カテゴリーアーカイブ:社会の見方

新たな階級区分、イギリス。その2

2020年2月23日   岡本全勝

新たな階級区分、イギリス」の続きです。

階級とは、客観的に存在するものではありません。人が、他人とは違うと意識することによって生まれます。そして、1人が意識するのではなく、その社会の多くの人が同様に意識することによって定着します。その「違い」が何か。見る人によって、階級の定義は異なります。
盛山和夫先生の『社会学とは何か』(2011年、ミネルヴァ書房)の、あとがきを思い出しました。先生は卒論で「階級とは何か」に取り組み、挫折します。「階級概念をどう定義すべきか」という問が解けなかったのです。その理由は、階級は客観的に実存しているのではなく、理念としてつくられたものだったからです。

日本では、明治維新で士農工商の身分が廃止されました。戦後改革で華族制度廃止、財閥解体、農地解放が行われ、身分区別がなくなり、また大金持ちがいなくなりました。さらに、経済成長を通じて平等化がすすみ、「一億総中流」と言われる、世界でも希な平等社会が実現しました。
かつてのような、生まれによる階級は薄くなりました。努力すれば、収入や社会的地位を得ることができます。

それでは、階級はなくなったのか。いえ、依然として存在します。上流、中流、下流という区分を、私たちも使います。さらに、近年では、格差拡大が大きな問題になっています。階級の元祖である経済的格差が、復活しているのです。
その元になるのは、
・高学歴を目指すことができるか(各人の努力の前に、家庭の事情で塾や有名進学校に行けるかどうか、出発点において差が出ています)
・職が正規化非正規か(労働者と経営者の対立より、こちらの差の方が実質的になりました)
などでしょう。

新たな階級区分、イギリス

2020年2月22日   岡本全勝

マイク・サヴィジ著『7つの階級 英国階級調査報告』(2019年、東洋経済新報社)を紹介します。既に、いくつか新聞書評欄で取り上げられています。

階級(class)は、かつて社会を分析する際の主要な切り口でした。身分、資産、職業による人(家族)の区分です。
王侯貴族、聖職者、農民、商工業という身分があり、その職業と資産・収入が結びついていた時代は、階級がはっきり分かれていました。そして、変動も少なかったのです。
その後、商業の発展と産業革命で、事業主が台頭してきました。それらの変化も受けつつ、上流(伝統的金持ちなど)、中流(経営者や管理職)、下層(労働者)という階級は、数十年前までは意味をもっていました。各国の歴史によって、身分の差は違います。市民革命の程度によってもです。しかし、多かれ少なかれ、格差や階級はありました。
ところが、学歴と才覚で所得や地位を得ることができる次代になり、また他方で土地だけが主要な資産と収入の要素でなくなると、かつての階級区分は意味をもたなくなりました。

本書が提案した新しい指標は、経済資本、文化資本、社会関係資本です。最上層のエリートと、何も持たない最下層のプレカリアート(不安定な無産階級)の間に、幅広い中流層が存在します。著者らはこの中流を、これら3つの資本で5つに分類し、合わせて7階級にし分類しました。
1.エリート
2.確立した中流階級
3.技術系中流階級
4.新富裕労働者
5.伝統的労働者階級
6.新興サービス労働者
7.プレカリアート

経済資本(所得・貯蓄・住宅資産)、文化資本(学歴・趣味・教養)、社会関係資本(人脈)によって階級を定義するとは、斬新ですね。
それをどのように評価するか、人によってさまざまでしょう。私は、成功していると思います。
連載「公共を創る」で、個人の財産と社会の財産を分類する際に、私は、ここで取り上げられている文化資本と社会関係資本を用いました。社会学者が、人や家族を分類する指標としてこれらを使っていることに、意を強くしました。連載第30回で、この本を紹介しました。
この項続く

移民の受け入れと日本文化の維持

2020年2月21日   岡本全勝

2月14日の日経新聞経済教室、フランソワ・エラン、コレージュ・ド・フランス教授の「移民問題を考える(上) 「経済利益」偏重の政策 避けよ」に、次のような指摘があります。

・・・日本は明治時代や終戦後などの時期に、外国文化との衝突に伴う深刻なアイデンティティー(主体性)の危機を乗り越えてきた。そのたびに日本文化は生き残った。世界の人々が憧れる日本文化は、文学、伝統芸能、食事作法、技術革新などにより拡散している。日本を訪れる旅行者は、人間関係、居住空間、自然との共生、洗練された文字、文化遺産といった日本文化の魅力に圧倒される。

人口に占める移民割合が10%になったからといって日本文化が脅かされるようなことがあるのだろうか。日本人は、自身の文化は外国人の流入に対して脆弱だと思っているのだろうか・・・フランスで過激化した一部の集団による襲撃事件が発生しても、フランスの社会や文化は揺らぐどころか、かえって頑強になった。ここにパラドックスがある。

硬直的な社会は頑強でなく、閉じた社会は持続的でない。民族的な均一性を守ることは安心感をもたらすかもしれないが、それは長期的には維持できない神話だ。日本文化自体も様々な起源を持つ。日本文化とは、元のそうした多様性に投げ込んだ網の中身であり、あちこちで釣ってきた要素の組み合わせではない。
現在、偉大な国の文化は外国で輝き、音楽や料理は世界を駆け巡っている。人間も同様かもしれない・・・

