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生き様

2002年欧州探検記4(イタリア編)

イタリア編

10月1日(火曜日)(フィレンツェのホテル)
今日は、マントン(フランス)からフィレンツェ(イタリア・トスカーナ州の州都)まで、バスで移動。朝出て、夕方着いた。途中で国境を越えたが、高速道路を走っているうちに通過。「表示」に気がつかないと、わからない。
フィレンツェ市内は、ルネッサンスの建物、芸術がそのまま残っている。メディチ家の残した町。15世紀がそのまま残っている。町にとってそれがいいことかどうか。発展が14世紀で止まったということだ。

10月2日(水曜日)(引き続きフィレンツェのホテル)
今日は、シエナ市役所を訪問。5万人あまりの市。フィレンツェから60キロ離れている。フィレンツェと違って、丘の上にある。世界で一番美しいと言われるカンポ広場と、そこで行われる地区対抗競馬で有名な、中世からの都市。もっとも、ベネチアのサンマルコ広場も世界で一番きれいな広場と言っていたよな。
13世紀までは、フィレンツェより強かったが、16世紀に負けて取り込まれてしまった。ここは、町が小さいことと、フィレンツェに負けたこともあって、フィレンツェ以上に、中世の町がそのまま残っている。
この町の特徴は、中世の町並みや行事を残しつつ、新しいことに挑戦することだと言う。「フィレンツェ(古いことを守るだけ)とは違う」と通訳の指摘。新しいことの象徴が、シエナカード。また、イタリアの住みよい町のトップ3に入っているらしい。

午前中は「シエナカード」の説明を受ける。プリペイドカードと、市役所の個人証明カードと、市役所への納付金カードを兼ねている。詳細は、別途書く。説明してくれたマリオ君は、まだ20代前半と見受けた。コンピュータの技術者と言っていた。
シエナカードは、今はシエナ市だけだが、フィレンツェ市のシステムも受託した。さらに、その他の周辺市も引き受けるとのこと。彼の自慢は、「500年前に、シエナはフィレンツェに負けて併合されたが、今回シエナがフィレンツェを征服した」こと。何か、わかるような気がする。
午後は財政担当助役から、財政と議会について教えてもらう。この町の財政は、ほかの町とは少し違う。市営銀行を持っていた。今は市から分離されたが、市は株主で多額の「上がり」があるとのこと。

イタリアの町
1 国からの一般交付金が、近年、減額されている。国の財政難による。その分は、増税などで埋めている。歳出は、毎年3~4%ずつ増えている。

2 税金は不動産税が中心。居住用不動産税と、非居住用不動産税に分かれている。居住用不動産税の方は、近年少しずつ税率が下がっている。「なぜか」と聞いたら、市民の「要望」とのこと。その代わり、非居住用不動産税の方は、大幅に上がっている。
この税率は、議会で自由に決めることができる。この他、所得課税は国税の付加税で、率の上限が決まっている。シエナは、ほかの市に比べ率が低いとのこと。銀行からの上がりがあるからだろう。

3 滞納について
税金の滞納について聞いたら、脱税も滞納も多くないとの答え。「シエナは、市民と市議会が良好な信頼関係にある」と言う。にわかには信じられないので、「言いにくいが、イタリアは脱税が多いと聞いている」と言ったら、「日本が一様でないのと同じように、イタリアも一様ではない。」とおっしゃる。
「まず、トスカーナはまじめな地域である。さらにシエナは、その中でも、伝統的に市民と市議会が信頼でなりたっている」と答え。両の手のひらをあわせ、お互いにもたれあっている(漢字の人の字)形を見せてくれた。「だから住みやすい町だ」とも言っていた。 

4 借金は投資的経費のみ
「税率を引き上げる代わりに、借金を増やすことはないのか」の質問には、「起債は、法律で、投資的経費のみに限定されている」とのこと。当たり前だわな。違うのは日本の方だ。

5 「スワップ」取引をやっている。
収入の項目に、スワップの項目がある。最初、ほんまかいなと思ったので、話が通じない。向こうが「英語の分かるやつはいないのか?」というので、聞いているうちに、何かの利子に連動したスワップらしい。5年ほど前に許可されたとのこと。
「失敗することがあるだろう」と聞いたら、「リスクはある」という。「ほかの町で失敗したところはないか」と聞いたら。「これと同じものではないが、大損をした町があって、審査会が開かれている」とのこと。

