カテゴリーアーカイブ:社会の見方

酒井大輔著『日本政治学史』

2025年1月31日   岡本全勝

酒井大輔著『日本政治学史-丸山眞男からジェンダー論、実験政治学まで』(2024年、中公新書)を紹介します。
宣伝文には、「「科学としての政治学」は、どのような道程をたどったのか――。本書は、戦後に学会を創り、行動論やマルクス主義の成果を摂取した政治学が、先進国化する日本でいかに変貌してきたのかを描く」とあります。
丸山眞男、升味準之輔、京極純一、レヴァイアサン・グループ、佐藤誠三郎、佐々木毅先生たちが取り上げられています。私にも、なじみの深い先生たちです。他方で、取り上げられていない先生方もおられます。

戦後日本の政治学がどのようなことについて、どのような分析手法で立ち向かったか、簡潔にわかります。
戦前の国家学や戦後のマルクス主義など、今から思うと、よくこんなものが学問として通用していたのだなあとあきれます。その後、科学としての政治学を確立しようとするのが、戦後日本政治学でした。

学者の数だけ政治学がある、と言われる世界です。政治学も発展したことで、分野や分析手法が多岐になりました。それらをどのように分類するか。識者によって異なるでしょう。この本も、一つの見方です。
政治学には、たくさんの教科書があるのですが、「定番」がないようです。私の言う「知図」があれば、わかりやすいのですが。

この本は、歴史的にどのように変わってきたかを取り上げています。できれば、この80年間で、日本政治について何がわかって、何がわからないのか。また、政治学は、日本政治をどのように変えたのかを知りたいです。
日本政治と言えば、報道機関(新聞やテレビの政治部)による分析もあります。こちらは、どのような貢献をし、どのように変わってきたのでしょうか。
佐々木毅著『政治学は何を考えてきたか』(2006年、筑摩書房)を思い出しました。

私ならどのように書くかを思いつつ、よい考えはまとまりません。

 

保育園長検定

2025年1月31日   岡本全勝

1月25日の読売新聞夕刊に「保育園長検定あす実施 運営能力向上目指す」が載っていました。保育士には資格が必要なのに、園長にはなかったのですね。営利に走る園や事故を起こす園があります。資格は必要ですよね。

・・・保育園の園長や経営者らの能力向上を目的とした「保育施設運営管理士検定(園長検定)」が26日、初めて実施される。保育士の職場環境改善などに取り組む一般社団法人「未来創造連携機構」(川崎市)の主催で、同法人は「園長に必要な能力の指標になれば」としている・・・

・・・斉藤さんは「職場改善には園長の管理能力や意識改革が欠かせない」と訴えるが、園長への昇格基準は特になく、保育士から管理経験が浅いまま園長になるケースもあるという。

園長検定は、同法人に参加する人材コンサルタントや福祉の研究者らと考案した。労働基準法の規定やコンプライアンス、コミュニケーション、リーダーシップなど、幅広い分野から園の管理業務につながる内容を出題する。
受検を申し込んだ横浜市内の保育園長は、「園長としての知識がどの程度あるか知りたかった。受検で得た知識を保育士にも共有したい」と話した。
斉藤さんは「合格すれば専門知識のある保育園だと示すことができる。保育士や保護者、園児を守ることにつながってほしい」と期待している・・・

佐伯啓思先生「SNSが崩した近代社会の大原則」

2025年1月30日   岡本全勝

2024年12月25日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思先生の「SNSが壊したもの」から。いつもながら鋭い分析です。原文をお読みください。

・・・21世紀は情報社会であり、それを支えるものはデジタル技術である。この20~30年におよぶデジタル革命は、まちがいなくわれわれの生活を大きく変えてしまった。とりわけSNSが社会に与える影響は途方もなく大きく、様々な問題を生み出している・・・
(トランプ現象などを取り上げたあと)
・・・欧米においても日本においても、「既存のマスメディア」は、基本的に近代社会の「リベラルな価値」を掲げ、報道はあくまで「客観的な事実」に基づくという建前をとってきた。そして「リベラルな価値」と「客観的な事実」こそが欧米や日本のような民主主義社会の前提であった。この前提のもとではじめて個人の判断と議論にもとづく「公共的空間」が生まれる。これが近代社会の筋書きであった。
SNSのもつ革新性と脅威は、まさにその前提をすっかり崩してしまった点にある。それは、「リベラルな価値」と「客観的な事実」を至上のものとする近代社会の大原則をひっくり返してしまった。民主政治が成りたつこの大原則が、実は「タテマエ」に過ぎず、「真実」や「ホンネ」はその背後に隠れているというのである。「ホンネ」からすると、既存メディアが掲げる「リベラルな価値」は欺瞞的かつ偽善的に映り、それは決して中立的で客観的な報道をしているわけでない、とみえる。

