カテゴリー別アーカイブ: 仕事の仕方

生き様-仕事の仕方

資料整理

連載「公共を創る」の執筆のため、貯めてあった資料を整理しました。その勢いで、そのほかの資料も、片付けに着手しました。

急ぎでないので、後で読もうと取ってある資料です。ところが、「後で」と思っていても、そんな余裕のある時間は出てきません。そして、そんな資料が次々とやってきます。すると、貯まるばかりです。机の上や本棚に、増殖していきます。
定期的に棚卸しをしないと、とんでもないことになります。着手すれば、簡単なのですが。時間が経って価値がなくなったもの、やはり読まなければならないものに分類して、かなり減量に成功しました。

次の問題は、書籍です。これまた、読もうと思って準備したまま、たくさん貯まってしまいました。

4月も半分過ぎました2

4月も半分過ぎました」の続きです。
私の方は、職場では新年度が始まり、新しい職員を迎えました。といっても、新年度の研修計画は去年秋に決めてあり、4月・5月開講分はすでに準備が終わっています。現在内容を詰めているのは、今秋の研修分です。

副学長と相談して、今年度の重点事項を決めて、職員に周知することを始めました。
市町村アカデミーの仕事は、35年間の先輩たちの努力で形ができていて、それを見直す仕組みもできています。よくできた仕組みです。異動してきた職員の仕事のやり方の習得については、「執務の手引き」があって、これもよくできています。さらに、それを見直してくれています。そして、職員たちは新しい企画にも積極的に挑戦してくれています。アカデミーは、職員が働く組織であるとともに、研修生を受け入れる場、そして研修生が宿泊する場です。そこでの危機管理・注意点と行った特殊事情もあります。
とはいえ、今年度特に見直してもらいたいことなどもあります。それを明示することにしたのです。

副業の原稿執筆の方は、「連載「公共を創る」執筆状況」のあと、2回分がゲラになりました。と思って気を抜いていたら、次の部分の着手が遅れています。講演会の資料つくりも急がないと・・・。
日々忙しいことと、まとまった成果が出ることとは、全く比例していません。

社格は人格

3月16日の日経新聞「交遊抄」、高橋泰行・ピエトロ社長の「社格は人格」から。

・・・東証2部に上場するとき、当時社長だった村田邦彦から「会社として何をすべきか勉強してこい」と言われ、総合メディカルの創業者である小山田浩定さんのもとを訪れた。笑顔で迎えていただいたが、上場の話になると「世の中の役に立つ存在にならなければならない」と険しい顔になった。すごい迫力だ、とそのカリスマ性にしびれたのを覚えている。
村田が亡くなると、後継を仰せつかった。私は天才肌の村田とは異なるタイプ。社長としての役割に悩んでいたところ、小山田さんが若手の経営者向けに塾を開いていると聞いた。「私も入れていただけないでしょうか」とお願いし、上場会社のあり方を勉強しに行った日のことを覚えていてくれていた。「一緒に勉強しましょう」と言っていただいた。

「人に『人格』があるように、会社にも『社格』がある。社格がどうなるのかは、トップの人格次第。だから、だれよりも自分を磨かなければならない」。真摯な姿勢に頭が下がる思いがした・・・

「私の履歴書」国鉄解体、再生

日経新聞「私の履歴書」3月は、唐池恒二・元九州旅客鉄道代表取締役会長です。国鉄という揺るぎないと思われていた会社に就職し、国鉄末期の職場のひどさ、そして解体民営化を経験し、JR九州を再生した経験談です。

10日付け「武者修行」は、民営化早々、丸井に出向した経験です。かつての国鉄では、職員と組合が威張っていて、乗客を大切にしないことで有名でした。そこから、ものを売る商店に出向して、その差にびっくりします。
・・・研修初日の朝、わずか20分くらいの間に、私はすでに何回も感動させられていた。人を感動させるということは、こういうことかー。
そこには3つのギャップがあった。旧国鉄という役人的組織と民間企業との違い。鉄道というもっさりした仕事と飛ぶ鳥落とす先端企業の差。そして九州の門司と東京都心の環境の変化だ。幕末に欧州に渡った武士を打ちのめした衝撃は、こういう感じだったのではないかと感じていた・・・

11日付け「丸井」には、次のようなくだりがあります。
・・・2日目。始業時刻の30分前に行くと、やはり社員同士が「おはようございます」と挨拶している。始業15分前の8時45分、企画室全員で部屋の掃除が始まった。ゴミを集め机を整頓し、床にモップをかけ窓を拭く。すべての職場で同じ。管理職も参加する。これが民間企業か。国鉄ではありえない光景だった。
事業計画作りなどの会議、他の部署や店舗へのヒアリングにも参加させてもらった。会議も国鉄とは全く違った。発言者の少ない国鉄と違い、丸井の会議では発言しないと次から呼ばれなくなる。発言しない人の動機は自己保身にあり、会社のためには皆発言すべきだという考えからだ・・・

次のような話も。
・・・4カ月の研修終了が近づくと関わった部署が連日、送別会を開いてくれた。1988年2月20日の最終日、最初にお世話になった企画室で朝礼に出席し最後の挨拶をした。
「たった4カ月でしたが密度が濃く、10年いたような気がします。JR九州を少しでも丸井のレベルに近づけていきます」。話すうちにこみ上げるものがあり、目に涙がたまる。湿っぽくなってはいけないと笑いを取りにいく。
「将来もし私が出世し、まずありえないことですが、日経新聞の『私の履歴書』に登場することになったら、今の私があるのはすべて丸井のおかげだと書きます」。まったくウケないばかりか逆にすすり泣きが広がる。短くお礼を付け加え話を終えた。あれから35年、この日の大ぼらが今、本当のことになった・・・

・・・研修を終えた翌日、博多のJR九州本社に出社した。配属は営業部販売課。誰も挨拶をしない。机にも名刺はない。室内は散らかっており花など望むべくもない。
研修で感じた彼我の差を思い出す。丸井を手本に職場のすべてを変えようと決めた・・・