6 いくつも会社を持っている
銀行は特別として、いくつも子会社を持っている。子会社の一覧表を見せて説明してくれた。ガス、交通(バス)、・・・。大株主になっている会社と、少し株を持っている会社の2種類に分けていた。

7 課題
今一番の課題は何かと聞いたら、「国の交付金が削減されること。来年度はさらに大幅に削減される予定で、困っている」。経費削減については、「市営の薬局を民営化すること」が課題らしい。薬局以外にもいろんな投資をしているらしいが、時間がないので聞けなかった。

8 議会
議員は41人。月に2回程度開かれる。朝の8時から夜の8時頃まで。日当が、一回当たり60ユーロ。勤め人は会社を休むので、その埋め合わせ分を市が会社に払う。自営業はそれはない。その年間総額は15万ユーロ。
前回の選挙には500人ぐらいが立候補した。政党別のリストで、30人揃えなければならない。それでどうしても多くなる。候補者リストには、「幽霊候補者」もいて、一票も入らない人もいると笑っていた。

まだまだ、書かなければならないことがあるが、これぐらいにして終わり。調査報告書にまとめよう。

10月3日(木曜日)
いよいよ帰国。夜9時30分ミラノ発の成田行き。空港の免税手続き窓口は、いくつも袋を抱えた日本人がいっぱい。ツアー客が続々。圧倒的に女性。20歳台から30台と、50歳以上か。フィレンツェの通訳に聞いたら、7割が女性とのこと。退職した夫婦と見える人も多い。日本人は、元気な金持ちだ。中でも女性は元気。男がなさけないということか。
これから12時間の飛行機。着いたら日本は、10月4日(金曜日)の夕方になる。

10月5日(自宅で)
久しぶりのヨーロッパだったが、楽しかった。正直言って、疲れました。でも、訪問した4市とも、たくさんのことが聞けた。しかも、制度でなく本に載っていないことまで、根ほり葉ほり聞けた。この収穫が第一。
久しぶりに日本を離れて「非日常」生活を楽しめたことが、第二番目。もう少し、スケジュールに余裕があればもっと楽しかっただろうが。これだけの期間にこれだけの訪問調査を入れれば、きつくなるのは仕方ない。まあ、欲張った旅行であった。機会を与えていただいた関係者とご協力いただいた方々に感謝。写真は、団員の皆さんからの提供によるものです。ありがとうございました。

リンク
セント・アルバン(St.Albans)市 イッセブルグ(Isselburg)町 サン・タンニェス(Sainte-Agnes)村 シエナ( Siena)市
自治体国際化協会(本部) 自治体国際化協会(ロンドン) 自治体国際化協会(パリ

2002年欧州探検記3写真(フランス編)

サン・タンニェス村
(左の家並みが旧村、右上頂上は中世の砦)
村の上から見ると
(写真下中央の屋根の固まりが旧村)
ここをクリックして開いたページの右上「360゜MAP」の文字をさらにクリックすると南仏の地図がでます。
地図の海岸線沿いの右端近くにMenton(マントン)があります。その左上(北西)にある、Ste Agnes(サン・タンニェス)の文字をクリックすると360度パノラマを見ることができます。
調査中。助役さん他。
「みんな引退しているから、月曜日の朝から君たちの相手をしていられる」
昼食中も、お互いに調査で質問責め
反対側から見ると。
青い服の女性が旧村担当助役さん、右下の男性が財政担当。
住民集会のお知らせ
「10月8日19時から」と読める
付録:マントン。後ろの方の山の頂上にサン・タンニェス村がある。
地中海コート・ダジュールの夜明け(マントンの海岸)

 

2002年欧州探検記3(フランス編)

