「社会の見方」カテゴリーアーカイブ

学位あっても就職難、ブルーカラー選ぶ

10月28日の日経新聞夕刊に「AI猛進の米国、若者の働き口に異変 学位あっても就職難→ブルーカラー選ぶ」が載っていました。

・・・人工知能(AI)と生きる日常はもはや未来の絵物語ではない。AIが知的労働を担うことで大卒の就職難が深刻になり、電力の大量消費はデータセンターに近い地域の電気料金を急速に押し上げている。見えてきたのは、AIは高成長をもたらすが雇用などの恩恵には偏りがあるという現実だ。いち早く導入が進む米国の現状を追った。

米国の就職戦線に異変が起きている。全米で学生情報を集約するナショナル・スチューデント・クリアリングハウスによると、2025年春は配管工や大工などの技術を習得する職業訓練校の入学者数が前年から12%増えた。伸びは大学入学者の4%増を大きく上回る。
数年前から強まったこの傾向の背景には、AIで変わる将来への不安がある。調査会社コンジョイントリーが10~20代のZ世代の親を対象に実施した今年の調査では「大学の学位があれば長期的な雇用安定が保証される」と答えた割合が16%にとどまり、77%が「自動化されにくい仕事」を選ぶことが重要と指摘した。

米フォード・モーターのジム・ファーリー最高経営責任者(CEO)は6月、「AIによってホワイトカラー職の雇用が半減する」と予想。熟練工を確保する重要性を訴え、若者の職業訓練校へのシフトを歓迎した。
こうした動きにはもっともな理由がある。米国の失業率は全体でみれば4%台前半で安定しているが、大卒前後の「20~24歳」に限ると2024年12月の7.5%から25年8月には9.2%まで上昇した。
キャリアを持たない若者の失業率は振れ幅が大きく、景気減速局面でいち早く上昇するのは珍しいことではない。ただ、今回苦労しているのは高卒などの比較的学歴の低い層ではなく、いつもは景気変動の影響を受けにくい大卒であることに特徴がある。

米スタンフォード大学デジタル経済研究所の教授らは8月の論文で、AIの台頭によりソフトウエア開発の分野で22~25歳の雇用が22年後半のピーク時から25年7月までに約20%減ったとの試算を示した。コード生成などの体系化された知識はAIに代替されやすい。顧客の問い合わせに応じるカスタマーサービスでもAIの活用が進む。
「AIによる雇用喪失の初期段階を目撃している可能性がある」。セントルイス連銀のエコノミストらも8月にAIと失業増の関連を認めた・・・

小中高生の半数、読書0分

10月26日の日経新聞に「「読書0分」小中高生の半数、スマホ時間長いほど短く」が載っていました。

・・・1日に全く本を読まない子どもは半数超――。ベネッセコーポレーション(岡山市)が2024年に小中高生や保護者に尋ねたところ、読書をしない(0分)との回答が52.7%で、15年調査時の34.3%から約1.5倍に増えた。一方、スマートフォンの使用時間は延びており、長いほど本を読む時間が短くなる傾向がみられた。
同社が25日までに発表した。調査はベネッセ教育総合研究所と東大社会科学研究所の共同実施で、無作為に抽出した同一の親子を対象に15年から継続して調べている。24年は7〜9月にインターネットで行い、約1万2千組から回答を得た。

24年調査で読書をしないとした割合は、小1〜3年33.6%、小4〜6年47.7%、中学生59.8%、高校生69.8%。いずれも15年に比べ14〜22ポイント増えた。1日の読書時間の平均は小4〜6年で15.6分、高校生で10.1分などで、15年に比べ小4以上で約5〜6分減った。
1日のスマホ使用時間(小4以上が回答)は、小4〜6年33.4分、中学生95.7分、高校生138.3分で、それぞれ15年から約22〜52分増えた。スマホの使用時間が0分の小4〜6年の読書時間は17.8分だったのに比べ、3時間以上だと9.5分に落ち込んだ。中学生もスマホが0分の読書時間は21.7分だったが、3時間以上は12.5分だった。
調査を担当した東大の秋田喜代美名誉教授(教育心理学)は「読書と学力は関連しており、授業の中で紙や電子の書籍に触れる機会を増やすことが必要だ」と指摘している・・・

福井ひとし氏の公文書徘徊7

『アジア時報』11月号に、福井ひとし氏の連載「一片の冰心、玉壺にありや?―公文書界隈を徘徊する」第7回「楽園は何処いずこに―戦前の科学技術政策」が載りました。ウェッブで読むことができます。

今回は、10月に2人の方がノーベル賞を受けられたことにあわせて、戦前の科学技術政策についてです。
日本のノーベル賞受賞第1号の湯川秀樹博士と、第2号の朝永振一郎博士が、旧制中学から大学卒業後まで、京都で同じ学校で学んでいたのです。
今回も、いろんな話が載っています。なかなか、知ることができない話です。

明治の初めに、欧米から最先端の科学技術を輸入することに努めました。御雇外国人を迎えることや留学生を送ることでです。その後の科学技術の振興については、知られていません。世界を相手に戦う(それ自体は間違いですが)軍事技術を持つためには、それを支える科学技術が育っている必要があります。政府や大学が、努力したのでしょうね。

