昨日6日は、宮城県庁で、県内市町村関係者に集まっていただき、生活支援制度の説明会を行いました。5月16日に、岩手県でも開催しました。
その後、東松島市の被災状況を視察してきました。かなり片付いているところと、まだがれきが残っているところがありました。
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行政-災害復興
被災地の復興・核は産業
被災地では進度は違いますが、復旧が進み復興に取り組んでいます。現地を見て、また市町村長や役場の幹部とお話ししていて、次のようなことを考えていました。
早い段階から、何人かの市町村長さんたちは、「復興の鍵は産業だ」と指摘しておられました。「道路や住宅を復旧しても、働く場所がないと、人は戻ってこない。町は成り立たない」ということです。
三陸地方の過疎地域や、長野県の中山間地域。ここでは、限界集落に近いところもあります。地域を支える産業もなく、後継者がいないのです。現在住んでいる人たちは高齢者が多く、自給できるだけの農業となにがしかの兼業、そして年金で生活しておられます。
「なだらかに人口減少が続いていたのが、今回の災害を機に一気に減少し、集落がなくなるところもあるだろう」とおっしゃった首長もおられます。
阪神淡路大震災の時の神戸市やその近辺とは、経済・産業の条件が違います。もちろん、漁業の盛んな地域は、港と船が戻れば復興するでしょう。仙台平野も、企業が戻ってくれば復興します。しかし、過疎地域、中山間地域では、徐々に進行していた地域の衰退が、浮き彫りにされたのです。
ここで明らかになるのは、道路や住宅などインフラを復旧しただけでは、町は復興しないということです。暮らしの中心には労働があり、街の賑わいの基礎には産業があるのです。その上に、教育や社会福祉といった安心があります。住民が戻らないことには、町の将来像や行政サービスを議論できません。
1950年代から、国策によるエネルギーの転換により、炭坑が閉鎖され離職者が大量に出ました。1960年代に、雇用促進事業団が、この人たちのために再就職の世話をしました。阪神地方などに住宅を造り、移ってもらいました。当時は高度成長期であり、働く場がたくさんあって、これで失業者を吸収できたのです。もちろん、個々人には多くの苦労があったでしょうが。
現在では、労働集約型の組み立て工場はアジアとの競争にさらされ、地方への工場誘致は難しくなっています。どのようにして地域の雇用を確保するか。自治体にとっての大きな課題が、被災地では顕在化しているのです。自治体関係者だけでなく、私たち行政関係者、学者、有識者、政治家、そして産業界・企業家のヴィジョンが問われているのでしょう。
原発事故関係市町村長との意見交換会
今日は、福島県庁で、原発事故関係12市町村長との、意見交換会でした。国からは片山総務大臣、平野内閣副大臣、松下経産副大臣ほか、関係府省の職員が出席しました。これらの市町村は、住民が区域外に避難を余儀なくされ、また役場も引っ越しているところも多いです。大変なご苦労をおかけしています。
元の市町村を離れた住民は、住民票を移せば新しい市町村の住民になりますが、移さない限りは「旅行者」と同じです。多くの住民は、元の市町村に帰る意向なので、住民票は元の市町村のままです。そこで、行政サービスが問題になります。学校は、新しい市町村で「分校」をつくれば、元の市町村の学校ですが、そうでない場合は受け入れ先の市町村立学校に入ってもらいます。そのほか、福祉サービスはどうするかなど、課題はたくさんあります。全国に散らばった住民に、書類や町の広報を郵送するだけでも、多額の経費と手間がかかります。
住民サービスを低下させないために、また元の市町村とのつながりを保つために、どのような運用や制度改正、法律が必要かを検討するためです。この機会に、そのほかの要望や意見も頂きました。原発事故による避難は、まだ帰る見通しが立たないので、地震・津波による避難とは違った条件にあります。
会議は正午過ぎに終わったので、二本松市と郡山市に移転している町役場を視察して、町長や課長から注文を頂いてきました。山のように仕事があるので、ほかの市町村から職員に応援に来てもらっています。これは重要な戦力になっています。
現地でお話を聞くと、東京で考えていてはわからない、いろんな課題があります。職員も避難生活をしているので、避難所や仮設役場で寝泊まりしています。この方たちにも、休息を取ってもらう必要があります。