フランス編
9月27日(金曜日)(パリのホテル)
昨日イッセブルグの調査を終え、デュッセルドルフで宿泊。今朝は、ケルンへ移動し、列車へ。列車は、静かにヨーロッパの平野を進み、1時間でベルギーへ入った。この後、3時間でパリ北駅に着く。ナポレオンもヒットラーも、すぐに国境を越えるはずだ。
2時すぎにパリ着。3時にクレア・パリ事務所について、山下所長自らの説明を聞く。よく働く調査団だ。1時間程度と始めたが、所長のお話がわかりやすく、いろんなことを教えてもらっているうちに、2時間が経過。どこに行っても、予定時間を遙かに超えてしまう。いくつも、ためになることをうかがったが、それはまた次に書くこととする。
9月28日(土曜日)(引き続きパリのホテル)
パリで思ったことその1
今日は、土曜日で、調査対象の相手がいない。というより、出張中でも休みでしょう。地下鉄で移動中、少女3人組のスリ団が「仕事をする場面」に遭った。「少女の3人組、4人組を見たら、スリと思うべし」とのこと。日本はなんと安全なことか。安全は、重要な社会資本だ(予告。この点は、『地方行政』に連載中の第8章2につながります)。
通貨が統一され、ユーロになっている。イギリスはポンドで、ドイツに入る際に両替が必要だが、その後、ドイツ、フランス、イタリアと両替の必要がない。これは便利。パスポートのチェックもほとんどない。ヨーロッパの実験を改めて感じる。これは、道路以上の社会資本だ。
パリで思ったことその2
休みの間に、ルーブル美術館などを見て回った。気になるのは、観客の7割が東洋人ということ(休みの日の朝ということもあるか)。パンフレットなども、各国語が用意してある。日本、韓国、中国。日本人と他の東洋人との違いは、立ち居振る舞いで、わかる。きっと10年ぐらい前までは、西洋人は、日本人の行動に顔をしかめていたのだろう。
ノートルダム寺院の入り口に「静粛に、ここは祈りの場」といった看板が立っているが、一番目が日本語、あと英語やドイツ語。韓国語と中国語はまだ書いていない。「フラッシュをたくな」とか、「他の人を考えずにめいめい記念撮影をするな」とか、これからいくつかの言葉でも必要になるだろう。
まあ、それにしてもたいしたもんだ。世界中から「お上りさん」を集め、100年前の建物を見せて金を稼ぐ。ホテルはもちろん、ワインを飲ませ、ショウを見せ、高級ブランドから絵はがきまでを土産に買わせる。その他いろいろな商売あり。タクシー、観光バスからガイドさん。かっぱらいから、・・・。
金を落とすのは、アメリカ人、日本人、ドイツ人が御三家のようだ。町を歩いていても圧倒的にこれらが多いし、トイレの表示からしてこの3カ国。それに、韓国、中国が増えてきている。町の中には、アフリカ系や中近東系、中国系(ベトナム?)も多い。旧植民地からであろう。
地下鉄の車両の中で、突然演奏が始まる。アコーデオン、中にはクラリネットを含む4人組がいた。終わると寄付を集める。いろんな商売があるもんだ。私も将来、丸の内線か御堂筋線で、フルートを吹くか。
9月29日(日曜日)(マントンのホテル)
今日は日曜日。朝、パリ・オルリー空港から南仏ニース空港へ。地中海沿いの当地は、雲があったものの、空気が違う。晴れてくると、空の青さに、地中海の青さ。北フランスから来たら、その明るさに驚く。多くの画家がここで絵を描いたことはわかる。当然気温も暖かく、半袖でいい感じ。
今晩の泊まりは、マントン。ここは、地中海沿いのイタリア国境の町。西隣はモナコ、もう一つ西はニース、さらにカンヌ、サントロペと続く、コート・ダジュールの町。これらは日本でも有名だが、その東端の町。
海にヨットが浮かぶ、きれいな海岸、ホテルが並ぶ。と言えば写真はいいが、山が海に迫っていて、その斜面に家が建っている。日本で言えば、熱海。もっとも、こちらは建物の色や形が整っていて、きれいではある。海からみた町の景色の絵はがきを売っているが、熱海の風景の絵はがきってあったかなあ。これは、日本のどの町にも通じる。
さて、どうして食っているか?町の真ん中は観光業で食ってる。でも、明日行くサン・タンニェス村は、ここから10キロ山の中。ニースから高速道路で来たが、途中は山ばっかり。その山は、禿げ山に近い岩山ばかり。何も獲れそうにない。