経営の専門家をつくる2

経営の専門家をつくる」、10月16日の日経新聞経済教室、松田千恵子・東京都立大学教授「日本企業は経営のプロを生み出せるか」の続きです。

・・・より大きな問題は、教育にしろ修羅場にしろ体験する年齢が遅すぎることだ。40歳未満の社会人が管理職研修を経験する割合は米国が20.7%、中国が30.8%である一方、日本では7.4%しかない(ベネッセ教育総合研究所の調査)。経営者として実戦で輝くべき世代になってから、ようやく基本の勉強が始まる。
この傾向は、執行役員研修などで顕著にみられる。仮にも「役員」と名の付く人材が、こぞって経営や財務の基本を叩きこまれているのは実に奇妙な光景だ。オペレーショナルエクセレンスに秀でることと、マネジメントプロフェッショナルを極めることは、似て非なるものであり、日本企業に欠けているのは、早いうちから意識的に後者を選抜し、育成する仕組みや仕掛けである。

企業における「経営」や「経営者」の定義が曖昧であることも、それを目指す人々に混乱を与えている。経営の勉強はまだこれからという人材ならば、「執行役員」と呼ぶのもそろそろ見直した方が良かろう。呼ばれる側も焦るかスポイルされるかどちらかである。コーポレートガバナンス上も、法的な責任範囲が曖昧になりがちで、経営判断に対する当事者意識が希薄になるといった問題が懸念される。

「管理職」という名称も評判は悪い。本来、どんなに小さな単位でもチームを束ねる存在は「マネジャー」としてチームの経営を担うはずだ。しかし、多くの場合中間管理職はプレイングマネジャーとして働くことを求められ、マネジャーの仕事は定義もされず、経験を積むことも学習機会を与えられることもなく劣後しがちだ。その結果、マネジメント不在による問題が多発し、仕事は苦情受付と事後処理ばかりとなる。これでは管理職になりたい若者が激減するのも当然だ。

本来、経営とは統合的・俯瞰(ふかん)的な視野に立ち、人々との協働によって目指す未来を実現するエキサイティングな仕事であるはずだ。せめて管理職ではなく「経営職」と呼ぶことから始めてはどうか。
「経営」について真剣に考え、将来を担う経営者候補を選抜し育成する仕組みや仕掛けを抜本的に設計し直すことは急務である。「マネジメントのプロフェッショナル」を生み出せない企業が生き残るのは、今後ますます難しくなっていくだろう・・・

経営の専門家をつくる

10月16日の日経新聞経済教室、松田千恵子・東京都立大学教授「日本企業は経営のプロを生み出せるか」から。

・・・「適任者がいない」――。経営の重要なポジションの話になるほど、こうした悩みを聞くことが増える。人的資本経営が注目され、従業員のリスキリング(学び直し)の必要性が叫ばれるが、日本企業における最も深刻な人材問題のひとつは経営者の側にある。
その結果、大胆なリスクテイクを伴う未来への投資が進まず、経済成長もままならない現実が生まれているのではないか。少なくとも、コーポレートガバナンス(企業統治)の観点から見た場合、日本企業が解決すべき人材問題は「高度経営人材の不足」に尽きるようにみえる。

この悩みは、指名委員会の活動において端的に表れる。そもそも指名委員会自体が実効性不足だ。独立取締役に権力の源泉たる人事権を全て奪われるといった誤解もまん延している。
経営者の選解任や後継者計画はもちろん、その資質や選抜、育成などの議論は人事部任せにはできない。それにもかかわらず、内向きの論理に固執し、真摯な議論の場が形成されないことで、「高度経営人材の不足」という問題は深刻となってきた。
この風潮には変化の兆しもみられる。指名委員会の実態を調査した筆者の共同研究によれば、トップ企業群では外部の視点も採り入れ、時間をかけて経営人材について議論するようになっている。議論の内容も、最高経営責任者(CEO)のみならず、取締役やCxO、執行役員やさらには本部長まで広範囲に及ぶこともあり、長期的な視点で経営体制を検討している。こうした議論の場はこれからの経営には不可欠である。
ただし、まだ課題もある。外部人材も含めて検討しようという動きはみられるものの、現在の経営人材プールのほとんどは、相変わらず内部登用者が占めていることだ・・・

・・・我が国企業における人的資本投資の割合は低いといわれる。最近では選抜型の経営幹部研修や役員向けコーチングなども増えてきたが、取り組みは緒に就いたばかりである。
経営の基本を学ぶ経営学修士号(MBA)など高等教育も活用されてこなかった。時価総額上位100社のCEOにおける大学院修了(修士・博士)の割合は米国が67%であるのに対し、日本では15.3%に過ぎない(文部科学省の資料)。経営はアートとクラフトとサイエンスから成るといわれるが、体系的な知識に基づく「サイエンス」の視点で学ばれることはほぼ無いということだ。
実際、日本企業が経営人材育成施策として高等教育を挙げる割合はわずか5%で、最も多く挙げられるのは「修羅場体験」(53%)だ(図表に示した調査)。これも重要だが、この言葉自体が、やや思考停止用語に近くなってはいまいか。成熟経済下での大企業では本当に修羅場といえる機会自体が少なく、その程度や範囲も限られがちだ。これまでの卓越した経営者における修羅場体験の成果は、個人の努力と終身雇用を前提とした人事異動による「偶然」に委ねられていた。引き続きその幸運だけに依存するのは難しかろう・・・
この項続く。