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生き様-旅行記

2006欧州随行記2

(東西の農村風景の差)
こちらは、変化の少ない風景だ。たぶん、これは千年近く続いた景色だろう。日本も農村では、つい40年前まで、2000年間にわたって「弥生式風景」が続いていた。田んぼとわらぶき屋根の農家である。それが、急速に変化した。西ヨーロッパと日本は、同じように、農業が主体の時代から産業革命を経て、さらにはIT革命の時代に入っている。どうして、一方は景観が残り、もう一方は急激な変化をしたのか。以前から、気になっていた。私が考えた結論は、次の通り。
1 生産力の差
麦畑・牧場と水田とでは、単位面積当たりの収穫カロリーが違う。牧場に至っては、一度植物を育ててから、それを飼料にして牛や豚を育てる。効率は悪い。水田の方が、たくさんの人間を養える。だから、日本は狭い面積に、大勢の人間が住んでいる。
欧州でも日本でも、農業時代は千年から2千年の長きにわたって続いた。その間に、それぞれ秩序ある風景を作った。産業革命以降、経済発展を始めると、農業の生産性を上げる他は、それ以外の産業を入れなければならない。面積当たりの人口が多い日本は、必然的に、工場やその他の建物が混み合ってくる。
今でも、可住地面積当たりの人口は、日本の方がはるかに大きい。彼らは日本の新幹線に乗って、「どこまで行っても家が続いている」「街が続いていて、東京と思っているうちに京都に着いた」と驚く。ヨーロッパでは、街と街との間は離れていて、その間に農地がある。
2 洋風化
日本はさらに、近代化とともに洋風化を受け入れた。生活の様式としては西洋化であり、アメリカ化である。台所や風呂から始まって、トイレ。畳の部屋から洋室へ、屋根の瓦もガラス窓も、今までのものも残しつつ、新しいものを取り入れた。いわば雑居状態。
その際に、木造家屋は建て替えてしまった。また、技術の進歩というか、選択肢が広がって、いろんな素材・形・色の家が建った。それ自体は進歩であり住みやすくなったので、批判することではない。向こうは、昔ながらの家で不便の中で暮らしている。しかし、日本は秩序の美はなくなった。
これに比べ、ヨーロッパは近代化とアメリカ化はしたが、洋風化はしていない。
3 石造り
そして日本は、家を建て替えることに金をつぎ込んだ。その際に、公共空間、例えば電線類地中化などにまで、手が回らなかった。
これは、今後とも続くであろう。向こうは、煉瓦や石造りの建物の骨格と外観はそのままで、内部を造り替える。こっちは、基礎から立て替える。こっちはフローの文明、あっちはストックの文明というのは、矢野暢元京大教授の卓見である(「フロ-の文明・ストックの文明 」)。伊勢神宮の遷宮を、日本人のきれい好きとほめる人もいる。それを否定はしないが、あっちに比べ金がかかる。
「鉄筋コンクリート造りは大丈夫だろう」という人がいるが、これはなお、たちが悪い。まず、50年前にできた鉄筋コンクリート造りの家に、今も住んでいる日本人はほとんどいない。この結果が物語っている。何かを変えない限り、50年後も同じことを言っているだろう。次に、最近のコンクリートは50年もつと思えない。劣化が激しいらしい。
4 農業国
なぜ、フランスやイギリス、ドイツで、きれいな農村風景が残っているか。もう一つの理由は、彼らは農業国だ。
(イギリスへ)
しばらくして、トンネルに入る。ドーバー海峡をトンネルで抜け、2時間ほどで、イギリス側のアッシュフォード駅に到着。ただし、フランスとイギリスとで1時間の時差があるので、時計の上では1時間。ここからロンドンまでは、あと1時間かかるとのこと。
アッシュフォード駅は、アッシュフォード・インターナショナル駅と表示してある。これまでは内陸部の駅だったのが、突然、国境の駅になった。
バスで移動し、カンタベリー寺院を見てから、訪問先のシェップウエイ区へ行く。
(市民税増税騒動?)