ちなみに、マントンは引退した老人の保養所。町や海岸は老人ばかり。フランスでも一番に高齢な町とのこと。それで治安はいいらしい。この人たちは、金を持って歩いていない。「窃盗団」も仕事にならないのだろう。70歳とか80歳のご夫婦=うちの両親ぐらいが、手を繋いで歩いている。時間がゆっくりと流れている。
9月30日(月曜日)(引き続きマントンのホテル)
今日は、朝から、サン・タンニェス村(Sainte-Agnes)での調査。マントンからは10キロ山に入る。もっとも、半端な山ではない。海岸から4キロほど奥だが、標高650メートル。絶壁の岩山をつづら折りの道を上っていく。岩山なので、まばらにしか木が生えていない。でも、道は絶壁を削るだけで、土砂崩れはしない。セザンヌの絵に、サン・ビクトワール山というのがあったが、あれ。
岩山の頂上近くに100戸ほどの家がかたまってへばりついている。これが村。正確には、ここは旧村で、80人ほどしかすんでいない。周りの山々にへばりついている家をあわせて、1000人とのこと。まあすごい。平たい土地は猫の額もない。さらに50メートルほど上が山の頂上で、そこに砦、中世の城跡がある。眼下にマントンの町と地中海が広がる。
ローマ時代からの砦。中世には海賊の見張り台。昔は、海賊をおそれ、そこに住んでいたが、14世紀に今の場所に「降りた」。そこは、水がでる。今は、下からポンプ・アップしているが。
「フランスの美しい村100選」に載っているだけあって、それは美しい。でも、十津川や祖谷も、これ比べればかわいいもんだ。
住人は、マントンや隣のモナコに働きに行っている。小学校もないので、毎朝、家族がマントンまで車で送っていく。都会を離れ静かさを求める人と、家が安いのでここで買う人が住んでいるとのこと。
フランスの村(写真3へ)
1 議員
15人。ほとんどが退職した人たち。私たちを相手してくれた助役や財政担当も、みんな退職者。「だから、月曜の朝からおまえたちの相手をしていられるんだ」とおっしゃる。納得。退職者ではない人も、就任することがあるが、時間通りに来なかったり、全然出席しなかったりで、評判が悪いとのこと。
議会は、8月を除く毎月1回。18時30分から。終わりは24時とか、それよりも遅くなることがあるらしい。「翌朝までやったこともあるじゃないか」「市長が話し好きでねえ」と笑っていたが、それを説明する人もなかなかの長広舌。
傍聴者は、ほとんどいないとのこと。その代わり、10月に3地区に分けて、住民集会をする。市長以下議員がでて、話を聞くとのこと。教会の前に、今度のお知らせが張ってあった。
市長(村長)は互選。助役は、第1助役、経済担当、旧村担当、下村担当の4人。市長、助役の給料は、法律か何かで決まっているとのこと。人口1千人から3千人の村だと、村長は月額1,315ユーロ。1ユーロは125円だから、16万円ぐらいか。助役は388ユーロ、5万円ぐらい。議員は、交通費などの実費支給だけ。議会に出席する職員は1人。職員数は、パートを入れて14人。常勤は3人。
選挙は6年ごと。フランスは、難しい比例選挙。村で聞いたら、2つのグループが、候補者リストを出す。有権者は、投票用紙に印刷してある候補者名のうち、いやな人の名前を線で消して、15人を選ぶ。上位15人が当選。村長はその15人の中から互選。
ここ続けて3回、同じグループ同士の戦いで、今のグループが勝ち続けている。敵方は15人リストを揃えられず、1人も当選しない。党派の名前を聞いたら、みんなで、「何という名前だっけ」と考えていたが、結局、自分たちの党の名前を思い出せなかった!
服装の話になった。こちらも気を利かせて、紺のスーツはやめて、ネクタイと派手目の上着で行った。向こうはノーネクタイ。恐縮していた。「ネクタイは持ってきたがね」とポケットから見せてくれた。「議会もノーネクタイか」と聞いたら、当たり前だと言う顔をしていた。
ここに限らず、紺のスーツはやめた方がいい。それが群をなして歩いていると、それだけで「異様」だ。まず、男が10人も群をなしているのが異様。紺のスーツは異様。カメラを掛けているのも異様。東洋人の固まりは・・。
2 行政内容
幼稚園と小学校は村の仕事。しかし、小さすぎるので隣近所の町に委託している。親がどこの町の学校に行くか決める。委託先の町が、総経費を全部の生徒で割って、生徒一人あたりの経費を計算する。そして人数分だけ、分担金をサン・タンニェス村に請求する。