科学技術と政治決定
日経新聞連載「科学技術の役割ー原発事故に学ぶ」。6月1日は、田中耕一さん(島津製作所、ノーベル賞受賞者)でした。
・・東日本大震災が発生した3月11日以来、科学技術に携わる者として、もっと貢献できることがあったのではないかと悔やむ思いの一方で、科学技術にはまだやるべきことがたくさんあると痛感した。津波や地震のメカニズムはもちろんのこと、自然にはわからないことが数多くある。宇宙や地球の内部は当然、人間の内部ですら科学はその一部しか解き明かしていない。
にもかかわらず、我々にはもう学ぶべきことはないという過信や傲慢さがあったのではないか。地震や原発事故は、やるべきことがまだまだたくさんあることを示した。日本の科学技術はダメだと落ち込むよりも、新たな課題を与えられたと受け止め、再出発の起点にすべきだと考える・・
福島第1原発事故の背景には、技術への過信があったと思える。そもそも「絶対安全」な技術はあり得ない。「想定外」の大津波と表現されたが、わかったところだけが想定できるわけで、それをもとに大丈夫と言っていただけだ。
ただ、「絶対安全」といわなければならない雰囲気があったのかもしれない・・
原発の過酷事故が起きる可能性はないことが前提となるから、事故発生時の対策を考える必要はないという思考停止状態になってしまう・・
筆者は、日本の科学技術の問題点を指摘するよりも、今回の震災や原発事故を、科学技術が前に進むきっかけにすることが重要だと考える・・
科学技術と政治決定
日経新聞経済教室は、5月30日から「科学技術の役割ー原発事故に学ぶ」を連載しています。30日は、失敗学の畑村洋太郎先生でした。
・・東日本大震災で津波被害や福島第1原発事故を拡大させた背景として共通するのは、自然や原子力という本来制御しきれない対象物を「完全に制御できる」と人間が考えたことではないか。人間には、見たくない物は見ない、考えたくないことは考えない、都合の悪い事柄はなかったことにするという習性がある。
・・宮古市田老地区では、新しい防潮堤は津波で破壊されたが、昭和8年の大津波直後に設計された防潮堤は原形をとどめている。新しい堤防は湾口に対して直角に、真正面を向いて建設されている。だから津波の勢いをまともに受けて破壊された。これに対し、古い堤防は湾口に対して斜めを向いている。津波の圧力を真正面から受け止めるのではなく、山の方へ逃がす設計になっている。先人は、どれだけ巨大な防潮堤を建設したところで、津波を完全に押し返すことはできないと悟ったのだろう。水が入ってきたとしても、退避のための時間稼ぎができればいいという発想だ・・
・・かつて訪ねた時に、田老地区の古い防潮堤の水門を、手動で開閉していた。「なぜ手動なのか」と問うと、「電動では、電気が来なくなると閉められないでしょう」。案内人は答えた。福島第1原発ではほとんどの電源が失われたことで、原子炉を冷却できなくなり、過酷事故につながった。この水門の事例は、外部との関係が遮断されて電気が来なくなるような最悪の事態を想定することがいかに重要かを示している・・
・・「想定外」との見方について思うのは、人間はあらかじめ想定の及ぶ範囲を決めないと考えられず、範囲の確定でようやく考えられるということだ。しかし範囲を決める線引きの際に「欲・得・便利さ」が入り込む・・(要約してあります)。
5月31日は、松本紘京都大学総長でした。今回の大震災と原発事故が、科学への不信を生んだことに関して、次のように述べておられます。
・・筆者は、科学そのものに対する不信というより、科学情報が正確に伝わらない、言い換えれば、科学情報の活用に関する不信が今問題なのだという点を強調したい。
原発事故を例に取ろう。「想定外」という言葉が流行になった。だが科学的な知見として、マグニチュード9以上の地震が起こらないと科学者が言っていたわけではない。地震学者は、明らかにそうした巨大地震が過去にも起きたことを知っていた。反論があることを承知で言えば、「想定」したのは、政府であり事業者であり、科学的知見を基に確率や利益などを勘案し、社会的、経済的な観点から設定されたものが想定値であった。大本の科学の知識が間違っていたわけではない。
科学とは、何ができるか、なぜ起こるか、どうなっているのかを明らかにするためにある。一方、政治は、何をするかという意思を実現するのが役割であろう。What we can doをつかさどる科学と、What we will doを担う政治を混同してはいけない・・