カテゴリー別アーカイブ: 報道機関

性暴力、時代の空気の変化

5月27日の朝日新聞オピニオン欄、田玉恵美・論説委員の「ジャニーズ性加害問題 新聞に欠けていたものは」から。

・・・新聞はなぜ報じてこなかったのか。ジャニーズ事務所の創業者ジャニー喜多川氏による性暴力疑惑に注目が集まるなか、厳しい批判の声が耳に届く・・・
・・・朝日新聞は一連の判決をすべて報じている。ただ、今になって記事を見返すと、扱いが小さすぎるように感じる。一審判決は夕刊の社会面で3段見出しだったが、あとの二つは朝刊社会面のベタ記事だ。記者の署名がついていないため、今となっては誰が記事を書いたのかもよくわからない。事情を知っていそうな同僚たちやOB・OGらにできる限り聞いたが、そもそも文春の記事の内容や裁判の詳細について当時の状況を覚えている人がいなかった。

ただ、小さな記事になった理由について、多くの人が同じ推測をした。このセクハラが性暴力であり、深刻な人権侵害にあたるとの認識が欠落していたことだ。女性への性暴力を90年代から精力的に取材して記事を書いていた記者でも、文春の記事をきちんと読んだという記憶がなかった。「男性が被害者になりうるという感覚を持てていなかった」という。当時の編集幹部の一人は「家庭で子どもの目にも触れる新聞に、性の話題はふさわしくないという古い考えも根強かったと思う」といった。

この疑惑は週刊誌が得意とする「芸能界のゴシップ」であり、新聞が扱う題材ではないと頭ごなしに考えてしまったのではないかと省みる人も多かった。芸能界は「そういうこともある」特殊な世界だと思い込んでいたため、社会的な影響力が大きいジャニーズ事務所も新聞が監視すべき権力のひとつであるとの意識を持てなかった可能性がある。「新聞が威張っていた時代で、週刊誌報道を軽視する雰囲気が今より強かったのは間違いない」と話す当時の中堅幹部もいた・・・

・・・思えば自分は子どものころ、バラエティー番組に出てくる男性の同性愛者を揶揄したキャラクターを見ては大笑いしていた。朝日新聞に入った00年には、横浜市内で父親が家庭内で娘たちに性暴力をふるう事件があったと警察署幹部から聞いて取材し上司に報告したが、「そんな話を新聞に載せられるわけないだろう」と一蹴され、「そんなものか」と特に疑問も持たずに引き下がった。
「昔はそういう時代だった」といえばそれまでだが、新聞記者が「そういう時代」の空気にのみ込まれ、慣れきったままでよかったとはとても言えないだろう。その裏で苦しんでいた人たちがいたのだから・・・

大きくなった新聞活字

4月5日の朝日新聞に「くっきりはっきり新紙面」という解説が載っていました。朝日新聞が、5月から大きな活字を使うとのことです。そこに、1951年からの活字の変遷が図で載っています。

1951年から1981年まで使われた活字は、縦2.2ミリ、横2.8ミリでした。その後5回変化して(大きくなって)、現在の活字は、縦が3.3ミリ、横が3.9ミリです。次の新しい活字は、縦が3.6ミリ、横が3.9ミリです。
1951年活字では1行に15文字入ったのが、現在は12文字。新しい活字では11文字です。昔の活字の小ささに、びっくりします。

文庫本なども古い本を引き出すと、活字が小さくて、とても読む気になりません。
電車中で、スマートフォンの画面で小さな字を読んでいる人を見ると、「肩がこるだろうな」「目が悪くなるだろうなあ」と、人ごとながら心配になります。

スポーツ選手への中傷と批判

12月9日の朝日新聞スポーツ面「W杯を語ろう」「中傷と批判、選手守るには」から。

田中ウルヴェ京さんの発言
誹謗中傷のわかりやすい例は、人格、人種など「選手」としてではなく「人」として変えられないものについて悪く言い、その人を傷つけることでしょう。
批判とは、根拠をもとに、良いところと悪いところを分けて評価したり、検証して論じたりすることです。そして、批判にも「やり方」があります。目的が何なのか。目立ちたい、怒りをぶつけたいなど自己主張が目的だとすれば、それは“悪質な”批判、あるいは誹謗中傷でしょう。選手らと同じ立場で一緒に戦っていない人は、批判の前提である根拠がありません。

スポーツ選手が負けると、テレビなどを通じて表面的に見える部分だけで安易に判断し、中傷する人がいます。しかし、負けたからといって誰しもが中傷したくなるわけではありません。中傷をSNSに書く人は、その書き手自身に勝手な目的がある。書き手の心理背景が中傷の目的にある限り、そして、書き手が自身の課題に向き合うことから逃げる限り、中傷はなくなりません。