区(ディストリクト)は、日本の市町村に当たる。シェップウエイは、ドーバー海峡に面した保養地。人口約9万人。ここは、2年前にカウンシルタックス(日本での固定資産税。イギリスの町ではこれが唯一の市税)を39%引き上げようとしたが、国からストップがかかり最終的には19%引き上げた。その状況を聞く。
まずは、「どうして一時に、それだけもの増税が必要になったか」という問をする。それまではサービスを抑えていた。選挙が終わってから、一時に上げた、との答え。最初は39%を考えたが政府に反対され、29%に変更したがそれも否定され19%になった。
次の問は「住民は反対しなかったのか」。答は、反対はなかった、サービスが上がるのなら良いとのことだった。金額にしてそんなに大きな額でない、とのこと。
さらにいくつか質問するが、「政治的に複雑だ」「説明するのは難しい」との答が返ってくる。当時与党だった党が分裂したほどだから、いろいろあるのだろう。
フォークストンとあるのは、シェップウエイの中心の町です。
(議長職)
議長が、何人かの議員と職員とで応対してくれる。市長職は1972年に止めて、今は議長が首長を兼ねている。もっとも、市役所は与党リーダーを中心に、議院内閣制を取っている。ちなみに議長は、議員を39年務めたとのこと。既に年金生活者で、議長職に年間5000ポンド=100万円支給される。議会は年に9回。1回の所用は3時間程度。夕方に開く。この点については、拙著「新地方自治入門」p338参照。
ここでも、長時間のお相手をしていただいた。議長は、市民税増税より、街の自慢を聞いて欲しいらしい。保養地であること、そのために海岸を整備していること。さらには、昔ながらのケーブルカーが動いていることなど。老人夫婦がたくさん散歩している。その人たちを目当てにしたアパート(日本でいうマンション)も、増えているらしい。
下の駅から上を見る。左のかごが上に上がっている。右にも、もう一つケーブルがあったが、廃止された。
(古いものを大事に)
このケーブルカーは、一見の価値、試乗の価値があった。ドーバー海峡の崖の上の街と、下の海岸とを結んでいる。その間50メートル、高低差30メートル。1885年製。鋼鉄製のロープの両端にかごがあり、一方が上がると他方が下がる。ここまでは、どこにでもあるケーブルカーと同じ。
上から見たところ。客室の下に水を入れている。
違うのはその動力。かごの下にタンクがあって、そこに水をためる。かごが上の駅に着くと、係員がレバーを倒して水道から水を入れる。上のかごAに水がたまると、重みでかごAが下がる。下に着くと、水を捨てる。すると軽くなる。今度は、上に着いたかごBに水を入れ、そちらBが下がってくる。上下のかごの人数差=重量差がわからなくても、必要量だけ水が入るとかごは下りる。優れもの。もちろん、ブレーキがあって、突然下りたり、激突したりはしない。水は循環して使っている。パンフレットには One of the oldest water balanced cliff lifts in England opened 1885 と書いてある。
ローテクも良いところ。産業遺産並みだ。「日本だったらどうだ?」とのある議員の問に、「日本だったら、とっくの昔に電気モーターに替えたでしょう」と私は答えた。「そうだよな」。
終了後、バスでロンドンへ移動。約2時間でロンドン着。今日も、大使から説明を受ける。

2006年欧州視察随行記

7月9日(日曜日)
12時に成田発、11時間半の飛行でパリ着。時差が7時間あるので、パリでは16時30分。いつもの新潟上空から日本海を北上するルートでなく、北海道から北上するルートを通っている。乗務員に聞くと、北朝鮮のミサイルを避けるためだそうで、この方が短縮できるとのこと。後で新聞を読んだら、こっちのルートの方が時間がかかると書いてあったが。
(邪魔の入らない良い書斎)
例によって、離陸後しばらくして食事が出る。ワインも控えめに。食事を終えたあとは、訪問先の資料に目を通し、読書と原稿書きにいそしむ。
