍備拡張が進展し、ドイツが不利になっていく国際的な軍備バランスの中で、ヒトラーは早期開戦の決断を迫られた・・・

かつてこのホームページで、「強力な独裁者であったナポレオンもヒットラーも、信念であのような国家をつくり、対外戦争を続けたというよりは、その場その場で国民の支持を取り付け、政権を維持することを優先したとみえます。そのために、戦争を続けなければならなかったのです」と書いたことがあります。「社会はブラウン運動4

鎌田浩毅先生『やり直し高校地学』

鎌田浩毅先生の新著を紹介します。『やり直し高校地学ー地球と宇宙をまるごと理解する』(2019年、ちくま新書)です。ちくま新書には、「やり直し高校××」というシリーズがあるようです。内容は、表題でわかりますよね。

私は高校では理科4科目、物理、化学、生物、地学を履修しましたが、受験科目は物理と化学を選びました。この2つが、理論的だと思ったのです。すみません、当時は、生物は植物の分類、地学は地層と岩石の学問と思っていました。しんきくさいなあ・・・と。
ところがその後、生物は遺伝子の解析や分子生物学が発達して、面白い学問になりました。地学も、プレートテクトニクスや古生物学など、面白い学問になりました。この半世紀で、ガラッと変わりましたね。
最先端の研究が画期的に進んだのとともに、それを一般人に伝える書物が増えたからでしょう。無味乾燥な分類学や岩石学から、わくわくする科学に変わったのです。

鎌田先生は、科学の伝道師を名乗っておられます。最先端の難しい科学を、素人にわかるように伝えてくださっています。新著も早速に重版になったようです。よく売れているということですね。
素人には分厚い学術書や教科書より、新書版がうれしいです。でも、難しいことを短く書くというのは、難しいのですよ。