「私の読んだ本」カテゴリーアーカイブ

「私の読んだ本」という表題ですが、いま書いているのは蔵書の整理です。本の内容については、手が及んでいません。

(蔵書の引っ越し)
2006年春に、実家から蔵書を引き取りました。その顛末記です。なお、進行中。

少し古本を処分8

少し古本を処分7」の続きです。まだ続いています。なかなか減りません。なのでこの連載も続きます(苦笑)。

「少し処分」とは謙遜してつけた表題なのですが、実態を表しています(反省)。作業の際には「大胆に」捨てているつもりなのですが、全体から見ると「ほんの少し」です(涙)。
まず、やる気が起きません。処分しようと本を手に取ると、「せっかく買ったのに捨てるのか」「読むことができないのに、なんでこんなにたくさん買い込んだんだ」と悲しくなります。なので、作業に取りかかる気にならないのです。締め切りもないし。

次に、作業を始めた頃は古い本から着手したので、悩むことなく捨てることができました。だんだん新しい本になると、「読みたいなあ」という思いが出て、捨てることができません。残すと決めた本は、本棚に後戻り。
処分すると決めた本は、「こんな本も買ったのだ」とか「何が書いてあったかなあ」と、目次や気になるか所に目を通すので、時間がかかります。でも、私の読書遍歴(正確には購書遍歴)を思い出す、よい機会と思いましょう。時間をかけても良いでしょう。

書斎と廊下は作業途中で、引っ越しの荷物の片付けが終わっていないような状況にあります。それでも机の上は広くなり、資料を広げることができて、執筆作業がしやすくなりました。

文化、政治、経済の新しい古典

雑誌『中央公論』2025年11月号の特集は「令和の読書と知的生産術」です。
そこに、大澤聡・砂原庸介・安田洋祐さんの座談会「文化、政治、経済……いま読むべき本は平成以降の「新しい古典」を決めよう」が載っています。3人は、1978年と1980年生まれの研究者です。

これは勉強になります。3人が、それぞれの分野で10冊ずつ挙げておられます。
政治、経済、文化の「新古典」にはこのような本が選ばれるのだと、勉強になりました。どのような基準で選ぶか、難しいところです。

古典と言われる本は、概説書や教科書に載っていて、かつて読んだか読んでなくても知っていることが多いです。しかし、近年の研究でどのようなものが必須のものなのか、学者でないとわかりません。このような記事は、研究者でない者にとって貴重な資料です。
知らない本が多かったです。みなさんは、どうですか。

少し古本を処分7

少し古本を処分6」の続きです。「少し古本を処分5」の続きといった方が良いでしょう。今回は、買ったのに読まなかった本、読んだけど忘れていた本の「効用」についてです。片付けの方は、進んでいないのです(反省)。

本棚を片付けていると、「これも読んだよな」「これも買ったよな」という本が出てきます。その時々の私の好奇心と興味の広がりを示しています。読んだことも、買ったことも忘れているのですが、たぶん私の「知図」作りに、貢献したはずです。

専門家とは「何がわかっていないかを知っている人」という「定義」があります。私がいろんな分野の本を買い込んだのは、それぞれの分野の最先端の知識と、この「何がわかっていないか」を知りたかったのだと思います。全てを理解することはできませんが、おぼろげに理解していると、人と話をしたり、文章を書いたりしたりするときに、不安を持たなくて済みます。

もう一つは、私の発想を豊かにしてくれたはずです。
例えば『維新の構想と展開』(2002年、講談社。文庫に再録)は、歴史書に「構想と展開」という言葉を使うことに目を開かれました。歴史は、自然のように流れていくのではなく、人為で操作できる(限界もある)と再認識しました。
デザインという言葉が、美術や製品の形態だけでなく、組織や制度にも使われます。構想はこのデザインと同じです。designという英語は、日本語では意匠と訳されることが多いですが、中国語では「設計」です。