他にすることもないし、景色を楽しむこともできない。しかも電話や来客もないので、集中できるありがたい時間。職場ではこうはいかない。新書を1冊読んだほか、原稿も進んだ。携帯パソコンも、座席にコンセントがあるので電池を心配せずに使える。機内では無線ランが使え、ファーストクラスにはラン端末があるとのこと。
もっとも、長時間じっとしているのは疲れます。ペットボトルの水を、何本飲んだかな。
(静かなパリ)
パリは最高気温30度で、とても暑い。ホテルでチェックイン後、早速、駐仏大使公邸へ。大使から説明を聞きながら食事。この公邸は、前回の随行時もおじゃましている。20時からワールドカップの決勝戦フランス対イタリアが始まるので、早々と切り上げてホテルに帰る。
日没は22時頃とのこと。外は明るいが、人通りが少ない。いつものパリとは、感じが違う。みんな、家でテレビを見ているのだろう。コンコルド広場では、警察官(機動隊?)が大勢準備をしている。試合が終わると、群衆で埋まるそうだ。
7月10日(月曜日)
(フランスの国営放送)
今日は朝から、フランステレビジョン訪問。フランスのテレビは、かつてチャンネルごとの公営企業体だったが、自立できるところ(現在の1チャンネル)を民営化し、残り(2、3、5チャンネル)を国営にした。国営にする際に、それぞれのチャンネルを会社にし、持株会社にぶら下げた。それが、フランステレビジョン。日本では、NHKにあたる。民営化できる部分は民営化し、残りは国で持つ。これも一つの考え方だ。
国営放送だが、コマーシャルも流していて、収入の3割を占めている。受信料は、近年、住民税と一緒に集めるようにした。いろいろと工夫している。その他、国際戦略なども聞く。
熱心な質疑応答で、2時間以上かかった。NHKが取材に来てくれて、この様子は、日本で11日早朝のニュースで放送されるとのこと。
昨夜、ワールドカップを放映していたのは、第1チャンネルで、これは民放。第2チャンネルはNHKでいうと総合放送、第5チャンネルが教育放送に当たる。第3チャンネルが、興味深い。地方局12局が作る、ローカルな番組を中心にしているとのこと。フランスの行政はかつては日本以上に中央集権だったし、パリの一極集中も甚だしい。そのことと、このチャンネルとの関係を勉強したかったが、時間がなかった。
フランステレビの前で
(随行の仕事)
今回も、大使館、特に総務省から来ている植村君と渋谷君にお世話になった。こちらも随行は2度目だし、気心の知れている人がいると話が早い。若い職員は、日本でも国会議員とはそんなに接触していないので、議員との距離感がわからないだろう。私の重要な仕事は、その間の「通訳」みたいなもの。
もっとも、議員さん達は「全勝ほど、厚かましい官僚はいない」と笑っておっしゃるので、私の立ち居振る舞いを真似してはいけない(笑い)。でも、議員さん達が何を考え、何をして欲しいかを早く察知するのが、総務課長の仕事。それによって、次の行動が円滑に行く。総務課長の仕事を、「潤滑油」と例えた人もいる。もちろん、「先生、それはできませんよ」、私の場合は「先生、それはあきませんで」と言うのも、重要な任務。
今回は、自民党3人、民主党1人、共産党1人、社民党1人の6人。衆議院総務委員会の委員長と理事の中から選ばれている。随行は衆議院事務局1人、総務省2人。ふだんしょっちゅう接している人たちだが、朝から夜まで一緒にいるのは、勝手が違う。今回のメンバーも理解の早い議員さん達で、ありがたい。「国会は動物園だ。政治家は変わり者の集まりだから」とおっしゃる議員もおられる。そこまでは言わないとしても、それぞれ個性がある人たちだし、自己主張も強い。その人達の意見集約も、重要な仕事。
(フランスチーム帰国)
午後は、フランス上院へ。ところが、夕べと違って、街の中心部が大渋滞。フランスサッカーチームが帰ってきて、シラク大統領と会い、ホテルクリヨンでファンの歓迎を受けるとのこと。その交通規制にぶつかってしまったらしい。