一方、SNSはしばしば、個人の私的な感情をむきだしのままに流通させる。その多くは、社会に対する憤懣、他者へのゆがんだ誹謗中傷、真偽など問わない情報の書き込み、炎上目当ての投稿などがはけ口になっている。SNSは万人に公開されているという意味で高度な「公共的空間」を構成しているにもかかわらず、そもそも「公共性」が成立する前提を最初から破壊しているのである。
今日、公共性を成り立たせている、様々な線引きが不可能になってしまった。「公的なもの」と「私的なもの」、「理性的なもの」と「感情的なもの」、「客観的な事実」と「個人的な臆測」、「真理」と「虚偽」、「説得」と「恫喝」など、社会秩序を支えてきた線引きが見えなくなり、両者がすっかり融合してしまった。「私的な気分」が堂々と「公共的空間」へ侵入し、「事実」と「臆測」の区別も、「真理」と「虚偽」の区別も簡単にはつかない。SNS情報の多くは、当初よりその真偽や客観性など問題としていないのである。「効果」だけが大事なのだ。これでは少なくとも民主的な政治がうまく機能するはずがないであろう・・・

・・・通常の財やサービスについては消費者は対価を支払う。それが市場の原則である。しかしSNSのような情報取引においては、消費者(使用者)は対価を支払わない。「いつでも、どこでも、誰とでもつながる無料のサービス」という奇妙なものが市場経済の中枢で無限に自己増殖してゆくのだ。
一方、プラットフォームの製作者や管理者は、大きなコストを必要とせずに広告収入で労せずして世界の支配者となってゆく。プラットフォームを使用するインフルエンサーはあちこちに自分の領地をもつ小ボスになる。そしてそれと連動するかのように、「既存のメディア」は力を失い、既存の民主政治は機能不全に陥ってゆく。
これは、高度な公共性をもつはずの情報・知識や通信ネットワークという「公共財(万人のインフラストラクチャー)」を、公的部門の管理にではなく、私的な市場競争に委ねた結果であった。

何かが間違っていたのだろうか。いやそうではあるまい。それはわれわれが、近代社会をとことん推し進めようとした結果ではなかろうか。
なぜなら、近代社会は、なんといっても個人の自由と幸福の追求に絶対的な価値を認めてきたからである。個人の活動の障害となる、既存の権力や伝統的権威、集団の規律、国境のような恣意的な線引きにはあくまで抵抗してきた。そしてそれが行きついた先が、グローバリズムであり情報革命である。ここでは個人の自由は最大限発揮される。
情報化にせよSNSにせよ、もとは権威主義的な政府に対抗する左翼リベラル派の戦略であった。しかし、皮肉なことに、情報ネットワークで世界を結ぶという計画を打ち出した民主党のクリントン大統領の情報革命が、その30年後には、トランプ氏の大統領返り咲きをもたらして民主党を窮地に追い込んだのである。
SNSのような「何でも表現できる自由なメディア」を称揚してきたのは、近代社会の「リベラルな価値」の信奉者である。とすれば、SNSによる政治と社会の混乱は、ただこの技術の悪用というだけの問題ではない。それはまた、近代社会を支えてきた「リベラリズム」という価値観の限界を示しているとみなければならないであろう・・・

『風呂と愛国 』

2025年1月29日   岡本全勝

川端美季著『風呂と愛国 「清潔な国民」はいかに生まれたか』(2024年、NHK出版新書)を読みました。

日本人は清潔で風呂好きだと言われます。では、いつ頃からそうなったのか。江戸時代に風呂屋・銭湯が広まったとのことですが、庶民はどの程度の回数で使っていたのでしょうか。本書を読んでも、明確な統計はないようです(私が見落としたかも)。

風呂を沸かすとなると、湯船と洗い場という施設、給水と加熱設備が必要です(東日本大震災の際も、避難者に風呂を提供することは難しかったです)。庶民の家にはなく、風呂屋に行くしかありません。しかし有料ですから、貧乏人がどの程度の頻度で利用したのでしょうか。また、銭湯が成り立つには一定規模の利用者が必要ですから、小さな集落ではどうしたのでしょうね。

