カテゴリーアーカイブ:社会の見方

新聞、署名入り記事

2014年5月10日   岡本全勝

今朝5月10日の朝日新聞1面を見て、おやっと思いました。全ての記事に、記者の署名が入っていました。いつからそうなったのだろうと聞いてみたら、社会部や経済部は2005年頃から原則署名入りだそうです。政治部が最近から署名を原則にしたそうです。1面は政治部記事が多い、また私が読むのは政治部が多いから、私が気づかなかったのですね。
私は、署名入りが良いと思います。責任がはっきりします。もちろん、社内で上司の手が入り、また入らなくとも社の方針に従うので、記者個人の思いを全て書くわけではありませんが。署名入りの方が、記者も張り合いが出るでしょう。無署名は、無責任になります。これは、ブログにも当てはまります。
毎日新聞は、早い時期から署名入りが原則でした。次は、社説にも、執筆担当者の名前を入れて欲しいです。社説は、論説委員が合議して書くようですが、執筆担当者はいます。それを、明らかにすると良いと思うのですが。

社会革命、コンビニ

2014年5月6日   岡本全勝

日経新聞連載「シリーズ検証、流通革命50年の興亡」4月27日は、「コンビニ市場、10兆円目前」でした。コンビニは、中小商店が多い日本での定着は難しいと、いわれていたのだそうです。それが社会に溶け込み、日本中どこに行っても、見慣れた看板を見つけることができます。私たちの暮らしに、なくてはならないものになりました。
食べ物や飲み物、それも新鮮でいろんな種類があります。小売り以外のサービスも、すごいです。コピーにファックス、公共料金の支払い、チケットの予約、宅急便の発送と受け取り。各種サービスの「端末」であり、社会インフラです。店員の多くはアルバイトでしょうが、仕事を覚えるのは大変だと思います。
1999年、ダイエーが経営不振のため、子会社のローソンを売り出しました。複数の総合商社が経営権獲得に動き、三菱商事が勝ちました。当時、三菱商事で買収後の事業計画を策定した、新浪剛史、後のローソン社長は、「事業計画書の青写真はバラ色だった。魅力ある約7千店のネットワークを金融、IT(情報技術)の拠点に使う。あの時のコンビニ株はIT銘柄だった」と語っておられます。しかし、新浪社長がローソンで最初に手がけたのは、おにぎりをおいしくすることだったそうです。「コンビニの原点は、毎日お客さんが手に取ってくれる食べ物。ITのような仕掛けではなかった」。
人間の予想は、研究者でもその道のプロでも、当たらないことも多いようです。後から見ると、当たった場合も外れた場合も、それなりの理由があります。
記事には、次のような記述があります。
・・非効率な中小商店を生産性の高いコンビニに転換させたセブン・イレブンに対して、経営学者ピーター・ドラッカーは「社会革命」と称した・・
わずか100平方メートルほどの売り場、一つひとつは100円とか200円ほどの商品。それを、商社が経営する。結びつかないですよね。40年前に伊藤忠商事も、商社ビジネスの間尺に合わないと判断したのだそうです。
しかし、個人商店では難しい、大量・他品種の仕入れ、POSによる売り上げと在庫管理、途切れない商品の補給、進化し続ける仕組みを、商社の力で成し遂げたのでしょうね。各店舗、各商品、各サービスの後ろにある「支える仕組み」があって、初めてできることです。個店では、できないのです。ある地方に出店をお願いしたら、「その地域までシステムが伸びていない(中継拠点がない)」ことを理由に、断られたという話を聞きました。
鷲巣力著『公共空間としてのコンビニ―進化するシステム24時間365日』 (2007年、朝日選書)は、少し古くなりましたが、勉強になりました。

新4大工業地帯

2014年5月1日   岡本全勝

「新4大工業地帯」という記事を、教えてもらいました(日経新聞5月1日、国内生産再生で脚光 「新4大工業地帯」はココ )。どこだと思いますか。私は、全く外れました。詳しくは、本文を読んでください。
4大工業地帯だけでなく、新しい工業集積地、発展可能性の地ができつつあります。これまで、政府は何度も、自治体もそれぞれに、企業誘致や工業団地を作ろうと試みました。古くは新産・工特地域、後にはテクノポリス、近年では特区です。かつては、国土庁という役所があり、地方振興局という部署もありました。経済産業省には、地域経済産業グループがあります。
政府の思ったようにはなりませんが、このようにして、できてくるものなのですね。

生命倫理をどう議論するか。政治と生命倫理、2

2014年4月30日   岡本全勝

そして、もう一つこの問題が提起していることがあります。それは、専門家に任せておけないということです。
まず、科学一般について、科学者や技術者に任せておけないということが、原発事故でわかりました。核分裂によって大きなエネルギーが取り出せること、そしてそれをうまく制御すれば役に立つことまでは、科学者と技術者に任せておけば良いです。しかし、それを実際に建設し運転するか、運転する際にはどのような安全装置をつけるか。それを専門家任せにはできないことが、今回の事故で示されました。もちろん、私たち素人が審査や検査をする訳ではありません。誰にどのように委ねるか。それを決めるのは、国民であり政府であり、国会です。
よく似た例を上げれば、軍隊は専門家集団です。戦闘を素人が行うわけにはいきません。しかし、その編成や出動範囲を、政府が監督する必要があるのです。シビリアン・コントロールです。それと似ているでしょう。警察についても、同様です。
さて、今挙げた例は、専門家集団に委ねなければならないが、その管理と制御は政治が行わなければならないということです。