コンコルド広場に面したクリヨンの正面には、フランスチームの大きなユニフォームが飾ってある。橋を渡った反対側の上院の正面も、フランス国旗の三色のリボンが飾ってあって、さらに「フランス頑張れ」と書いてあった(11日朝に通ったら、「フランス頑張れ」は外されていた)。昨夜は、試合に負けたからか、負けてもなのか、街は意外と静かだったらしい。
(上院)
上院は、貴族の館を改修して使っている。議会事務局の人が、詳しく案内してくれる。本会議場は577人入るが、とても狭かった。石造りの建物は、こうして改造して使える。これが木の文化と石の文化の違いか。日本なら、すぐ新しい建物を建てるだろう。
フランス革命からの歴史が、そこここに展示してある。共和制の母国であることを、誇示するようだ。
7月11日(火曜日)
(フランス新幹線)
今日は早起きをして、ホテル発。パリ北駅から、新幹線でイギリスへ。ヨーロッパの駅は通常は改札がないが、新幹線にはある。国際列車なので、切符を見せたあと、税関とパスポートコントロールを通る。
こちらの新幹線のレールの幅は日本と同じ標準軌だと思うが、車内は横幅は意外と狭い。ビジネスクラスに乗ったが、横に座席が3列。朝食がでる。座席にコンセントがあるので、パソコンを使ってこの日記を書いている。
(フランスの農村)
フランスの農村風景の中を、静かに列車は進む。なだらかな起伏の農場が広がり、所々に集落がある。落ち着いたきれいな風景。集落もまとまっているし、家々が同じような色と作りなので、美しい。屋外広告が目立たないこと、電信柱が見えないことも大きい。かつてはこの風景に感激したが、このごろは慣れてしまった。
飛行機の上から見る農村風景も、美しい。平坦な農場が、植えてある作物の違いで、パッチワークのように見える。春まき小麦、冬まき小麦、牧草だろうか。もちろん、飛行機から見た日本の農村風景も美しい。整然とした田んぼ、里山や山々。きれいなものだ。西欧が黄色と土色と赤が基調なのに対し、日本は緑が基調になる。

ヨーロッパで考えたこと2

【異質なものとの共存】
もう一つ、ヨーロッパで考えたのは、異質なものとの共存です。それは、次のようなことです。
ドイツでもパリでも、街でイスラーム系と思われる人をたくさん見かけました。もちろん黒人を始め非ヨーロッパ系の人もです。特にパリでは、バスがそのような人たちが集住している地区を通ってくれました。
白人であっても、東欧・南欧と思われる人、すなわち典型的ドイツ人やフランス人でない人も多そうです。私には、明確には区別はつきませんが。
ホテルで洗濯物を取りに来てもらったら、スカーフをかぶった中東系の若い女性でした(私と彼女で、英語でやりとりするのです。もっとも、アメリカ人としゃべるよりは通じたかも)。
フランスは総人口が6、000万人、うちモスリムが500万人、1割近くと推定されています。パリでの密度はもっと大きいでしょう。
パリには昔から、いろんな国の人がいます。ヨーロッパだけでなく、かつて植民地であったアフリカや東南アジアからの人たちもです。数多くの外国人を受け入れてきました。もちろん日本人の画家も。しかし、なぜモスリム(イスラム教徒)だけが「問題視」されるのでしょうか。そして、なぜ近年問題になったのでしょうか。
帰国して本屋で、内藤正典著「ヨーロッパとイスラム-共生は可能か」(岩波新書、2004年)を見つけました。そこに、切れ味よく経緯と分析が書かれています。
私の理解では、次のようになります。
ヨーロッパは、ヨーロッパ『文明』を受け入れるという条件の下で、外国人を受け入れてきました。その文明とは、基本的人権の尊重であり、政教分離です。それを受け入れれば、たとえ『文化』が違っても、受け入れてきたのです。
中華街ができても、日本のラーメン屋ができても。その点、フランスに移住した外国人は、東欧系であれ、アフリカ系であれ、アジア系であれ、ヨーロッパ『文明』に帰依したのです。
しかし、イスラームは政教分離ではなく、近代ヨーロッパ『文明』の「啓蒙主義」と相容れないものがあるのです。