イオンとセブンイレブン、勝利の後に

2020年2月20日   岡本全勝

2月13日の日経新聞オピニオン欄、中村直文・編集委員の「流通0強の時代に セブン・イオン、拡大の大義薄れる」から。イオンがスーパー業界で、セブンイレブンがコンビニで、拡大路線で勝利したことを紹介した後で。

・・・流通2強の競合時代を振り返れば、安さだったり、便利さだったり、消費者が望む"大義"が成長の原動力となってきた。2強は平成の三十数年の間、ショッピングセンター(SC)とフランチャイズ(FC)に金融を絡めたモデルでのしあがった。物量の規模で他社を圧倒、生活インフラとしての価値を生み出した。
ところが、追いすがる敵のいない頂上で、予想もしなかった逆風にさらされている。新しいデジタル消費の現実、アマゾンなど外資の攻勢に対して、足元を固めるのに精いっぱい。勢いが感じられない。業界内、消費者に対して大義を示せないのであれば、それは強者とは呼べない。その意味で、流通は「0強」の時代に突入した。

恐らくこの先、イオンとセブンを中心とした再編劇は見られなくなる。撤退した小売りや店舗の買い手はつかず、各地に荒涼とした風景が広がりそうだ。
1月に突如営業を終了した山形市の百貨店、大沼はその最たる例といえる。00年代、地方中心都市の百貨店なら必ず買い手がついた。三越伊勢丹ホールディングスが系列化を進めた札幌の丸井今井、福岡の岩田屋などがそうだ。これからは単に空き店舗になるだけ。山形県に続き、百貨店の空白県が生まれるだろう・・・

・・・日本経済の本質は海外のコンセプトやアイデアを企業がうまく取り込み、日本人の感覚に合う形にかみ砕き、市場を広げたところにある。流通だけでなく、メーカーも同じだ。島国であることも奏功し、外資からの攻勢を免れた。
だが、デジタル時代で風景が変わった。実物に頼らない経済のソフト化はアイデアなど知的資産がものを言うし、リアルタイムの勝負になる。産業界はこのことを理解しながら手を打てていない。かつての強者が苦しむ姿は流通だけではない。電機、情報機器など様々な分野で、業界をけん引してきた巨人企業が方向感を見失っている。ネット産業も強者は海外。国内に世界企業はいない。

もっとも消費者は楽しんでいる。アマゾンやフェイスブック、ディズニーランドやユニバーサル・スタジオを。だがこれでは国力があがるとはいえない。インバウンドであれ、アウトバウンドであれ、世界で売れるグローバルコンテンツがない限り、どんどん国民の消費の棚は海外で埋め尽くされる。令和の時代、自立性なき未来を楽しんでばかりもいられない・・・

小此木政夫・教授、韓国併合

2020年2月19日   岡本全勝

小此木政夫・慶應大学名誉教授、日韓歴史共同研究」の続きです。ウエッブ「論座」「韓国併合は「植民地化」でなく「同化」だった」から。

・・・まず、1910年から1945年まで朝鮮半島が日本によって植民地化されたという、歴史教科書でも定着している表現について、「『植民地化』という表現は決して正確ではない。韓国を『併合』することであり他民族の『同化』でした。だからこそ、日本への反発がずっと続くことになったのです」と語る。

「日本に併合された後に、朝鮮民族が自我(アイデンティティー)を失っていく過程が続くわけです。あれが併合条約でなくて保護条約の段階でとどまっていれば、ずいぶん違っていただろうと思いました。保護条約というのは、外交権を奪って保護国化するわけですから、歴史的に見れば中国が朝鮮に対してやっていたことと変わらない。それを日本が代わってやるようなものだった。東洋的な宗主権でした。

しかし、併合というのは中国さえしたことがない。併合は同化政策だから植民地化政策とは根本的に違います。英国が香港にしたような植民地化ではないのです。香港は99年間の租借でした。例が適当かどうか分かりませんが、日本の戦国時代に尾張の国が美濃との戦に勝って、美濃を丸ごと尾張にしてしまうようなものです。日本人の感覚としては、そうだったのではないでしょうか?」

「同化」を強いたことと、その後の反発は、必然的な結びつきがあるとも言う。
「完全に同化されれば、内地と全く一緒になるわけですから平等が保障されるでしょう。差別などしていないという議論にもなりうるわけです。しかし、同化のプロセス(過程)というのは朝鮮人がアイデンティティーを失う過程です。だから独立すれば、アイデンティティーを回復しなければいけない。そのためには、日本的なものを排斥していくのが当然に必要な作業です。その作業から出発するのです。

それだけで全部を説明することはできませんが、日本的なものがなぜこれほど韓国で排斥されるかというかなりの部分が、アイデンティティーの問題として説明できるのではないでしょうか。だから、韓国人が日本から独立して両国関係を正常化した後になっても、なおかつ現代史を語る時、自分たちのアイデンティティー、自画像を守ろうとするわけです。もちろん、日本人も自らの自画像を語る。その結果、戦後70年の首相談話などの節目節目で、日韓のアイデンティティーが衝突することになるのです」・・・