明治以降は、本書に書かれているように、国策として清潔が教育され、公衆浴場も広げられます。
ところが、1942年(昭和17年)に沖縄県で調査したところ半年以上入浴していない児童がいるので、学校が風呂を作ったことが紹介されています。これを見ると、国民全員が多い頻度で入浴していたわけではなさそうです。

孤独とともに発展したコンビニ

2025年1月29日   岡本全勝

2024年12月8日の日経新聞日曜版に「「家庭」を商品化したセブンイレブン50年 孤独を伴って」が載っていました(これも古い記事ですが、速報性とは関係ないので許してください)。

・・・・セブンイレブンが日本に登場して今年で50年を迎えた。小さなスーパーなのか、新しいよろず屋なのか、誕生間もない頃はなんとも形容しがたい「異形の商店」だったが、2万店を超える巨大チェーンに成長。その影響力は世界にも及び、ついにカナダの同業と創業家による数兆円規模の買収合戦にまで発展した。

改めてセブンとは何だったのか? なにがここまで消費者、ビジネス界を魅了しているのか?
歴史を振り返ると、日本の家庭生活に深く入り込むと同時に「日本型個人社会」の発達がセブンやファミリーマート、ローソンなどコンビニエンスストアを世界に類のない小売業に育ててきたように思える。

1号店がオープンした1974年はダイエー主導の流通革命が進行し始めた頃だ。それは価格革命だった。大量仕入れ・大量販売で食品からテレビまで物価を下げ、夫婦と子供ふたり家族を主な顧客層として「経済の民主化」を推し進めた。
しかしセブンは違う。価格ではなく、「便利さ」と「習慣」に着目したのだ。例えば専業主婦という言葉が定着したのは高度成長期で、仕事が忙しい夫とこれを支える妻という「分業」が効率的だったからだ。まるで家庭の「原風景」にも見えた専業主婦型モデルだが、実は70年代には変化しつつあった。
分業化は落ち着き、女性の就業率は上昇していく。例えば1978年には「結婚しない女」という映画がヒット。女性の自立をテーマとした内容で、まさに意識と行動変化を映していた。セブンの創業者である鈴木敏文氏の口癖はまさに「社会の変化を捉える」。今の社会の半歩先にこそ、コンビニの潜在的なニーズがあると確信していた。
とは言いながらも、実はセブンも最初は品ぞろえに困惑していた。親会社のイトーヨーカ堂で若い顧客が買っていそうなものを置いたり、日本は生もの需要が多いのでスーパー的に生鮮品を置いたり、試行錯誤が続いた。購買経験を見ているうちにようやくコンセプトが定まった。「調理する必要のある生鮮品は不要で、調理しなくていい食品を柱にする」
まさに「家庭の商品化」こそがセブンおよびコンビニの成長源となったわけだ。鈴木氏はこんな発言をしている。「おにぎりやお弁当は日本人の誰もが食べるものだからこそ、大きな潜在的需要が生まれる。良い材料を使い、徹底的に味を追求して、家庭でつくるものと差別化していけば、必ず支持される」・・・

ここまで日本型コンビニが成長した背景には、おひとり様社会の成熟化も無視できない。博報堂生活総合研究所は年初に個の時代の幸福をテーマとしたイベント「ひとりマグマ」を開催し、日本の「ひとり」史を披露している。コンビニが誕生してきた1970年代は「ひとりなんてありえない」時代と位置づけていたが、2010年以降は「ひとりでも気にならない」時代と見立てる。
ひとりマグマでは「肌感覚だが、日本はファストフード店やコンビニなど世界で最も『ひとりになれる』施設が多い国だと思う」(大室産業医事務所の大室正志代表)という識者の声も紹介している。とりわけコンビニが成長してきた1990年代以降、企業や家族などの集団秩序は崩れつつある。

そもそも日本は内向きな国民性だ。ひとりで楽しめる数々の武器を手にして、縛りの強い共同体から解放された「超・個人社会」が日本で育まれているのではないだろうか。コンビニはそんな日本型個人主義と共鳴しつつ、世界でも類のない産業に変貌した。まさにコ(個)ンビニ。飽和化しつつも社会とさらに融和しながら、「異形」の小売りとして存在感を増していく気がしてならない。もちろん孤独という社会問題をはらみながらのことだが・・・
一人で過ごすクリスマス?