カテゴリー別アーカイブ: 生き方

生き様-生き方

近藤和彦先生「『歴史とは何か』の人びと」完結

近藤和彦先生の、連載「『歴史とは何か』の人びと」(岩波書店の『図書』)が、12月号で完結しました。先生のブログ
15回にわたって、カーをめぐる人物を取り上げ、カーの人生に迫るとともに、当時のイギリス歴史学界を紹介してくださいました。先に紹介したように、とても面白かったです。

研究の成果は客観的なものですが、それを生み出す研究者の人生は生身であり、さまざまな付き合い、悩みなど単線的ではありません。もちろん、「このような境遇で、このような人生を送れば、このような成果が出る」というものでもありません。しかし、境遇と付き合いと本人の苦悩が、成果を生むこと、成果に色づけすることも間違いないでしょう。
で、この項目は、「歴史」ではなく、「生き方」に分類しておきます。

大島理森先生の「私の履歴書」

日経新聞連載「私の履歴書」、9月は、大島理森・前衆議院議長です。昨年10月には、読売新聞連載「時代の証言者」にも載りました。
活字にはできない話も多いのでしょうが、楽しみです。

私が、総理秘書官と東日本大震災復興で大島先生にお世話になったことは、「自民党、大島理森復興加速化本部長」「大島理森先生の回顧談」に書きました。

自分をほめてやりたい

有森裕子さん「自分をほめたい」」の続きです。有森さんは、「自分をほめる」であって、「私は「自分で自分をほめてあげたい」とは言っていません」とおっしゃっています。

私は、有森さんの言葉を借用して「自分で自分をほめてやりたい」と使っています。なぜかと、考えました。理由は次の通り。
私は仕事で迷ったときに、しばしば「全勝A」の斜め後ろに「全勝B」を置いて、Aに向かって「本当にこれで良いのか?」と会話させます。冷静に自分を見るためです。これは、判断に悩んだときなどですが、ある仕事をやり遂げたときには、全勝AがBに向かって「自分で自分をほめてやりたい」と同意を求めるのです。
すると全勝BがAに「そうだな」と同意してくれます。自分に対するご褒美です。全勝Aは、「では、早くビールを飲みにいこう」と雑務を片付けます。
人間は弱い動物です。このようなご褒美も必要でしょう。

平櫛田中と30年分の材木

買っても読まない本が、増え続けています。生きている間にすべてを読むことは、できそうにありません。「なら、新しい本を買うなよ」との声が聞こえてきそうです。

全く関係ないのですが、彫刻家の平櫛田中さんを思い出しました。かつて、旧居を転用した美術館を見に行ったときに、たくさんの材木が残っていました。
「田中は百歳を超えても、30年かかっても使いきれないほどの材木を所有していた。これはいつでも制作に取り掛かれるようにと、金銭に余裕がある時に買いためていた材木がいつの間にかそれだけの分量になっていたためである」(ウィキペディア)とのことです。

そのひそみにならえば、「100歳まで生きて、まだ読むことができない本が残っていた」「まだまだ勉強する意欲を持っていた」とは、なりませんでしょうか。残された家族が、処分に苦労するだけでしょうか。

有森裕子さん「自分をほめたい」

8月23日の朝日新聞「“I”をください」「有森裕子さんに聞く 重圧かけた末の「自分をほめたい」」から。この言葉は、私も使わせてもらっています。でも、「自分で自分をほめてあげたい」ではなかったのですね。しかも、しょっちゅう使っています。

「自分で自分をほめたい」。1996年のアトランタ五輪女子マラソンで銅メダルを獲得した有森裕子さんの言葉。「自分」を大切にすることを推奨する最近の世の中にあふれる言説の先駆けともいえそうだ。言葉に込めた意味、自己肯定感に時に振り回される風潮について、現在は日本陸上連盟副会長などを務める有森さんに聞いた。

「自分で自分をほめたい」は、インタビュー中に自分に言って自分で納得するための言葉でした。誰かに何かを伝えようとしたものではないですが、皆さんの視点を少しでも変える言葉であったならよかったです。
バルセロナ五輪(92年)で銀メダルを取ったものの、その後の環境がなかなか自分の思い描いたようにならず、身体的にも精神的にも傷を負いました。このモヤモヤを抱えては生きていけない、でもSNSもない当時はアスリートが何かを主張するにはメダリストに返り咲くしかない。そうやって自分で自分に重圧をかけた末で、同じメダルでもバルセロナとアトランタでは意味合いが全然違ったんです。

ただ勘違いされている方が多いですが、私は「自分で自分をほめてあげたい」とは言っていません。自分に対して何かを「してあげる」なんて言い方、しないです。誤解が広まったのも、たぶん「自分をほめたい」は日本人の感覚の言葉じゃないんでしょうね。仏教圏の慈悲文化と、キリスト教圏の奉仕文化の違いがありそうです。
あの言葉の元になったのは私が高校生の時に聞いたフォークシンガーの高石ともやさんの「自分のことを分かっているのは自分自身だから、他人にほめてもらうんじゃなくて、まず自分で自分をほめることが大事だよ」という言葉です。高石さんが米国でボランティア活動中に、現地の年配女性から聞いた言葉だそうです。日本だと「ほめたい」はずうずうしく、他人に施す「あげたい」が自然なのでしょう。
でも多くの人が本心では自分を認めたいと思っているから、私の言葉は新鮮に受け止めてもらえたのだと思います。自分へのご褒美的な意味に転じて「ほめてあげたい」で広まったのかもしれません。

アトランタ以降に「自分で自分をほめたい」と思ったことはありません。あんな出来事は一生に1回。こんな言葉をしょっちゅう使っていたら、単なるなまけものになっちゃいます。日常にゴールはなく、強烈な刺激もありませんから。
そこまで思うことはなくても、今の仕事の中で一生懸命に頑張る人を応援している時に充実感があります。自己肯定感と言われますが、私は根本は自分の存在意義だと思います。人間が一番必要とするものです。