さてこの点、日本はどうでしょうか。日本は、ヨーロッパ文明圏に入りましたが、日本文化と異なる文化を持った人たちが入ってくることに、まだ抵抗が強いようです。文明の違いの前に、異文化の人たちを受け入れる努力は少ないようです。そして、彼の地のような議論は、あまりなされていません。
もちろん、ヨーロッパ諸国は、地続きであることと、植民地支配の「負の遺産」を抱えているという背景もあります。でも、それを言うなら、日本も植民地支配の過去があります。また、ボートピープルという難民が来たこともありますし、北朝鮮からの「脱北者」受け入れもあります。
「花の都パリ」「国際都市ロンドン」にあこがれて、日本からも多くの人が渡りました。それを、彼の地・彼の人たちは受け入れてくれたのです。東京が「国際都市」を標榜するのなら、あるいは諸外国の人から「あこがれの地」となるためには、異文化の人を受け入れる雰囲気が必要でしょう。
「パリやロンドン、ニューヨークには行くが、外国人は受け入れない」では、尊敬されませんよね。
さて、もう一つ、ヨーロッパでの異質な文化受け入れの努力についても、述べておきましょう。先に紹介した、羽場久み子著「拡大ヨーロッパの挑戦」には、25もの国が統合される際の「苦しみ」も書かれています。
私たちから見ると、ヨーロッパはキリスト教という共通の歴史を持った「一体感あるまとまり」と思えますが、内実はそうではありません。キリスト教だって、カトリック、プロテスタント、ギリシャ正教と異なります。民族も言葉も、そして文化もかなり違います。
そして、この半世紀、西側資本主義国と東側共産主義国とに別れ、対立してきたのです。それは、自由主義経済の定着発展度合いの違いから、民主主義や自由主義といった政治の仕組みと運営の違いなども違います(新しい国をつくる努力については、別に書く予定です)。
さらに、経済力が違います。1人あたりGDPでは、EU平均の半分程度でしかない国もあるのです。
これらの違いを前提として統合するには、かなりの努力が必要です。均質化するのでなく、「多様性を持ったままの統合」です。

ヨーロッパで考えたこと

欧州随行記その2の付録です。
【できないと思われていることを行う】
ヨーロッパ旅行中に、高橋進著「歴史としてのドイツ統一-指導者たちはどう動いたか」(岩波書店、1999年)を読みました。買って「積ん読」のままだったのですが、ちょうど良い機会だと思って、鞄に入れていきました。
筆者も書いておられます。「戦後のドイツ外交を研究してきた者として、ドイツの統一は、私が生きている間はありえないというのが、染みついた公理であり・・」。私も、そう思っていました。「『ドイツ統一』と関係者は言ってはいるが、ベルリンの壁が崩れることはない。東西ドイツが統一されることはない」と。
1989年当時は、ニュースを見て、ただ驚いていたただけです。それは、私の中の「公理」が現実を認めたくなかった、ということでもありましょう。
時間が経つと、「政治というものが社会を動かすのだ」、「政治家が歴史を作るのだ」という観点から、気になっていました。人間が歴史を作るという観点からは、キッシンジャー著「外交」(上下、1996年、日本経済新聞社)やニクソン著「わが生涯の戦い」(1991年、文藝春秋)を読んで、すばらしいと感じていました。これは、拙著「明るい係長講座」でも、少し触れました。
確かに、ベルリンの壁崩壊と東西ドイツ統一には、東ドイツを始めとする東欧諸国の経済停滞がその基盤にあります。しかし、それはすべてが歴史的必然ではなく、人為による部分が大きいのです。
東ドイツ指導者にとっては、選択肢は限られていました。しかし、これまで繰り返されたソ連による軍事弾圧の恐れの中で、これまで繰り返した武力鎮圧を取らず、解放を決断しました。一方、西ドイツ指導者は、難民受け入れ決断から東ドイツ「回収」まで、構想を立て、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連と交渉し、実行していったのです。