村には1960年代まで学校はあった。旧村の村役場に、「学校」との標識がかかっていた。役場が学校だったということ。ここは、教師は国家公務員。新しく道ができて、車が通るようになったから、町の学校に通うようになったのだろう。それまでは、町に行くにはロバに乗って上り下りしていた。
経常会計の収入は、541,000ユーロ。うち税金は160,000ユーロ。ほとんどが人件費。
税額・税率は、近年上がっているとのこと。住居税は5年間で6.2%から、7.55%まで上がった。住民はかなり反対しているらしい。この国は、課税標準は法定、税率は自治体が決める。徴収は国がやってくれる。
投資会計は、380,000ユーロ。大きいのは道路の補修。
今の市長になってから13年間、起債をしていない。過去の残高が大きく、今返しているとのこと。3年前に大災害を受け、道路がかなりやられたが、起債はしなかった。後3年で返し終わる。「子供たちに借金を残すのはよくないので」とおっしゃる。うーん。
3 課題
今一番の課題は、合併とのこと。といっても、市町村(議会)はそのままで、業務を組合でするとのこと。促進のための法律ができ、国の地方長官(かつての知事)が熱心に進めているらしい。でも、ここは100年前から、水道は組合でやっている。民間委託も、イギリスよりずっと進んでいるようだ。
社会保障は県の仕事なので、村は仕事はない。「若者も騒がないので、議会の社会問題委員会は暇だ」と言っていた。
次はゴミの収集。これはニース市に委託している。後3年でいっぱいになり、ニース市から断られそうだという。今度分別を始めるというので、日本の分別のすごさを教えたら、びっくりしていた。ゴミ集めは民間会社に委託。使用料で経費を賄っている。
4 町の活性化
祭りを開いたり、お城を修復したり、山歩き会を開いたりして、町の活性化と観光客の呼び込みをしている。これが、村の中で一番の課題らしい。ちょうど昨日は、「キノコ祭り」だった。
活性化は、ボランタリーな会(会というほどのものでもないか)が中心になっている。議会でも議論する。でも、普段顔なじみなので、議会の前に決まってしまう。
お城の修復費用は、国が80%の補助。ボランタリーの会が20%。といっても金はないので、入り口の「ご寄付」が財源。国の雇用交付金(週30時間)を使って「障害者や社会でうまくいかない人」を使ってやっているといっていた。
城の下の岩盤の中に、1930年代のマジノ線の地下要塞があり、村が払い下げを受けて観光用に解放している。これも、ボランタリーの会がやっている。
私たちがいる間も、かなりの人が村に来ていた。観光バス、といっても小さいのしか上がってこれないが、2台。村のレストランは30人ぐらいは入っていた。国外からの人も多そう。南仏を旅行していてここに立ち寄った、という人が多いらしい。
ここから5キロほど西、列車で10数分で隣の国「モナコ」に行ける。もっとも、東へ5キロ行けば今度はイタリアだ。夕ご飯の後でも行けたが、やめておいた。何せ、今日は、朝の9時から4時半まで、昼食中もずっと調査。しかも向こうからの質問付き。「聞きたいことがあった」と。
「日本に帰ったら、サン・タンニェスをみんなに紹介してくれ」「今回の調査を、どう生かすのか」「報告書は、日本語でいいから送ってくれ」旧村担当助役(女性)は、今度の村の広報に載せるからと、写真を撮ってくれた。広報は3ヶ月に1回、村長と助役で書いて、印刷だけ会社に発注している。
向こうも疲れただろう。最後までつきあってくれた財政担当は、78歳のおじさん(おじいさん)。山の砦もつきあってくれた。感謝。「僕のホームページに、村のホームページのリンクを張る」と言ったら喜んでくれた。「大学の授業でも紹介するよ」とも言っておいた。
そこで、これがサン・タンニェス村(Sainte-Agnes) http://sainteagnes06.free.fr/index.htmlです。(ここをクリックして下さい。村の風景を見ることができます。ぜひ一度ご覧下さい。これで約束が果たせました。)
英語の観光案内は、次をクリックして下さい。
360度パノラマを、写真3から見ることができます。