荒木香織さんの発言
五輪やサッカーW杯などのメジャーな大会であればあるほど、批判や誹謗中傷は多くなってきます。ファンが期待するものと、現実の結果との落差に腹が立ち、それをはき出したくなるのでしょう。
選手側から対策を考えていきます。
私が選手に伝えているのは「大会前後、レース前後は絶対にSNSは見ない」「自分の名前を検索しない」ということ。これが大前提です。書かれていたコメントをどう受け止めるかという以前に、一番必要なことです。
2015年のラグビーW杯のとき、私がメンタルコーチを務めた日本代表は「見ない」ということを決めていました。

大会に向けては、メディアコントロールが重要です。いい準備をするために必要なもの以外は、全てシャットダウンしていきます。一般の人が書き込むSNSもそうですが、新聞やテレビも例外ではありません。
記者との接触一つでも気を使います。たとえば、記者から「こういう風に思うのですが、どうですか」という質問があっただけでも、選手は不安になったり、動揺したり、いらだったりする可能性があります。
そのくらい選手も私たちと同じ「人間」です。中傷にさらされれば、心理的なダメージを受けます。

大会が終わってからも、ネット上に書き込まれたものは残ります。大会後も見ないと自分で決めるか、「反応しない」と決意して見るか、だと思います。
見たくて見るのであれば、選手も相応の覚悟をしないといけないと思います。そのくらい深刻に捉える必要があります。

首相を詰問するイギリス報道機関

12月7日の朝日新聞夕刊、金成隆一・ヨーロッパ総局記者の「首相を詰問 英メディアにみた、記者の役割」から。

英国で7月以降、3カ月ほどの間に2人の首相が相次いで辞任を表明した。ロンドンを拠点とする記者としてこの政治の混乱を取材したが、英メディアの記者らが首相にぶつける質問は厳しかった。

「まるでロビンフッドの正反対ですね」。トラス首相(当時)本人に向かってこう批判したのは、公共放送BBCの中部ノッティンガム放送局の司会者だ。
各地方局の司会者らが順に首相に質問するラジオ番組の中で、政権の減税案について「富裕層を利する」とデータも示しつつ指摘。富裕層から富を盗み、貧者に分けたとされる伝説的な義賊と比較し、あなたは「正反対だ」と断罪した。
財源の裏付けに乏しいまま政権が減税案を発表した直後から、通貨ポンドが急落するなど市場が混乱。そのさなかでの番組で、他の地方局からも「恥ずかしいと感じているか」「あなたのせいで困窮は悪化している」といった厳しい言葉が相次いだ。

きちんとした答えが返ってこなければ、再質問で問い詰める。市場の混乱について国民への説明がしばらくなかったことから、質問者は「どこにいたんですか?」と聞いた。首相が答えずに自らの実績を強調し始めると、「それは(市場を混乱させた減税案の)前の話です」と遮り、再び「どこにいたんですか」と質問した。

ツイッター買収の意味

12月3日の朝日新聞オピニオン欄「ツイッター買収、その意味」、東浩紀さんの「無料モデル、公共性に限界」から。

今回のイーロン・マスク氏によるツイッター改革騒動は、私企業が運営するSNSに公共的な役割を持たせることの限界を示したものでしょう。ある意味で、SNSへの過剰な期待に冷や水を浴びせるものだと思っています。
ツイッターは本来、今どこにいて、誰と会っているかを共有するメディアとして生まれたものです。公共的な議論や合意形成に向くプラットフォームではありません。

マスク氏は思想やイデオロギーより、経営者として動いているのでしょう。前提にあるのはツイッター社の赤字です。ツイッターは私企業であって、赤字が続いている以上、マスク氏がドラスティックに変えようとするのは、ある意味でしかたがない。
今回の騒動は、本質的には、無料の広告モデルで公共性を作ろうとすることの限界が表れたのだと思います。広告収入を考えると、ヘイトだろうがカルトだろうが、閲覧数が多ければ力を持ってしまう。リベラルな理念で質の高いものを提供しますと言っても、お金は生み出されない。

ネットの言論が公共性を持つには、「有料」を導入するしかないというのが僕の持論です。本を売り、雑誌を売るように、記事や動画を売る。顧客の側にも「買う」という習慣を身につけさせる。僕は「シラス」という有料配信サービスをやっていますが、公共的な議論は有料の場でしかできないと考えたからです。
もともと公共的なメディアは雑誌も新聞も有料です。課金することと公共的であるということは両立できます。そこで重要になるのがサービスの規模です。100万人、1千万人になると、そもそも議論が成り立たない。一方で、あまりに少なすぎては公共性は持てない。1万人から10万人ぐらいが、公共的な議論に適した規模でしょう。適度にメンバーが多様で、反応も活発だけれど、炎上は起きにくい。1万から10万の規模で公共的な議論ができるコミュニティーが、いくつもある状態が健全な社会だと思います。