あわせてこの機会に、羽場久み子「拡大ヨーロッパの挑戦-アメリカに並ぶ多元的パワーとなるか」(中公新書、2004年。久み子の「み」は難しい字です。)を、読み終えました。
ヨーロッパ連合(EU)は、2004年5月に新たに10か国を加え、25か国もの連合体になりました。しかも、ポーランドやハンガリーといった東欧諸国が入ったのです。人口は4.5億人、GDPは9兆ドルです。アメリカは2.9億人、10.5兆ドルですから、まさにアメリカと並ぶ「大国」です。ちなみに、日本は1.3億人、4兆ドルです。
さらに、余り知られていませんが、北大西洋条約機構(NATO)も26か国に拡大しています。そこには、ルーマニアやブルガリアも含まれています。かつて、NATOは西側諸国の軍事同盟であり、それに対抗して東側諸国はワルシャワ条約機構を構成していました。それを思うと、考えられない変化です。
(また、新しくEUに加盟する旧社会主義国は、参加のための条件を満たすためにも、自由主義と民主主義の創設と運用に苦労しています。)
ひるがえって、アジアではどうでしょうか。歴史や文化がヨーロッパと違うので、そう簡単には「連合」にはいかないでしょう。しかし、私が比較したいのは、そのような構想を立て、努力しているかです。そして、日本がどのように貢献しているかです。
私は、政治とは「政治家と国民の努力過程」であると考えています。放っておいても平和で豊かという国や地域もあるでしょう。しかしそれは、政治という観点から採点するなら、評価は低いでしょう。
たまたま戦争がなかったからといって、政治家は評価されません。戦争を回避する努力をしたかどうかで、評価されるのです。
ドイツ統一とEU拡大。そこにあるのは、それまではみんなが「できない」と思っていたことを実現することです。そこには、構想し・関係者に手を打ち・世論を誘導し・決断し・実行する、ということが必要です。
それは、人為です。それが、政治でしょう。しかも、「放っておけばそれはそれで済むことをあえて変える」というすごさです。
「自然となる」でなく「人為でそうする」です。これに比べ、日本の政治には「構想・実行」という要素が少ないと思いませんか。日本の政治にそれが欠けているのは、歴史観・文化の違いがあるのかもしれません。そして、島国でかつ単一文化・単一民族に近かったことも、その基底にあるのでしょう。
もっとも、明治国家をつくった人たちは、封建国家を近代国家につくりあげたのですから、日本にもそういう経験はあるのです。
しかし、戦後半世紀、国際政治では、平和憲法とアメリカの傘の下、国際貢献(社会づきあい)をしなかったこと。国内政治では、経済成長の上がりを配分するだけで済んだこと。この二つで、深刻な「政治」をしなくて済んだのです。こうして、ますます日本の政治は、「為す」でなく「なる」になってしまいました(拙著「新地方自治入門」p295以下参照)。

2004年欧州視察随行記2

8月20日(金曜日)
ホテルでは毎朝、日本語新聞を差し入れてくれる。朝日、読売、日経のいずれか。「ロンドンで印刷している」と書いてある。日本語放送TVもあり、日本の情報はそのまま入ってくる。新聞もTVニュースも日本より遅れるが、時差があるので、こちらの生活にはちょうどの時間になる。すなわち、当地の朝6時に起きてテレビをつけると、日本の朝のニュースや昼のニュースをやっている。
郵政民営化関係や三位一体改革のニュースが多い。議員さんたちの発言、「新聞は、アテネ・オリンピックのほかは、総務省の記事ばかりだ」
小生の答、「はい、それだけ総務省は重要な仕事、改革をやっているんです」
小生はパソコンを持ってきているので、インターネットでNHKや新聞社のホームページを見ることができる。今やホテルの部屋には、インターネットの端末が必ずある。市内や国内のアクセスポイントへつなげば、1分10円ほどでつながる(もっとも、ホテルによっては市内通話がえらく高い。これは日本でも同じだが)。