少し古本を処分5

少し古本を処分4」の続きです。果てしないような作業で、苦しみつつ続けています。と書きながら、楽しんでいます(苦笑)。先週末も3箱を知人に預け、3箱分を捨てました。
この記事を読んだある人が、厳しい意見を送ってきました。「『明るい公務員講座』には、書類を貯めずに整理せよと書いておきながら、書いた本人は整理が悪いではないか」「言行不一致か」とです。

書類も本も大方は整理はされているのですが、捨てることができないのです。図書館だって、めったに見ない本も保存してあります。私の書斎は、私設図書館なのです。もっとも、床に積み上がった本の山は、何がどこにあるかわからず「図書館」とは言えません。そして、多分二度とみることがない本をなぜ取っておくのか。問われると答えられません。
かつて作った資料や雑誌に寄稿した記事なども、困りものです。例えてみれば、写真とそのアルバムですね。記念に取ってあっても、ほぼ見ることはありません。かといって捨てられず・・・。
我ながら、諦めの悪い奴です。書斎の棚、床、階段脇、寝室の壁沿いという空間が満杯になって、ようようあきらめたということです。

あわせて、職場に置いてある資料や本を、整理しました。原稿を書くためのものと、学者さんたちに経験を話すための過去の資料です。これらも、捨てるものと自宅に送るものに分けました。「自宅に送るもの」が難題です。それを受け入れる空間を作らなければなりません。これまで整理した成果で、本棚がいくつか空きました。これで、収納できそうです。

電子書類は、もっとたちが悪いでしょうね。場所を取らない、他人から見えないのです。紙の書類が貯まると、机が狭くなり、上司から指導が入るでしょう。「山積みされた資料、下の方は化石になっている」と表現していたのですが、電子データはこの例えが使えません。
ところが、職場では異動の際に持っていかないかぎり、電子データは消えます。いくつかの職場では、個人の保存データ総量に限界をつけたり(意図的に少なくする)、2年以上開かないファイルは強制的に削除したりして、保存データが増えないような工夫をしているようです。共有フォルダーは、担当者が定期的に削除しているのでしょうね。
他方で、自宅のパソコンは定期的に整理と削除をしないと、とんでもないことになりますよ。でも、本と違って、肉体労働をしなくても、「削除」のボタン一つで消えてしまいます。

少し古本を処分4

少し古本を処分3」の続きです。その後も、休日に作業をしています。少しずつしか進みません。本棚を見渡すと、一番手が届く棚に、半封筒に入った書類が、紙のファイルボックスに入って並んでいます。これを整理しました。

大きく分けて3つのものが並んでいます。
その1は、過去の大学での講義資料。またお呼びがかかるかもと思い、残してありました。当時は、レジュメも資料も印刷して紙で配っていたのです。その原紙と、講義ノートが貯まっています。これは、考えることなく捨てました。元資料は、パソコンの中に保管してあります。これも不要なのですが、電子書類は場所を取らないので、そのままにしてあります。
貧乏性なので、裏白の紙は再利用することに。その際に思いましたが、紙も少なくなりましたが、閉じるためのステープラー(ホッチキス)も見なくなりましたね。

その2は、勉強のためや執筆のために書き散らかしたメモや、取ってあった資料です。見ると、こんなことも考えていたなあ、同じことを書いていると、感慨にふけります。それらも、ほぼ捨てました。
その3は、連載した記事、連載している原稿です。これは、残しておきましょう。
このほかに、省庁改革本部、再チャレンジ政策担当、総理秘書官、大震災対応の仕事に関する資料が、職場と自宅に段ボール箱に入って残っています。これは、学者先生に私の経験を話す機会をもらっているので、それに合わせて整理しています。

本は知人に4箱を引き取ってもらい、別の友人に1袋分を贈呈。3箱ほどを捨てました。書類を捨てたこととあわせて、本棚に空間ができました。
床の山がかなり減ったので、次の「攻撃対象」は、一番上の棚にある新書と文庫。その次は、一番下の棚にある学生時代などに買った法学と政治学の専門書です。近年は、触ったこともありません。というか、その前に本の山があって、近づけませんでした。