他方、何をもって人の死と認めるか。どこまで延命治療は認めるのか。遺伝子はどこまで改変して良いのか。これらは、基礎的事実は専門家の説明に頼るとして、その判断を国民が決めなければならないという、もう一つの専門家に任せられない問題です。
そこには、どこで線を引くのかという一般的な判断が、一つあります。そして、自分の家族がそのような状態になったときに判断を迫られるという個別の避けられない判断の、二つの問題があります。
前者については、政府や国会で決めなければなりません。しかしこれは、これまで政治が扱ってきた、安全や公平や経済といった課題ではなく、どちらかといえば避けてきた問題です。科学者や経済学者に意見を聞いて決めるというものではないのでしょう。また、どこに専門家がいるのでしょうか。医者ではないでしょう。彼らは技術については意見を述べることができますが、人の命を決めるといった判断はできません。哲学者も、これまでの議論を整理してはくれるでしょうが、「各人が考えることです」と答えるでしょう。相談できる専門家がいるとしたら、宗教家でしょうか(出版物を検索すると、医学部で哲学者が教えている例があるようです)。
後者については、出生前診断結果で、おなかの赤ちゃんに異常が発見された場合に、生むのか生まないのか。寝たきりの家族が苦しんでいる場合に、どこまで延命治療を続けるのか。いずれにしても、専門家に任せるだけではすまず、あなた自身の判断が求められます。原発稼働の問題や戦争については、「私は素人なので、政治家に任せます」という言い逃れもありますが、延命治療や人工中絶については素人であろうがなかろうが判断を迫られます。

生命倫理をどう議論するか。政治と生命倫理

2014年4月29日   岡本全勝

尾関章著『科学をいまどう語るかー啓蒙から批評へ』(新聞報道を自己検証する。4月26日)には、次のような指摘もあります。
遺伝子など医療や生殖の倫理をめぐる問題についてです(p109、p175)。日本に比べ、欧米では政治家のこの問題に関する感度が高いのです。それは政治家だけの意識でなく、有権者の関心を代弁しているのだろうということです。
アメリカでは、1970年代に連邦議会に置かれた技術評価局(OTA)が、遺伝子鑑定による証拠の問題について指摘しました。また、大統領選挙戦で、医療と生命倫理の問題が大きな争点になります。 フランスでは、1994年に生命倫理法を定めました。そのときのことが、紹介されています。「法案審議の際に、議員一人ひとりが自分の立場で討論した。発言も、主語は「我々」ではなく、「私」がほとんどだった」。
臓器移植の際には、提供者をどの時点で死と認めるか、特に脳死が問題になります。日本でも1990年代初めに、脳死臨調が作られました。これは政府の審議会の一つですが、審議会の答申で生と死の境目が決まるわけではありません。臓器移植法は、1997年に作られました。また、臓器移植の際に、「本人同意」をどう確認するかの問題もあります。これは、子どもについて大きな問題になりました。小さな子どもに臓器移植するには、子どもからの提供でないと、大人の大きな臓器では手術できない場合があります。これについては、2009年の法改正で家族の同意でできるようになりました。この法案の採決の状況を、覚えています。他の法律とは違った雰囲気でした。1つの案の可否でなく、4案が提案され採決されました。
この問題は、医者ではなく、政治に大きな議論を提起しています。先端医療や遺伝子解析は、どこまで利用してい良いか。人体を管理して良いのか。延命治療はどこまで行うべきか。人工中絶はどこまで認めるのか。出生前診断で胎児に大きな異常が発見されたらどうするか。本人が望むことなら、何をしても良いのか。それを、誰がどのように決めるかです。
これらは倫理の問題であって、安全や経済や公平といったこれまで政治や法律が扱ってきた社会問題と違った次元にあります。そして、個人個人の考えが異なり、宗教とも近いです。これまで学校では議論されず、また学問や行政とも「離れた世界」で扱われてきました。極端な言い方ですが、「命の大切さ」「個人の平等」という言葉以上の、踏み込んだ議論はされてこなかったのです。戦後日本においては、政教分離という原則で触らずに来たのですが、臓器移植や遺伝子治療で、避けて通れなくなったのです。
すると、これまで政府や国会で議論してこなかったテーマであり、マスコミでも議論してこなかった分野なので、それをどう扱ったら良いかという「作法」が必要になります。
政府内では、どの省が所管するのかという問題になります。医療は厚生労働省ですが、ここで取り上げているのは「生命倫理」です。また学問としては、何学部の範囲になるのでしょうか。個人の内面には立ち入らないというのが、近代民主主義国家の原則ですが、この問題は内面ではありません。憲法が想定していなかった状況、近代民主主義も想定していなかった問題かもしれません。