職場とのメールのやりとりも簡単。いくつか仕事も処理した。知事会が3兆円の補助金廃止を決定する過程も、ヨーロッパで同時に知ることができた。
今朝は、デュッセルドルフから飛行機でパリへ。飛行機はエール・フランス。免税品の販売がない。カタログがない。そうだ、ドイツからフランスへは、国境を越えるが税関は越えない。関税や通貨の点からは、この飛行機は「国内線」なのだ。デュッセルドルフ空港でも、パリのシャルル・ドゴール空港でも、パスポート・コントロールはない。2年前も経験しているはずだが、改めてEU統合の効果を知る。
午後は、パリの隣にあるイッシー・レ・ムリノー市役所を訪問。IT先進市として有名。
夜は大使公邸で、フランスの政治情勢や日仏関係について説明を受ける。新聞だけではわからないことを、教えてもらう。ちなみに公邸は、高級ブランド店が並んでいるサントノレ通りにある。エリゼ宮(大統領府)の並び。正面はパリによくある風格ある建物で、間口は狭い。が、中には奥行きのある庭が広がっている。
フランス大使館にも、総務省から、犬童君と植村君が出向してきている。日本の専門分野に詳しいので、相手とのやりとりの際も非常に円滑に行く。ありがたい。
8月21日(土曜日)
パリで教えてもらった小話を一つ。
フランス人に「日本のイメージは何ですか?」と聞いたら、答えは「1にソニー、2にホンダ」。
「それで、3は?」と聞くと、「3にルイ・ヴィトン」とのこと。
凱旋門近くのルイ・ヴィトンの店舗は、今、工事中。その工事用覆いが、あの鞄のデザインになっている。やたらと目立つ。
「会社の売り上げは、3割が日本でしたっけ」と聞くと、「いいえ、『あの工事費の8割は円でまかなわれている』と言われています」とのこと。「フランス人は、ルイ・ヴィトンを持ちませんから」。
今日は土曜日。市内見学。
もっともバスの中でも、議員の先生方の議論が続く。昼食や夕食も、毎回じっくりと飲みかつ食べながら、話が弾む。今回の視察団は、自民党・民主党・共産党・社民党の先生方がそろっておられるので、議論の弾むこと。なるほど、これが議員視察のもう一つの重要な効用か。議論に参加しながら、納得する。
8月22日(日曜日)
今日も休日で、市内見学。でもまずは、中央郵便局を視察に行く。
こちらでは、日曜日はデパートを始め、ほとんどの商店が閉まっている。その中で、中央郵便局では、「休日窓口」が開いている。早朝のしばらくの時間を除き、開いているとのこと。もちろん、町の中の郵便局は、今日は閉まっている。中央郵便局では、日本の若い女性が3人、小包を送る手続きをしていた。
8月23日(月曜日)
フランスの経済産業省に行く。ここで、財政・経済・産業の他に、郵政事業も管轄している。
フランスの郵便は、ラ・ポストといって、日本とほぼ同じ公社形態。過疎地でのサービス維持について質問がでる。
この国では、子会社をたくさん作って、国外進出をしているようだ。国内での民営化は国外からの参入につながり、それは国外での競争になる。
ドイツやフランスでは、外国と陸続きであること、EU統合で西の先進諸国間での競争と東の後進国への展開があること、かつての植民地諸国での事業展開、という要素がある。もちろんアメリカ資本との戦いも。
島国日本は、その点遅れがちか。ヨーロッパ市場は置くとして、中国と東南アジア市場を考えざるを得ない。そうすると、国営事業より、やはり一定の民営化をする方が、「動きやすい」のだろう。もっとも、私はその面での専門家ではないので、・・。
夜、シャルル・ドゴール発の飛行機で成田に向けて出発。
お疲れさまでした。
8日の期間中、一度も現地通貨のユーロを使わなかった。ホテル代は、カードで支払った。その他は、朝から寝るまで、議員さんと集団行動。食事代は一括して支払ってもらって、帰国後精算とのこと。自由時間がないので、お金を使うことがない。ティップを使うこともない。正確には、公衆トイレに入るときに50セントと、枕元にティップを置くために数ユーロを、補佐から貸してもらった。随行とはこういうことなんだと、改めて納得。